99回目の失恋

デートの約束を取り付けたあと。ひとりで廊下の中央をぐんぐんと歩きながら、生徒手帳の17ページ目を開いた。

 規則・校則の欄に目が留まる。

『学業の妨げとなる恐れがあるため、男女交際は禁止とする』

 明石紋子はその項目をじっくりと黙読すると、ページごとちぎりとった。

 向かいから歩いてくる紅い人影が、すれ違いざま、こちらにはっきりと視線を合わせた。

「こーら。『ながら歩き』は、危ないわよ。ちゃんと前を見て歩くこと」

 はっとして顔を上げる。

そこには背がすらりと高く、女優のようにスタイル抜群の学長がいた。四〇歳になったくらいの女性の学長で、芹沢有栖という。名前まで芸能人のよう。

自由なファッションを楽しんでいて、紅いスーツやワンピースを着ている。長い髪をアップにして、耳たぶには、毎日違うイヤリングを揺らしていた。こうして生徒にもよく話しかけて、困ったことはないかと気を配ってくれていた。当然、生徒人気は高い。女子生徒からは、『アリス先生』なんて呼ばれているのだ。

芹沢学長のおかげで、髪を染めても咎められない、自由な校風を実現しているのだ。

「はい、気をつけまーす」

 紋子は笑いながら、ちぎった紙ごと、手帳をポケットにねじ込んだ。

「どうかしら、学校生活。楽しんでる?」

「はい、おかげさまで!」

 芹沢学長の問いに、紋子は力いっぱい頷いた。

 なにせ、明日は人生で初めてのデートなのだ!


 * * *


 紋子の地元にある大きなS公園は、生き物とのふれあい広場や植物園がある人気スポットだ。

この公園でデートしたカップルは、必ず別れるという。紋子の親の時代から脈々と続く迷信がある。

 負のデートスポット。よりにもよって、紋子と辺見くんはS公園入り口にある噴水前で待ち合わせした。

 噴水を覆う囲いの縁に腰掛けて優雅に相手を待っている人もいたが、紋子にそんな余裕はない。直立不動でただ公園の風景に目をやる。

心臓が高鳴って壊れそうだった。こんなことなら彼氏などつくらなきゃよかった、と思うほどに。行く前から疲れていた。心の中でワーキャー叫んでいた。

 スマートフォンを眺めつづける。辺見くんが、来ない。

 一日じゅう雨予報だけれど、それだけで勝手に中止はないだろう。

 ついに、雲が空を覆い、ぱらぱらと降ってくる。

 紋子は胸いっぱいに雨のにおいを吸い込んだ。お気に入りの、黄色いモンシロチョウ柄の傘を差す。

いくらか気分が落ち着いた。

 公園のケヤキが雨を被って、緑が艶を増している。しかし日差しのない曇天の下では、その輝きがくすんでいた。園内に点在するビニールハウスが、豪快な音を立てて雨を弾いている。

 雨は好きだった。

 この町だけ世界から取り残されたように感じる。その浮遊感を好ましく思う。

そうだ、辺見くん、場所を間違えているのかも。紋子は気を取り直して、駅に向かって歩き出した。

 すると向こうから、傘もささずに歩いてきたのは、当の辺見くんだった。

 しかも傍らには、知らない少女がいた。Tシャツにブルージーンズ、野球キャップといったファッションで、ゴツめのスニーカーもよく似合っていた。遠目からでも、美人なのはわかった。姿勢がよく、モデルのように足が長い。

 紋子が声を上げる前に、辺見くんは少女をかばうようにして一歩も二歩も前に出た。突然の告白をはじめる。

「モンちゃん。ごめん! じつは――」

 雨と電車と車の音ばかりで、声は聞こえない。きこえないふりをした。目を閉じるように、耳を閉じていた。

 

 これは、後で人伝いに聞いた話。

 辺見くんはあのスポーティなファッションの美少女が中学の頃から好きで、アタックし続けたけど脈がなく、その恋は、四角形に閉じ込められた蟹のようににっちもさっちもいかず行き詰まっていた。そこに紋子という都合の良い当て馬が登場。デートの様子を彼女に見せて、嫉妬を買おうという作戦を練ったらしい。

 紋子は心臓の下あたりを撫でる。

 そっかぁ、よかった。

 これで付き合って一年くらい経ってその事実が判明して、その遠回り作戦が功を奏して大仰に振られて……っていう最悪な事態だけは回避することができた。だってまだ初デートすら果たしていない状況だったから。好きになってからまだ一週間も経ってないもん。

 会えば会うほどに、時を経るごとに、紋子はなにも知らずに辺見くんをどんどん好きになっていっただろう。

 きっと、あいつと付き合ったらロクなことがなかったんだ! 

脳内で、駄目な男のあらゆるパターンを思い描く。マザコンとかロリコンとか、優柔不断とか浮気とか、結婚詐欺師だったとか。何の変哲もない水のペットボトルを、高値で買わせようとしてくるとか。

だから、よかったよ。

 紋子は菩薩のようなほほえみを保ち、ただ風邪を引かないように急いで帰宅して熱いお風呂に入った。

 ――S公園でデートしたカップルは必ず別れる?

それもそのはず、日本中で今成立中のカップルのうち、そのまま結婚まで行って生涯添い遂げる確率は非常に低い。

 加えて、公園でデートするのはお金のない若者が中心だろうから、ますます、結婚までいくのは少ない。

遅かれ早かれ、出逢った二人は別れる。

「地獄の果てまで一緒に」

「生まれ変わっても結婚する」等……

これらは、死んで検証できないから分からない。けれど、おおかた、無理だろう。

 生まれ変わった時点で昆虫や微生物になっているだろうし、万一ほんとうに魂が輪廻していても前世の記憶なんて一粒もなく、今好きな相手と来世でも出逢う可能性が低すぎるし、会ったところで惹かれ合わない……

 誰も彼も、世界中の人間の中からぴったり合う相手を探し見つけてカップルにおさまるワケではあるまい。

 だから大丈夫、運命の人なんていないし、だめだったらまた次にいけばよい。

そうして紋子は、98回の失恋をこらえてきた。

 日の残りの時間は、思う存分ダラダラした。寝転がってマンガを読み、ポテチをひとふくろ、ポッキーをひと箱、甘いデニッシュパンを食べ散らかして、シーツに屑をこぼした。

「あははは。あ、っはは……ふっ……」

 紋子は布団をかぶって声が漏れないようにして、泣いた。

 歯磨きをさぼって、涎をたらして寝た。


 普通なら物語はここで終わる。

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