白煙

おイモ

白煙

白煙



 地元の国道の家具屋で買ってもらったすのこベッドは、バラバラの状態で運ばれてきた。料金を送料に上乗せしてでも組み立てをお願いすべきだった。これからこれをやっつけるには疲れすぎている。

 部屋の隅っこには段ボールが積み上がっており、生活用品や食料品の袋(おそらくスーパーの備え付けのレジ袋で一番大きいサイズ)がどっしりと畳の床に横たわっていてほとんど足の踏み場がない。

 母はこれでもかと無駄なものを買い込んだ袋を私の新居に投げ込んで、「心配だわあ」と漏らした。そして荷解きや片付けを手伝うことなく、さっさと帰ってしまった。

 それがだいたい三時間前の話で、最初の一時間は忙しく段ボールを開いては中身の仕分けをしていたが、すぐに飽き、壁にもたれ座り込み煙草に火をつけては燻らせていた。

 引っ越しってめんどくさいな。金も時間もかかるし疲れるし、終わらせる以外に回避しようがない。途中で放り投げてしまったら私はゴミ屋敷で暮らすことになりそうだ。途方もない作業量に虚無を、いつまでも重い腰を上げない自分に嫌悪を感じながら、大人のマルボロを胸いっぱいに吸い込む。

 大学生にもなって私は何をしているんだろう。やっと親離れできるのに自分のものすらまともに片付けられないのか。これだからいつまでたっても母にナメられるのだ。

 立ち上がって作業を再開しようと思った。でも視界に入り込んだ窓の外に気を取られてしまった。

 細く小さい煙が立っている。一階部分からだろうか。空へ一本の糸が伸びているようだ。風一つ吹かず微動しながら揺れる白煙に見とれていた。

 いや、これは火事では?出火して間もない今は少量の煙かもしれないが、そのうちもうもうと黒煙を吹き出すかもしれない。はやく消さなければ、築五十年弱木造古アパートの私の新居は焼失してしまう。それはゴミ屋敷で暮らすよりもきつい。

 私は急いで部屋を出ようとして洗剤の山に足を引っ掛け転んだ。それでも猫のように前足で蹴って駆け出し、物件の下見のときに説明があった廊下の消火器をもぎ取って二階から階段を下りる。リングに指をかけ、ホースを前方に向けながらアパートの裏の庭へ走った。

「火事ですよ、火事!」

 大きな声で危機を叫ぶとともに庭へ飛び出すと、縁側に座っている緑のセーターのおじさんが唖然とした面持ちで私を見た。

「火事、なのかい?」

 おじさんの前に小さく炎が立っている。焚き火ほどの大きさもない。おじさんは片手にトングを持っていた。

 私は消火器のレバーを握る手が脱力していくのを感じた。

「火事ではないのですか」

「紛らわしいことをしてごめんね」おじさんはバツが悪そうに笑った。

 この人は何をしているんだ。こんな昼間の住宅街の木造アパートの庭で火を焚くなんて。

 私はおじさんに近づいて縁側に消火器を置いた。靴を履くのを忘れていた。足の裏が気持ち悪い。火をのぞいてみると紙切れが黒く塵になって燃えている。臭いも紙臭かった。

「何燃やしたんですか」

 おじさんは少々言い淀んでから、「焼き芋が食べたくて」と肩をすくめる。

「いまどきそんな原始的な作り方焼き方しなくてもレンジとか使えばいいじゃないですか」

「レンジ、うち無いんだ」

「お鍋で蒸したら?」

「こうして作ったほうがおいしい」

「はあ」

 それならキャンプ道具とか使ってよ、危ないな。しかし焼き芋って……。今は秋ではなく春なのだ。

 わけのわからない中年を前に突っ立っていると、おじさんは訊いた。

「君、もしかして越してくるって女の子?」

「あ、そうです。今日から上に住みます奥寺です。午前中はばたばたうるさかったかもしれません」

「大丈夫だよ。慣れっこだから……。奥寺さんは大学生?」

「はい。こっちの大学に通うので地方から出てきました」

「そうなんだ。大変だね」

 マイペースな人だな。目尻のシワが柔和な印象だった。前より危惧していた怖そうな住人ではなくてよかった。もっともアパートを燃やされなければだけど。

「ええと、あなたは……」

「私は榮枝。そろそろ芋ができあがる頃だ」

 榮枝さんはトングを火中に突っ込みアルミホイルが巻かれた塊を取り出した。

「ちょうど二つ焼いたんだ。食べない?」

「じゃあ、いただきます」


 榮枝さんは独り身で奥さんがいたらしい。出て行かれたのか、はたまた亡くなられたのか、その辺の詳細は知らない。彼は話さなかったし私も聞かなかった。独りの中年には知られたくないことがたくさんありそうだった。

 こっちに来て初日に縁側で並んで紙臭い焼き芋を食べて以来二ヶ月くらいは挨拶程度しか関わらなかった。仕事盛りの年齢に見えるが、彼がスーツや仕事着を着て外出しているところを見たことがなく、相変わらず謎の中年だった。

 そのうち隣の部屋の水商売稼ぎの風間さんから、彼が物書きをしていることを聞かされた。確かに物書きなら家から出なくていい。スーツ姿を見ないはずだ。風間さんに小火のことを聞くと、「あれは失敗作の憂さ晴らし」らしい。あの日燃やされていたのは紙、原稿用紙だったのだろう。いまどきアナログで執筆するなんて古風な人だ。

 アパートの住人に悪そうな人はいなかった。榮枝さんと風間さん、あとシステムエンジニアの黒田さん、コンビニアルバイトの鈴木さん。あと一部屋は空き部屋だ。

 黒田さんはほぼ会社に住み込みで働いていて週に三日しか帰ってこない。激務でいつも目が充血している。鈴木さんは映画オタクで仕事と寝る以外ずっとDVDを観ているらしい。前に映画の音がでかいと風間さんが怒って喧嘩になり、それからはヘッドフォンをするようになったみたいだ。ヘッドフォンの付けすぎか、二十七歳なのに頭頂部が禿げかかっている。

 まともな人間(何がマトモで真っ当なのかはわからないけれど)はいないけれど、怖い人がいなくて私は安心した。快適な暮らしとは程遠いが、住めば都。壁は薄く、夜の三時くらいに風間さんの部屋から洗濯機やテレビの音がしたりするけれど、私はなんら気にしない。騒がしい家庭で育ってきたし、風間さんが嫌いじゃなかった。彼女はパチンコで勝つとお小遣いをくれたりするから好きだ。

 私はちゃんと土日で引っ越しの荷物を片付け、月曜から大学へ行った。サークルには入らず、すぐ居酒屋でバイトを始め、大学とバイトの毎日を延々と繰り返し始めた。

 学部に友達もできたし、バイト先の関係も良好だった。本当は華の大学生としてサークル活動で遊びたかったけれど、特に興味があるクラブがなかったのと、仕送りが五万しかなく家賃に消えてしまうので生活費を稼がなくてはならなかった。

 私はあまり器用な人間ではないから、あれもこれもと欲張ると破綻してしまう。確実に暮らすことを念頭に生きるほかないのだ。

 六月に入って梅雨前線が日本列島を横断しだした頃、雨漏りが起きた。

 激しい雨に全身ずぶ濡れになって帰ってきたら、ベッドまでもがぐっしょり濡れていた。未だ慣れない日々に疲れ切って不機嫌だった私は、大自然に寝床まで侵され、泣きそうになってしまった。

 初めて大家さんに連絡を取って部屋に来てもらった。大家さんは小柄なおばあさんで、鼻にのった小さな丸いレンズのメガネが可愛らしかった。意気消沈する若い娘に対し、しどろもどろになって慌てて修理業者を呼んだが、雨がひどくてしばらく作業ができないとのことで断られた。

 とりあえず天井に応急処置を施したが、次どこが漏れ出すかわからない不安からなんだかこの部屋に住むのが嫌になってきた。大家さんはそんな私を見兼ねて、今月分の家賃の免除と余っている布団を好きに使っていいと申し出た。

「そんな、いいんですか?」

「いいのよぉ。せっかく真面目で賢い学生さんが頑張ってるのに、これじゃあやりきれないでしょう。本当は家賃も安くしてあげたいんだけれど、管理会社とかもあるし、他の部屋の人たちもいるからねぇ……。ごめんねぇ」

「いえいえ、とてもありがたいです。助かります」

「でも、この雨じゃあお布団持って来られないかしら。どうしましょ」

「今日は友人の家に泊めてもらおうかと」

「そう?なら、明日雨が落ち着いたら屋根とお布団なんとかするからねぇ」

「どうも、ありがとうございます」

 すると大家さんは両手をもじもじとこすりながら訊いた。

「他の部屋の人と仲良くできてます?」

「え、まあぼちぼちです」

「そのう……」大家さんは遠慮がちに口を開く。「音とか臭いとか気にならない?大丈夫?」

 それは心霊的なことでしょうか。流石に怖くて訊けなかった。たぶん風間さんの深夜の洗濯機や榮枝さんの焚き火のことだろう。

「私はそこまで気になりませんけど……」

「ほんとう?」

「まあ、ちょっとそういうのあるなあ、ってくらいです」

「ごめんねぇ。何度も注意してるのだけれどやめないみたいで……」

「そうなんですか」

「それで住民間で問題になったりして、なかなか定住してくれる人がいなくてねぇ」

 確かに嫌な人はすぐに出ていくだろう。風間さんに刃向かって暮らしていけるほど図太い人間はなかなかいない。

「あなたが問題ないならいいのだけれど」

「たぶん大丈夫だと思いますよ」

「そう……安心したわぁ学生さん。もし家賃払うの大変になったらいつでも教えてねぇ。おばあちゃんなんとかしてみるから」

「大変助かります……。そうならないように頑張ります」

 その夜は学部、コース共に一緒で仲のいい涼子の家に泊まった。もう二人友人を呼び、女子会は盛り上がり、とても楽しい夜を過ごした。災い転じて福となす。たまにはこういう日があってもいい。

 翌日、昼前に雨は上がり、夕方アパートに帰ってくると家屋の修繕は済んでおり、暗くなる前に大家さんは分厚いふかふかの布団を持って来た。

 そしてそのまた翌日、授業は午後からだったので大家さんの布団でだらしなくうたた寝していると、窓の向こうに白い煙が昇っていくのが見えた。

 榮枝さんだろう。失敗作への弔いか、焼き芋が食べたくなったのか。それとも、その両方か。

 私は大学へ向かう前に庭に向かった。

「こんにちわ、榮枝さん」

「やあ、お嬢さん」

 榮枝さんはメガネを掛けていた。大家さんの小さなそれとは対照的な大きく分厚い老眼鏡のようなメガネだった。

「お嬢さんなんてよしてくださいまし。私、生まれも育ちも貧しくてよ」

「貧困はさして問題じゃない。みんな貧しい」トングでアルミホイルの塊をつつく。「心が豊かかどうかだよ」

「そうかしら」

「君は豊かな心を持っている。君のいいところだよ」

 いきなり褒められて私はどう振る舞っていいのかわからなくなった。たぶん冗談だろうけれど、榮枝さんがそんな薄っぺらいことをするとは意外だった。

 ふと、今日は火元に灰が多いことに気が付いた。

「なんか今日多くない?失敗作」

 あ、やってしまった。口に出してからはっとした。本人を前にして失敗作はまずい。

 けれど、榮枝さんは遠くを見つめながら微笑んでいた。

「成功はしていないから、ある意味間違っていないな」

「ご、ごめんなさい。決して揶揄するつもりで言ったわけじゃなくて……」

「いいよ。大丈夫。私もそんな風に思っている」

 失言でいたたまれなくなり、もうここを後にしようと思った。でも、榮枝さんが焼き芋を火の中から二つ取り出して、「食べないかい?」と訊いてきたので、ご厚意を無下にはできなかった。

 ほかほかの紙臭い焼き芋を頬張りながら彼は言った。

「たぶん失敗作にとっても悪くないと思うんだ。こうして燃えて美味しい芋を焼いてくれるからね」

「でももったいないじゃないですか。せっかく書いたものなのに」

「いいんだよ。誰かに読まれて呆れられるくらいなら燃やしたほうがマシだ」

「はあ」

 燃やした原稿用紙の枚数が多かったからか、今日の芋はよく火が通っていた。

「まあ燃やさなくてもこれは誰も読まないだろう。私の手によって産み出され、燃やされ白煙となって初めて誰かの目に触れる。それくらいがちょうどいいんじゃないかな」

 榮枝さんはただ立ち昇る煙を愛おしそうに眺めていた。

 私は口の中の芋を急いで飲み込もうとした。パサパサとした食感にだいぶ水分をもっていかれてしまい、食道へ流すのに苦労する。「榮枝さんはそれでいいんですか?」

「ん?」

「失敗作にとっては幸せかもしれないけれど、それじゃ頑張って書いた榮枝さんが報われないじゃないですか」

 私はなんとなく気付いていた。彼は失敗作をきちんと完成させてから燃やしていることを。

「出版社とかで拾ってくれたりしないんですか?誰か面白いと思ってくれるかもしれないし」

「業界はそんな甘っちょろい世界じゃないよ。未熟者は淘汰される。すでに私もその中にいるがね」彼は項垂れて手元の芋を見つめる。全然口をつけていない。「半端に足掻いても見捨てられるだけだ。どうせ切られるなら自分が面白いと思うもので勝負したい」

 榮枝さんが有名な作家なのかは知らない。風間さんも知らないと言っていた。彼の書いた物をアパートの住人はみな読んだことがないし、新聞の隅から隅を見渡しても彼の名前はない。みな彼をよく知っていて、よく知らない。

 彼は不透明だ。でも私を含め古アパートに住む周りの人間からしたら彼がどんな作家だろうがどうでもよかった。彼はただのいつも失敗作を燃やしているおじさんだった。

「すいません、榮枝さんの気も知らないで無神経なこと言っちゃって」

「いいんだよ」

 やっと彼は芋に齧りついた。冷めて硬くなり始めている。

「君みたいな世界から少し離れている人間の言葉のほうが内部や自身のそれより受け入れられる。私はまだ書けるって思えるし、きっと素直に筆を折る気にもなれるだろう。自分で言い聞かせてもだめなんだ。人って案外自分のことを信頼していないから」

「榮枝さんの書いたものを読んでいない私の言葉を受け入れるの?」

「いいや君はすでに私の作品を知っている。文章という形ではないがね。それで十分だと思わないかい」

 彼はトングで火元を突いた。煙がじんわりと昇っていく。

「私にはよくわからない感性だわ。ちょっと難しすぎるし。普通に榮枝さんが書いた本が読みたい」

「本屋で探せばいいさ。まあどれが私が書いたものかは見つけられないだろうけれど」

「大家さんに言って一〇二の鍵を借りたほうが早そうね」

「窓を割るほうが簡単だ」

「そんな野蛮なことはしたくないわ」

 腕時計を見るともう十二時を過ぎようとしていた。

「そろそろ行かないと。榮枝さん焼き芋ご馳走様」

「また焼くよ」

 彼は柔らかい笑顔で見送ってくれたが、その表情の皺にはどこかで孤独と葛藤している苦味があった。



 夏休みに入った。大学の夏休みは小学生のそれの二倍ある。私は文系なので大学内でも履修科目を終えるのが比較的早かった。怒涛の試験期間は早く休暇に入ってほしいと願っていたのに、いざ休みになると退屈に潰されそうになってしまった。

 バイトをみっちり入れたが、それでもやることがなかった。涼子らはサークルや自動車学校の合宿で忙しそうだったし、私はお金がないので旅行ひとつすらできやしない。地元には会いたくない親としょうもない友人しか残っていない。移動費をかけて彼らに会いにいくのは嫌だ。それならこの古アパートでだらだらしていたい。

 ベランダでマルボロをふかしていた。照りつける日差しで手すりが熱を持っていて、寄りかかると火傷をしてしまう。私はぼけっと突っ立って煙草を吸う。じわりとシャツが汗ばんで、額にも大粒のが吹き出てくる。

 最近庭から煙が昇ってこない。調子がいいのだろうか。それとも、やめてしまったのだろうか。執筆とは静かな作業だろうから、外からは彼が書いているかどうかわからない。

 どんな話を書いているのかな。私はさして興味がないくせに生意気に想像してみたりした。

「え、あんた煙草吸うんだ」

 隣のベランダに風間さんが出てきた。タンクトップの胸がだらしなく揺れて、思わず視線を落とした。

「いけませんか」

「いやあ、まあダメとかじゃないし、そもそもあたしにそういうこと言う権利ないもんね」

 彼女はくしゃくしゃの箱からマイルドセブンを取り出すと、ポケットをまさぐって、「ライターある?」と訊いてきた。私は熱い手すりに肌が触れないように腕を伸ばした。隣り合ったベランダの間は私と風間さんが腕を伸ばしてギリギリ届く距離だった。

「さんきゅ」

 彼女は旨そうに煙草を吸う。いかにもワルそうで、不覚にも少しかっこいいと思ってしまった。金髪のショートヘアーが日差しを反射して眩しい。

「風間さん今日起きるの早いですね」この人が起きているのか寝ているのかは音や振動ですぐわかる。いちいち物音がうるさいのだ。

「昨日そこまで遅くなかったからねえ。まあ吸ったらすぐ二度寝かなあ」

「私もまた寝るかも。寝すぎて夜眠れなくなるのがこわいです」

 風間さんは煙草をくわえたまま喋る。「暇なの?でらちゃん。いつもバイトばっかでげっそりしてんのに」

「夏休みなんですよ。何もない休みは久しぶりすぎて困ってるんです」

「へえ。不思議なやつだなあ」

 ひとつ大きな伸びをしてから私を煙草で指して言った。

「じゃあお姉さんに付き合え」

「えっ」

 何に?と聞き返そうとしたが風間さんはささっと部屋へ戻ってしまった。

 付き合えって、パチンコか?私パチンコやったことないし、突っ込む金もないぞ。

 携帯灰皿に煙草を押し付けて蓋をした。そして、風間さんが部屋に戻ってから三十秒も経っていないのに玄関のドアが叩かれて、「早く行くぞー。出てこーい」と彼女の声がした。私は急いで寝巻きのハーフパンツから布団のそばに投げてあったジーパンに履き替え、目についた白いワイシャツを羽織り、玄関へ向かった。


「瓶ビールとチンジャオロース、牛肉細切りチャーハン。でらちゃんは?」

 私は急いで天津飯を指差した。

「あと天津飯。あ、あとあとつまみでザーサイもってきて」

 風間さんは満足そうにメニュー表を折りたたんで卓上調味料の裏に立てかけた。

 まだメニューを決めていないのに風間さんがウェイターを呼ぶから、焦って天津飯にしてしまった。もう遅いけれど担々麺が食べたい気分になってきた。

「ここなかなか美味いのよ。もう来てた?」

「いえ、初めてです」

 風間さんに連れられてやってきたのは駅前の商店街の路地裏にある中華料理屋だった。汚い外観に、入り口のショーケースの食品サンプルは色褪せて黄ばんでいる。なかなか一人で入るには勇気が要る店だ。でも風間さんくらいになると一人でもいけるだろうな。

 中に入ると涼しいクーラーの冷気が顔に当たり、ごま油や中華の香辛料の匂いで胃が収縮し空腹感に襲われた。通されたテーブルへ向かう。床が油でぬるぬるしている。テーブルや椅子もべたべたする。昔、父が「汚い店は美味い」と言っていたのを思い出した。

「風間ちゃん、今日暑いねぇ」

 厨房から低い声がして振り向くと、髭を蓄えた大柄な男が中華鍋を振っていた。

「おっちゃん今日新入り連れてきたよ」

「なになにぃ、若い子?」

「そうよぉ。ビール早くだしてー」

「はいよぉ」

 ばたんばたんと扉を開閉する音がして、男が瓶ビールとグラスを持ってやってきた。

「この子?」

「そう、でらちゃん」

 男は私を目で撫で回すように見ると、厳つい顔から一変して口角を上げ微笑んだ。

「若いねえ。どこの店?」

「馬鹿。うちのアパートのだよ」

「あらやだ!」大げさに口に手を当てて私の肩を叩いた。「ごめんなさいねえ。あんまり可愛いから風間ちゃんとこの女の子かと思っちゃったわあ」

「ええと……」私はおネエ口調の大きなおじさんを前にして困惑していた。

 風間さんが栓抜きでビールを蓋を抜いてグラスに注ぐ。

「この人は高木さん。見た目怖いけど中身は乙女。おっちゃん、でいいよ」

「やだぁ。せめておばちゃんにしてよ」

「いいから腹減ってんの。早く飯作ってくれよ」

「はいはい。待っててねぇ」高木さんはウインクをすると厨房へ帰っていった。そこらの女子より綺麗なウインクだった。

 風間さんは注いだグラスを私の前に置いた。「おつかれさん」と言って自分のグラスを一息で飲み干し、また瓶から注いでいた。私もグラスを持ってビールを飲んだ。冷たい炭酸が喉を駆け抜けて、思わずため息が出た。初めてビールを美味しいと思えた瞬間だった。

「いける口なの?」

 風間さんはタンクトップ姿のままだった。こんな姿で出歩いて視線が気になったりしないのだろうか。

「友達と飲んだりはしますが、ジュースみたいなのしか買いません」

「ああいうのは酒に入らん」

「そうですか?ちゃんと酔っ払いますよ」

「そのうち酔えなくなるよ。あんなのじゃ」

 そう言って彼女はグラスを煽った。水のようにビールを飲んでいる。

 高木さんが小皿のザーサイと餃子を持ってきた。

「まだご飯もの時間かかるから先にこれつまんでて待っててね」

「え、餃子は頼んでないはず……」

 風間さんは私を片手で制して、「いいのいいの、サービスだから」と早速皿のタレポケットに醤油を垂らしていた。

「それ風間ちゃんが言うのぉ?あ、風間ちゃん持ちってことね」

「あたし頼んでないし。あ、ビールもう一本ね」

「はいはい」

 醤油を五、お酢を三、ラー油を二の割合で混ぜ合わせ、胡椒を二回振りかける。これが風間さん流の黄金比みたいだ。

「ザーサイにラー油かけていい?」

「どうぞ」

 ザーサイにもラー油をたらしてやっと風間さんは箸を掴んだ。

「さあ、始めようぜ」


 瓶ビールはもう五本目だ。わたしはグラス三杯で顔が赤くなりだしたので、そこからは飲んでいない。あとは風間さんが一人で空けた。彼女は無限に酒が飲めるらしい。

「こういう仕事してるとね、そんな簡単に潰れられないのよ。接待しなくちゃいけないからね。嫌でも強くなるわけ」

 失敗したと思った天津飯のチョイスはそれほど悪くなかった。玉子はふわふわだったし、甘酢あんは酸味とコクがちょうどよかった。餃子ももちもちでパリパリしていた。高木さんの腕はいいらしい。

 ときたま厨房を見やると高木さんは額に汗を浮かべながら中華鍋を振っていた。午後三時の半端な時間にも関わらず客が増えだしていた。厨房をはじめ、店全体が慌ただしくなってきた。

「そろそろお暇しましょうかね」風間さんは楊枝をくわえながら、財布から五千円を出してテーブルに置き、席を立った。

「おっちゃんごちそうさん。また来るー」

「はいはい。でらちゃん、お腹減ったらいつでも来なさいねぇ。なんでも作ってあげるからぁ」

 どうも、と頭を下げて、そそくさと店を出て行く風間さんの後を追う。

「すいません、私の分まで出してもらって」

「いいのいいの。いつか出世したら旨いもん食わせてよ」

 外気が肌に触れた瞬間汗が吹き出てくる。風間さんは手で首すじを扇ぎながら、「あっつー」と悪態をついた。

 商店街には干からびそうな老人ばかりが歩いていて、倒れるんじゃないかと不安になった。彼らのもやしのように細い手足を見ていると、この街の体力の無さを思い知らされる。同じ東京なのに都心から離れるだけでこんなに違うんだ。

 熱で溶けそうな頭でぼーっとしていると風間さんが私の袖を引いた。

「やっぱ今アイス奢って。出世まで待てない」

 彼女は青果屋の店先に鎮座するアイスボックスを指差す。

「賛成です……。生涯、出世できる気しないし」

 私は煙草に火をつけた風間さんから離れて青果屋へ歩き、アイスボックスから棒状のシャーベットを二本取り出すと、すぐさまレジへ向かった。

「百円でいいよ」

 シミだらけのエプロンを着たおばあさんは斜視気味で焦点があっていなかった。

 財布を開いておばあさんに百円を渡すと、「お嬢ちゃん、これ持ってけ」と店の裏に消えてしまった。

 なんだろう。私はシャーベットの包装を開けてくわえた。ひんやりと冷たさが全身に伝わって気持ちいい。全然確認していなかったけれどピーチ味だった。

 おばあさんまだかな、風間さんのアイス溶けちゃう。自分のを半分くらい食べてしまうと、裏からおばあさんがビニール袋を持って出てきた。

「ナス持ってけ。今ぁ旬だからたくさん入ってくんだけど、この暑さじゃ誰も買いに来んわい。形わるいから裏に置いてたやつだから貰ってくんね」

「あ、ありがとうございます」

 おばあさんから袋を受け取るとずっしり重く、前のめりになってしまった。

「華奢だことあんた。もっと食え食え」

「ははぁ」

 私は微笑みながらおばあさんに頭を下げて風間さんの元へ戻った。

「アイス買っただけなのにナス貰っちゃいました」

「やったじゃん」

 商店街も捨てたもんじゃなかろう、と彼女はシャーベットの包装を開けた。

「これもう溶けてんじゃん!」

 風間さんはアイスが崩壊しないように急いで口に突っ込んだ。すると今度は頭痛で顔をくしゃくしゃにしていた。

 私は「文句は青果屋のおばあちゃんに言ってくださいね」と笑いながら言った。


 駅前の商店街から私たちが住む古アパートまではだいたい一キロ。商店街を出て国道沿いをひたすらまっすぐだ。

 炎天下で歩き続けるだけで汗だくになる。風間さんはタンクトップをぱたぱたと仰いでいた。そのたびにブラがちらりと見えた。

「飯食いにきただけなのに汗だくだ」

「はやくシャワー浴びたい」

「そうね」彼女はため息をついた。「暑いと暑いってことしか考えないから楽よね」

「どういうことですか?」

 風間さんは振り返って私を見た。瞳に虚ろな影が映っている。

「余計なことを考えなくなるってこと。未来とか昔のこととかどうでもよくなる。それより、はやくシャワー浴びたいとか、冷たい麦茶を飲みたいとかのほうが大事でしょ」

「まあこんなまとわりつくような熱気は不快ですし」

「そう、人はまず不快なことを取り除こうとするのよ。この暑さをどうにかしたい、エアコンのがんがん効いた部屋で涼みたい。それでいいの。これが人間の本能ってやつでしょ」

 彼女は前に向き直ってふらふらと揺れながら歩く。まだアルコールが残っているんだろう。

「あたしはその本能ってやつが強いのかもしれない。このクソ暑い夏から逃げたくなるように、人生のいろんなところで不快じゃない方へ楽な方へと生きてきた。そして今みたいなあたしになった。とてもしょーもない人間にね」

 彼女の様子がおかしいと気づくのにそんな時間はかからなかった。小粒の涙が頬を伝ってゆくのが後ろから見えた。

 泣き上戸という厄介者にはまだ出くわしたことがないから知らないが、今の風間さんのような人を指すのだろうか。情緒が不安定で、私にはどうしたらいいかわからなくなった。

「あんたから見てあたしがどんな人間か、あたしにはわかってる。あんたは優しいからたぶんひどいことは言わないだろうけれど、所詮あたしは腫れ物みたいな存在でしょ。自分でそれぐらいはわかってる」

「そんなことないです。風間さんは自分を卑下しすぎですよ」

 ふふっ、と彼女は笑った。

「あたしは毎晩毎晩自分が嫌いになる。深夜になって暑さが紛れると、過去の後悔と貧しい自分の未来のことばかり考えちゃって嫌になる。受け入れたくなくてまた逃げたいなんて思っちゃう。嫌なことを避けてばかりいたら生きるのがとても辛くなってきた」

「風間さんだって頑張って働いてるじゃないですか。立派ですよ。私なんてただの学生でアルバイトですよ。親からの仕送りしてもらってるくらいですよ。風間さんは一人で生きてるし偉いですよ」

「あんたいい子だね」国道沿いの道からアパートのある住宅街へ曲がるとき、彼女は立ち止まった。「あんたを見ているとあたしは自分が情けなくて……。悪いね、あんたに愚痴っちまって……。あたし……」

 風間さんは口を動かしながら、ぐらりと揺れた。私はナスの入ったビニール袋を地面に落として風間さんが倒れないように抱き支えた。

「ちょっと!大丈夫ですか?」

 風間さんは口をぱくぱくとさせて、瞼をぎゅっと閉じていた。汗ばんだ額に触れると熱湯を入れたマグぐらい熱い。

 熱中症……?さっきからふらふらと言動がおかしくなったのは暑さのせいなのか?

 私は彼女を背負ってアパートまで走った。風間さんが軽くて助かった。この人はすらっとしていて無駄な贅肉がない。胸は私の二倍くらいあるけれど。

 アパートに着いてすぐに庭へ向かった。案の定、榮枝さんが縁側にいた。

「榮枝さん!風間さんが倒れました!」

「なんだって」


 榮枝さんに手伝ってもらって縁側に風間さんを下ろし、そのまま横にした。風間さんは苦しそうに呼吸をしており、呼びかけると反応があった。

「氷あります?」

「いま用意しよう」

「これ、救急車とか呼んだほうがいいですか」

「とりあえず冷やしてから考えよう」

 榮枝さんは部屋から氷水を入れたビニール袋を持ってきた。私はビニール袋を見て、道端に置いてきたナスを思い出した。風間さんの額や手足にタオルで氷を固定している榮枝さんに尋ねる。

「ポカリとかってあります?」

「すまない、うちにはないな」

「私ちょっと自販機探してきます」

 ポカリを買いに行くついでにナスを回収しようと思った。私は庭を飛び出して国道に出る曲がり道へ走った。途中でコカコーラの自販機があり、アクエリアスを買い込んだ。

 ナスの袋は道にそのままの状態で落ちていた。それを拾おうとすると向こうから鈴木さんがやってくるのが見えた。

「奥寺さん、なにしてるの」

「大変なんです。風間さんが倒れちゃって」

「は?風間さん?」鈴木さんは首を振った。「困るよなあ、ほんと。人に迷惑をかけるばかりだよあの人」

「何言ってるんですか。熱中症ですよ!」

「どうせ飲みすぎだろう。水でも飲ませときゃいい」

 私は鈴木さんを睨みつけて、走ってその場から離れた。頭に来て一歩一歩に力がこもった。大量のナスと両手のアクエリアスが無駄に重く感じた。

 人が弱っているというのになんて態度だろう。きっとあの男は一日中映画を見ているから人間性がおかしいんだ。腹が立つ。

 アパートに戻って縁側へ向かうと榮枝さんはいなかった。ナスを適当に置き、ペットボトルのキャップを開けて、風間さんに呼びかけた。

「アクエリ買ってきたんですけど飲めます?」

「ああ、うん。置いといて」

 弱々しいが回復しているようだった。

 榮枝さんが部屋から出てきた。

「水を飲ましたら吐いてしまってね。私は介抱なんてもうしばらくしていないから慌てたよ」

「すいません私がいなくなっちゃったから」

「大丈夫。意識もちゃんとしてきたし熱も下がった」

 水の入ったコップの隣に体温計があった。

「電解質を摂らないといけないし奥寺さんが買いに行ってくれて助かったよ」

「アクエリでよかったでしょうか」

「ポカリスエットじゃないといけないってことはないだろう。詳しくないからわからないけれどね」

 風間さんは上半身を起こしてアクエリアスを手に取った。

「ゆっくり飲んでね」

 彼女が液体を口に含み喉へ流していくのをじっと見つめていた。前髪がいくらか額にくっついている。ふと少し子供っぽいなと思った。

「このままここにいるかい?私は構わないが」

 風間さんは小さく首を振った。「いや部屋に行く」

「氷はある?」

「ある」

 しばらくしてから縁側を後にした。私は肩をかして支えながら風間さんを二階へ連れていった。風間さんの部屋に入ると甘いローズマリーの香りがした。ああ、女の人の部屋だなと月並みな感想をもった。

「あとは大丈夫。ひとりでなんとかなる」

「だめですよ。ちゃんと横になって」

「ああ、そう」

 リビングに出ると案外部屋は整頓されていて綺麗だった。もっと雑多でゴミが散乱しているものだと思ったが(それは私か)、風間さんはきちんとしていた。

 畳んであった布団を伸ばして彼女を寝かした。私は冷凍庫から製氷皿を取り出してビニールに移し、タオルで包んで氷枕を作り、風間さんの頭の下に置いた。

「エアコンつけますか?」

「いや、窓開けとくだけでいい」

 窓を半分ほど開けて網戸で隙間がないようにする。少しだけ暑さがましになったような気がする。これからだんだん青空が黄金色を帯びて日が沈んでいく。

 ぼーっと外を眺めていると、ジーパンの裾が引っ張られた。

「ごめんね。あたしが誘ったのに」

「謝ることなんてないです。みんなピンチのときはお互い様です。そうでしょ?」

「そうね」風間さんは微笑むが、眉間にしわが寄っていた。まだ眩暈がするのかもしれない。

 そういえばこの人今日はずっとすっぴんだったな。切れ長の目といい、シミひとつない肌といい、どこのパーツも優れている女性だこと。

「嫌なことがあったんだ」風間さんは目を閉じたまま口を開いた。「ほんとは人に当たったりするつもりはなかったんだけど、ごめん、わけわからないよね。許して」

 彼女は私の裾から手を放して、寝返りをうち私に背を向けた。私は枕元に膝をついて屈む。

「あのね、風間さん。私は風間さんがどんなつらい思いをしているか、嫌な目に遭ってきたかを知らない。私も大した人間じゃないから何もしてあげられない。救いになる言葉をかけるなんて私には無理だと思う。でもねこれだけは言えるの。私、風間さんのこと好きだよ。私は風間さんのわずかな一面しか知らないけれど、それでもあなたを尊敬できるし、隣の部屋が風間さんでよかったって思ってる。どうか自分を責めないであげて。つらくなったら一緒にご飯食べに行こうよ。私いつでも付き合うよ」

 風間さんの髪を撫でてみた。年上の人にこんなことをしていいんだろうか。でもこうすることで私も安心できる気がした。

 彼女は身動きせず、何も言わなかった。やがて寝息が聞こえてきた。私はそっと立ち上がり、リビングから出ると、キッチンに置いたあった鍵を持って部屋を出た。鍵をかけたあと、ドアの郵便受けに鍵を落とした。

 庭に行くと変わらず縁側に榮枝さんがいた。

「彼女大丈夫?」

「はい。寝ちゃいました」

 私は榮枝さんの隣に腰掛けた。まだコップと体温計が置いてあった。それとナスの袋も。

 榮枝さんはポケットからショートホープを取り出した。私は少し驚いた。

「榮枝さんも煙草吸うんですね。知らなかった」

「たまにね」火をつけて紫煙を吐いた。「ここの住人はみんな吸うし、なんだかんだでやめられないでいる」

「吸ってる人見ると吸いたくなりますもんね。私にもください」

 まったく、と太くて短いショートホープを一本寄越してライターで火をつけてくれた。

「あの人は三年ほど前にここに住み始めてね」榮枝さんは深くフィルターを吸った。「いつもはへらへらと調子がいいが、たまにひどくつらそうな顔をしている。初めて会ったときは顔に痣があったし、わけありなんだろうがどうしたもんかと思ったよ」

「そうだったんですか」

「君が来てよかったよ。気が合うみたいだし」

 私も深く吸ってみたが、むせ返ってしまった。

「仲良くなってもたぶん私は風間さんに何もしてあげられません」

「いいんだよ、何もしなくて」煙草をゆっくり吸い込み、時間をかけて煙を吐き出す。「人はみな自分で決めて自分で生きていく。奥寺さんが何かをしてあげてもあげなくても彼女はちゃんと自分で立ち直っていくだろう」

「でも、あの人たくさん傷ついているみたいなんです。そんな突き放さなくても」

「違うんだ」

 榮枝さんは私を見た。穏やかな顔をしている。私の父でもこんな顔はできないだろう。

「君の役目は頑張って生きている彼女の姿をちゃんと見ていることなんだ」

「見ている?」

「そう。彼女は強い人だから大丈夫。でも本人が丈夫かどうかに関係なく、誰かが彼女の生き様を見ていてあげる必要がある。もしまた転んで失敗したとしても、それまで必死に踠いて頑張っていたことを君は見ていたから知っている。それが彼女の希望となる」

 彼の人差し指と親指の先でつまんでいるショートホープは、まもなくフィルターに火種が到達して消えてしまう。

「誰かを救いたいときに大事なのは手助けや同情じゃない。そういった存在の証明なんだ。人が自分を信頼しないが、自分を信頼してくれる人のことなら少しは信頼できる。ただ見ているだけ、見てもらうだけ、それで救える心がある」

 私は細く長く昇っていく白煙を思った。私はそれを何度か見ている。

「だからあの人を見守ってあげてほしい。私よりも君のほうが適任だろうし」

「言われなくてもそうしていましたよ」

「そうか」

 彼はまたいつもみたく遠くを見ていた。もうすぐ日が落ちる。



「君が好きなんだよ」

 最寄りの駅に向かっているとき、最上くんは私に告白した。それもよりによって人通りが多い交差点の手前で。

「ちょっと待って……」彼の声は透き通っていてよく通る。信号が赤になるタイミングだったから、数多くの通行人に聞かれて私は公開処刑を受けていた。

「今そんな言われても……」

 私は周りの視線を感じながら、しどろもどろで言葉を濁した。彼の瞳は熱を帯びていて、今に賭けているようだった。信号のタイミングは彼が図ったのだろう。私に逃げられないように。

 二人の間に重たいビル風が吹いた。マフラーの隙間に入り込んで身体が冷える。東京の冬はなんだかんだ寒い。東北出身の私でもちゃんと着込まないと凍えてしまう。もうこの土地に順応している証拠だろう。

 どうしたものか。私は今とても逃げ去りたい。しかし家に帰るにはこの路線を使うしかない。一駅歩くか。でももう終電ぎりぎりだ。一駅先へ走っている間に最終電車は私を置いて過ぎ去っていくだろう。

「その……後日返答じゃ、だめです?」

 彼は虚を衝かれたように狼狽えた。たぶん今成否をはっきりさせたいのだろう。この状態を数日引っ張るのは彼には重すぎるのだ。

 けれど、何の準備もしていないのにいきなり難題をぶつけられる私の身にもなってくれ。審判を下すのは私のようだし、数日困惑し続けるのは私の方だ。

 彼は声の出し方を忘れたみたいに咳払いをしてから言った。

「いきなりでごめん。僕、待ってるから」

「うん」

 信号が青になって立ち止まっていた人たちが一斉に歩き出した。私たちを横目につまらなそうな顔をしていたり、にやにやしているのもいた。最上くんはやっと自分らが見世物になっていることに気がつき、ピーコートのポケットに手を突っ込み俯いた。

「僕あっちだから」

 そう言って、この場から逃げるように背中を曲げて大股で歩き、人ごみに消えていった。

 結局彼が逃げてしまうのか。空気を読めないくせに根性もないとは。まあ無理もない。こういった慣れている男ではないだろうし。私は点滅しだした交差点を走って渡る。肌寒さの中に居心地の悪い熱が蠢いているのを感じていた。


「で、逃げてきたわけ?」

「違いますよ」卓上の調味料でタレを作る。醤油五、酢三、ラー油二。「私は逃げてもないし、攻めてもない。ただの被害者ですよ」

「被害者は言い方ひどいんじゃない?合コンで知り合ってそこから何回も会ってるんだから、でらちゃんの意志も少なからずあるわけでしょ」

「まあ、そうですけど」

 風間さんの焼いた餃子をタレに浸して頬張る。うーん、高木さんが焼いたほうが美味い。なんというか、少し生焼けだ。

 向かいに座る赤いチャイナドレスの風間さんが一瞬神妙な面持ちで私を見た。餃子の感想が欲しいのか。

「もっと焼いたほうがよいのでは」

 すると厨房から怒鳴るような大声が飛んできた。

「だからあと十五秒待てっていったじゃないの!」

「えーっ、もう十分でしょ。火通ったってちゃんと」

「変わるのよ!その数秒で!食ってみりゃわかるわよ!」

 風間さんはもごもごと口答えしながら、割り箸を雑に割り、餃子を口に突っ込んだ。

「ほんとだ。なんかぬめぬめしてる」

 高木さんのため息は厨房を越えてここまで聞こえてくる。

「まったく……。何回焼けば覚えるんだか……」

 私は苦笑しながら餃子をつまんだ。

 風間さんは夏が終わると仕事を辞めて高木さんの店でバイトを始めた。倒れたときに彼女の中で何かが変わったらしい。数年続いていた夜の街とはあっさりお別れした。

 ウェイター兼キッチン兼皿洗いで風間さんは高木さんに雇われた。「油すごすぎるわ。ずっと皿洗ってる。水商売やめても水仕事だねこりゃ」でも、あのときの情緒不安定な風間さんはもういなかった。のびのびとやっているらしい。アメ横で買ってきた大きなスリットの入ったチャイナドレスで店の客足が伸びて調子乗っている。また、たまにこうして私が彼女の作る料理の練習台になったりもする。

「にしても」風間さんはまずそうに自分の焼いた餃子を咀嚼する。「でらちゃんが色気づいてきたなあ」

「大げさですよ。私別にあの人のこと好きでもないし」

「なら最初に誘われたときに断ればよかったじゃん」

「時間が経てばだんだん好きになるかもって期待してたんですよ」

「甘いよー。びびっとこないやつはもうこないって」私に向けて箸を指す。「そういうのはあとがなくなって自分に言い聞かせるんだよ。私にはたぶんこの人だ。なんとかしてこの人を好きにならなくてはならない!って。恋じゃなくて自己暗示だよ」

 風間さんは立ち上がって厨房の冷蔵庫から瓶ビールとグラスを二つ持ってきた。片方を私に差し出す。

「とにかく断るタイミングを逸したでらちゃんも悪い」

「そんなあ」

「恋愛とはそういうもんよ。盲目になった馬鹿どもを闘牛士さながらひらりとかわさなくてはいけないのよ」

 仕事終わりのビールはうめえ、と風間さんは口の周りに泡をつけながら全身で歓喜していた。厨房から、「給料から天引きしとくからねぇ」と高木さんの声が聞こえた。

「まあでもその男ちょっと変わってるね。気障なのかうぶなのか」

 勧められたグラスに口を付ける。「悪い人ではないんですけどね」

「悪そうな人はでらちゃんには寄って来なさそう」

「なんか貶された気がする……」

「いいこといいこと」嘲った口調から一変する。「けど変な男には気をつけなきゃだめよ。でらちゃんはそういう男呼び寄せる感じがする」

「やめてくださいよ。私の何が原因でそうなるんですか」

「さあ」彼女はグラスを煽る。「わかんないけどあたしの勘がそう言ってる」

 そんなめちゃくちゃな、と思ったが、風間さんの勘は鋭そうだ。

「こればかりは自分の男運を恨むしかないね」

「まだ決まってないですよ。憶測に過ぎません」

「そういう星に生まれついた者は認めたがらないのよねえ」

 風間さんは残りの餃子を片付けると皿を持って厨房へ向かった。

「おっちゃんもそう思うよね」

「正直私も同感だわ。めんどくさいのに好かれるタイプよ、でらちゃんは」

「そんなあ」

 高木さんまでそう言うならおそらくそうなんだろう。私はげんなりと肩を落とした。


 年末に差し掛かり夏休み前同様に試験が立て込んで私はささくれ立っていた。

 試験は別段難しいものではない。けれどいい加減な教授が多いせいで、どこをどう押さえておけばいいかいまいち不透明で私は対策に苦しんでいた。涼子に相談しても彼女はさっぱり勉強していなかった。結局私がノートを貸す羽目になってしまい、不安要素は消えないまま、私は教科書を一から洗うしかなかった。

 バイト先の居酒屋が忘年会シーズンで繁忙期に入り、シフトが絶え間なくなった。大学とバイトで忙しい日々の合間にペンシルを持ち、疲弊していった。

 最上さんはちょくちょく連絡を寄越した。「遊びに行こう」「美味しいお店があるんだ」「また面白い映画を見つけたよ」私は忙しいと断っていたが、ついに「勉強しなくちゃいけないんです!そんな暇ない!」と強い語気で返すと、さすがに圧されたのか、「ごめんね」と返事があって以来、音沙汰がない。

 彼も大学生のはずだからこの時期は忙しいはずなのに。それも理系大学だし私よりも試験はハードなはずだ。勉強しなくてもパスできる要領のいい人なのだろうか。でも普段の彼からはそうは思えない。彼がそういった話をするのを聞いたことがない。大学がどうとか、授業とかサークルとか、そういう話を私は彼の口から聞いたことがない。

 私は一旦彼のことに関する思考に蓋をして、目の前に集中した。そうして黙々とこなしていく自分に、ああ本当に恋心を抱いていないんだな、と納得した。

 試験が終わってクリスマスが過ぎて、大晦日もバイトに入った。私は身体のパーツの一つ一つに油を差さなくてはいけなくなるほど消耗していた。最上さんからの連絡はなかった。店長から繁忙期に頑張ってくれたとのことでインセンティブをもらった。後日、口座に三万も入っていて、学生バイトの税金の上限を超えてしまわないかしらと心配になった。まあ、そんなことは思っただけで、すぐにブランド物の財布を買ってしまったし、お金なんてもらえたら嬉しいよね。

 最上さんからの連絡があったのは元旦の朝だった。初日の出の写真が送られてきた。写真だけでメッセージは無し。私は年越し元旦なぞ関係なく朝十時ごろに目が覚めてそれを見た。「綺麗ですね」と返答すると、「もう無視されると思ってたよ」と弱気な返事がきた。

 地元行きの高速バスを昼過ぎに予約していた。まだ家を出るには時間がある。私は彼に電話をかけることにした。しばらくそっけない態度をとってきた申し訳なさと、時間が迫っているから長くならないだろうという気軽さからだった。

 2コール目で彼は出た。

「どうしたの急に電話なんて」

「いえ、その、あけましておめでとうございます」

「ああ」彼はくすっと笑った。「あけましておめでとう」

「ごめんなさい。いっぱいメッセージくれたのに」

「大丈夫。僕こそごめん。君が大変だったのに無神経なことばかりして」

「謝らないでください」私は電話越しに手を振った。「いろんなことが立て込んでイライラしてたんです。たぶん試験は大丈夫だと思います。最上さんはどうです?」

 彼は動揺したのか妙に高い声で答えた。「試験?まあ、そこそこかな。うち難しいし、ちょっと落としたかも」

「そうですかー。やっぱり理系って大変ですね。私、文系でよかったなあ」

「文系も文系で大変だよきっと。僕はたぶん苦労すると思うね」

 最上さんは早口で続ける。

「日の出の写真見た?よく撮れてると思うんだよ。東京タワーで撮ったんだ。恥ずかしながら東京タワーに上ったのは今朝が初めてだよ。奥寺さんは東京タワーに上ったことある?」

 矢継ぎ早にべらべらと喋る彼に私は少し困惑した。「写真見ましたよ。すごい綺麗でした。東京タワーは上ったことないです」

「そっかぁ。なかなか機会がないと行かないよね。高いところ苦手でなければ今度一緒に上ろうよ。やっぱり日本人たる者、東京タワーは上らにゃいかんね」

「た、高いところは大丈夫ですが、まあいつか上りましょう」

「スカイツリーは?奥寺さん東京に来てまだ少しだよね」

「はあ」私は時計を見て時刻を確認した。まだ早いがもう通話を切り上げてもいいだろう。「スカイツリーも上ったことないです。高校の修学旅行で下から見上げたくらいで……。その、私そろそろ実家に帰るバスに乗らなくちゃいけないので」

「あ、そうなんだ」彼は声のトーンをやっと落とした。「ごめんね、君がかけてくれたのに僕ばかり喋っちゃって」

「いえいえ、気にしないでください」

「また気が向いたら連絡してよ。僕は君のことを考えないで誘いすぎる。だから僕からはなるべく連絡しないようにする。どうかな、僕なりに考えてみたんだけれど」

 私は胸の奥を突かれた気がした。

「そ、そうですね。何かあったら連絡します」

 そう言って私は一方的に電話を切った。

 何かあったら電話する、ってなんだそりゃ。事務的すぎる。気を遣ってるつもりでいたら気を遣われてしまった。それになんだろうこの胸の奥の罪悪感。私は彼に何かひどいことをしている気がする。

 ここしばらく忙しくて大切なことを忘れてしまっているんじゃなかろうか。ええとなんだっけ。前に最上さんに会ったときに何かあったっけ。

 あ、告白されたこと、すっかり忘れてた。


「地元どうだった?」

 大江戸線に乗って赤羽橋で降りると最上さんが改札で待っていた。一眼レフを首から下げている。先月の告白の切迫した雰囲気はまるでなく、温厚な彼がそこにいた。

「どうと言われましても……」

「そうだよね」彼は鼻をこすって目を細める。「僕東京で生まれ育ったし今も離れずにここにいるから地元に帰るって感覚がわからないんだ」

「羨ましい限りですよ。田舎の人間からしたら東京出身なんて肩書きは喉から手が出ちゃうほどです」

「僕らは都会のありがたみだったり恩恵を感受しにくいから、逆にいいなと思う」

「どうもバカにしてるようにしか聞こえませんね」私は笑って言った。ちょっと無理にして造笑いになっていないか不安になる。

 最上さんの告白に対して、後日返答と濁してからもう三週間が経っている。すっぽかしていたことを思い出してからは気が気じゃなかった。久々に実家でゆっくり、なんてできなかった。親が口うるさかったのもあるけれど、最上さんへの申し訳なさが頭を支配していた。これは恋ではなく罪の意識だ。

「じゃあ東京タワー行こうか」

 ピーコートの背を丸めて消えていった彼が、今度はしゃんとして桜田通りを歩いている。風は冷たいが空は快晴だ。顔を上げると芝公園の緑と青空の背景に赤い東京タワーがそびえ立っている。

 私の海馬の中で、「僕、待ってるから」と彼の声がリフレインしていた。それから何度も連絡や電話、そして並んで歩く今もあのときの返事の催促はない。彼も忘れている?いや、そんなはずはなかろう。

「大丈夫?疲れてる?」

 気がつくと最上さんは私の顔を覗き込んでいた。

「いえ、なにもないです」私はあたふたしながら首を振った。「ちょっと考え事してて」

「そう。無理しないでね。今日は早めに切り上げよう」

「でも……」

「君に付き合わせているのは僕の方だからね。それに今日は東京タワーに上るしか予定を考えていないんだ」

「そうですか」

 なんだか見透かされているような気がしてきた。後手後手になっている。


 東京タワーに上るにはお金がかかるのか。私は初めて知った。最上さんが二人分を支払ってくれた。私が慌てて財布を取り出そうとしてるのを彼は止めた。そのとき、また彼に察されたと感じ、気落ちした。

 展望台で見渡す東京はどこかジオラマみたいで感動しなかった。拍子抜けとまではいかないけれど東京は上から見るより下から見たほうが迫力がある。

 最上さんはせっかく一眼レフを下げているのにカメラを構えなかった。

「撮らないんですか」

「うん」

「なんで」

「前に撮ったからね」

 彼は胸のカメラを撫でる。

「そういうもんですか」

「まあね」東京湾の方面を眺めながら彼は続けた。「実を言うと、撮ってもいいんだけど撮りたくないんだ」

「撮りたくない?」

「そう」

 首から一眼レフを下げているような人が、いわゆる絶景を前にして撮りたくないなんてことがあるのか。私にはよくわからなかった。

「元旦の初日の出があまりにもよくできていたから、とかですか?」

「いやそんなこともない。あれはたしかによく撮れたけれど、僕は写真の出来不出来にあまり興味がないんだ」

「ふうん」

 ますますさっぱりになってきた。芸術感性なのかな。私には一番難しい分野だ。

「なんだろう、たぶん」最上さんは耳の下を掻いた。だいぶ襟足が伸びている。「この風景の存在意味を考えてしまうんだ。たとえば東京タワーからの景色の写真がどうしても必要なら僕はシャッターを切るけれど、今はそうじゃない。初日の出も、ただの初日の出だったら僕は撮っていない。でも写真は時間を切り抜くものだし、とにかく切り抜きまくってそこから良いものを選抜していくものだよね。どうしてか僕はそのやり方が好きじゃないんだ。別にぼやけていたり、ある程度チャンスを逃してしまっても僕はその一回きりの一枚がいい」

 やっとカメラを手に持って、彼は続ける。

「記念メモリアルで撮っておいて、数年後に見直すような写真がすばらしいとは思えない。写真をただの記憶情報にするにはもったいない。ひどく抽象的な言い方になってしまうけれど、僕は写真やその風景をキーにしたいんだと思う。扉を開いたり、前に進むためのヒントに使いたいんだ」

 そしてレンズを覗き込み、私に向けた。展望台の客たちの雑音の中でもそのシャッター音は確実に私の耳に届いた。

「どうして私を撮ったんですか」いきなりでびっくりして少し声が上擦ってしまった。

「気を悪くしたなら謝るよ」一枚だけ撮って、それだけで彼はカメラを手放した。「たぶんこうするのが正しかったんだ」

「何がですか」

「奥寺さんの不安や葛藤がこの写真にはそのまま浮かび上がってくる」

 私はぎくりとした。背筋に冬風が通り抜けたように冷たい感覚が走る。

「君は僕に罪悪感を抱いたりしているし、それに対して僕がどう思っているのか非常に困惑している。そして、気後れして何も言い出せずに自分を責めている」

「ごめんなさい、私……」泣きたくなった。悪いのは私なのだから。

「いいんだよ。僕は気にしていないし、君も気にしなくていい」彼はけらけらと声を上げて笑った。「ごめんね、こんな意地悪なやり方で追い詰めたりなんかして」

「どうして催促とかしなかったんですか」なんとか涙を堪える。「私忘れていたんですよ。後日返事するって自分で言ったのに」

「正直迷ったんだ。君が忘れているのか、わざとスルーしているのか。僕はこう口ベタだし女の子の気持ちを汲むなんて苦手だから催促なんてできなかったよ」

 彼はまた東京湾方面を眺めていた。大きなビルはちゃっちく見えて、立ち並ぶ小さな建物や道路を走る車の多さ、密集度合いに圧倒される。

「だからなんとなく日の出を撮ってみた。君との距離を一度離そうと思ったんだ。日が昇るなんて毎朝のことだし、初日の出なんてたまたま縁起がいいだけだ。僕が君を好きなこと、君がどう思っているかをどうでもよくしようとしたんだ」

「どうでもいいだなんて……」

 彼は首を振った。

「実際そうだろう。君は返答に窮していたし、今も困ってる」

 私は何も言えなかった。

「あの告白をなかったことにしようとは言わない。僕は今でも君が好きだ。でも別に白黒はっきりさせようとはもう思わない。ただ僕の気持ちやスタンスを君に伝えておきたかったってことにしてくれないかな。こんなやり方は自分でも辟易するけど、僕にはこんなやり方しかできない」

 思わず口に出てしまった。「最上さんはそれでいいんですか?」

「いいよ」即答だった。「あの夜アガっちゃて迷惑をかけたのは事実だもの。こういう状況を招いたのは僕の責任だ」

「その、責任とかじゃなくて」

「いいんだ。去るも残るも僕には決定権がない。君が嫌なら僕は君の手を握れない。それに好意を持たない相手からの好意は不快でしかないよ。そんなひどいことはできる限りしたくない」

「そう……ですか」

 西日が辺り一面をオレンジに染める。眩さの中で最上さんが一身に夕日を浴びていた。

「もう帰ろうか」

 東京タワーから赤羽橋までの短い桜田通りを少し離れて歩いた。最上さんは背筋を伸ばして歩く。私は下ばかり向いていた。

 赤羽橋駅の改札前で私たちは立ち止まった。最上さんは私が改札をいくのを見届けるつもりだろう。たぶん彼も大江戸線に乗って帰るのだろうが一緒には乗らないらしい。私は意を決して重い口を開いた。

「私はあなたのことたぶん好きじゃないです。見た目も理屈っぽいところも。けれどもう少し考えてみたいんです」

 彼は目を丸くしていた。

「また誘ってくれませんか」

「わかった。連絡するよ」

 今度は私が逃げるように改札を抜けた。後ろから空気の読めない大きな声で、「ゆっくりいこう!ゆっくり!」と最上さんが笑っていた。


「あんたもめんどくさい女だこと」

 風間さんは優雅に長い脚を組み替える。今日は紺に金色の刺繍が入ったドレスだ。どうしてもこの人からはお水の感じが消えない。

「どうしてでしょうね」

「まったく。若いんだから無理するこたあないのに。もっと男漁ってみなさいよ」

「私そういうの向いてないんですよ」

「向いてる向いてないじゃなくて経験を積めってことよ」

 彼女は一口で自分で焼いた餃子を食べる。もう客に出せるくらいには上手になった。

 最上さんとはふわふわした関係を続けている。付き合っているわけではない。友達のような距離感を保っている。手は繋がないけれど週末には会う。我ながら奇妙だなと思うけれどこれくらいが心地いいんだと感じている。

 しかし最上さんが同じように思っているかはわからない。無理をしているのではいかと不安になる。このはっきりしない関係が彼を自由から遠ざけて縛り付けているかもしれない。彼は私を拒絶できないのだ。幕を下ろすのは私の役目だと思う。

 なんとなく勘づいていたが、彼は大学をやめていた。夏休みが終わっても彼は日々を止めなかったみたいで、私が彼に初めて出会った秋の終わりにはすでに学費を払わずに学校からシャットアウトされていた。しばらくは大学生の体面を保っていたがもう何も隠さなくなった。別に私は彼が大学をやめていようがどうでもよかった。それは彼の人生で、共同体ではない私にはどうこう言う権利なんてないだろう。

「やっぱりでらちゃんって変わってるよね」

「なんとなく自分でもそう思うようになってきました」

 風間さんは紹興酒をコップに注いで一息で飲み干す。

「もうあたしはあんたにどうこう言うのやめる」

「私は風間さんみたいに可愛くないし綺麗でもないから女としてうまく生きられないんですよ」

「そうじゃなくてねえ」

 そこに高木さんが牛肉細切りチャーハンを持ってきた。

「そもそも風間ちゃんがあれこれ言ってもしょーがないのよお。でらちゃんのやり方なんだから」

「ま、そうね」

「いいからお皿洗ってちょうだい。これから夜の仕込み始めるんだから」

「はいはい」

 二人は厨房に下がっていった。私はレンゲを持ってチャーハンの山を崩した。


 アパートへ帰る頃にはもう太陽が傾いていた。冬の乾燥した空気でオレンジ色の光がよく通る。午前中に最上さんから連絡があった。夕方四時半に君のアパートに本を持っていく、とメッセージが残されていた。

 ドフトエフスキーとロシア文学。昨日の授業で出された課題レポートだ。提出までの期間はわずか一週間で、私が動いたときにはすでに図書館の在庫は貸出中だった。

 ふと最上さんが読んでいた本を思い出した。確かチェーホフの短編と言っていた。もしかしたらドフトエフスキーを持っているかもしれない。そして彼は文庫を持っていた。夜から仕事があるのでその前に渡す、と彼は言った。

 国道から路地に入る。アパートが見えてきても最上さんは見当たらない。部屋の前かしら。風間さんに見つかったら面倒なことになりそうだ。

 アパートの敷地内に入ると薄っすら紙の焼ける臭いがした。きっと榮枝さんだろう。階段を上がったが最上さんの姿はなかった。おかしいな、アパートに来ると言っていたのに。

 私は階段を降りてアパートの裏へ回った。庭先を覗いてみると榮枝さんと最上さんが火を前に並んで座っていた。二人は一言も発さず焼き焦げていく原稿を見つめていた。

 声をかけるのに躊躇した。重々しい空気だったからだ。二人は初対面のはずだし、どちらも人嫌いするタイプではない。なんなのだろうこの雰囲気は。

 しばらくこのままでいると、はじめから気づいていたかのように最上さんは「ねえ、奥寺さん出てきていいよ」と蔭にいるわたしを手招いた。

「おや、お嬢さんいたのかい」

「ええ……」

 二人に注目され、しばらく黙って見ていたことを後ろめたくなった。

「なんだか二人ともシリアスだったから声をかけづらかったんです」

「なあに火を見ていただけだよ」

 榮枝さんはトングで火元をがさごそと弄り、アルミホイルの包みを取り出した。

「そろそろ焼けたはずだ」彼は軍手をはめてアルミホイルを剥がていく。「今日は冷えるからね。二人とも食べなよ」

 芋を半分に割って最上さんと私に差し出す。

「ちょうど小腹が空いてたんです。バイト前に腹ごしらえだ」そう言って湯気の立つ焼き芋にかぶりついた。

 私は暖かい焼き芋を両手で持ったまま火元に視線を落とした。原稿の数が多い。ゆうに三百枚は超えているんじゃなかろうか。最近弔いの白煙を見ていなかったが、彼は書き続けていたのだ。そして焼かれてしまった。

 どうしてか得体の知れない痛みが胸に走った。私が書いたわけでもなく彼がどんな思いで書いたのかも一切知らないのに。迷路で壁に突き当たって落胆しながら引き返すような気分になる。

 そんなことを考えてしまう自分に嫌気がさして空を仰いだ。太陽はもう沈んでいる。白煙は紺碧の闇に吸い込まれて、すぐに見えなくなった。



 今度はちゃんと金にものをいわせて配達の方にベッドを組み立ててもらった。各パーツを包装された袋から出して説明書に沿って結合していく。途中でダボが一本見つからなくなり、配達員のおじさんは私物の工具箱からサイズが近いものを選びとってヤスリで加工していた。そんなこんなで結局ベッド一つ完成させるのに一時間と少々かかってしまった。申し訳ないと頭を下げるおじさんの腰からは、次の配達先からだというクレームの電話が鳴り続いていた。

 家具はだいたい一新した。古いものはあのアパートに全部置いてきた。状態もよかったし家電はほとんど消耗していなかったので、大家さんが持っていかないなら置いていってくれと言ったのだ。机イス、棚、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、電子レンジ、カーテン。次の入居者は私のお古ですぐに生活できるようになっている。大家さんは退去費をほとんどカットしてくれた。敷金も全部返ってきた。

「四年も住んだのにこんなに綺麗なんだもの。一応クリーニングはしなくちゃいけないのだけれど、それをあなたからもらうのはおかしい話だわ」

 大家さんは初めて会ったときより少しだけ縮んだ気がする。もうそろそろ娘に大家業を継がせるらしい。私が年々歳をとるだけ、この人たちも歳をとり老けていく。でも彼らにとって私がいた四年間はわずかな期間でしかないのだと思う。私にとっては人生の色濃い時間そのものだ。

 就職は横浜で決まった。法人相手の営業マンだ。なぜか人事に好かれて採用になった。特に目立った経歴も武器もない私だが、しっかり大学に通って背伸びせずに地道に就職活動をしているのが気に入ったらしい。

 何事も着実に、がモットーの平凡な会社だった。競合他社は多くない専門的な商品を扱っている。ノルマはそこまで厳しくない。余程のへまをしなければちゃんと数字に出る。上司も穏やかな人間が多く、ほとんどが飲みたがらない。そのかわりみな歯が黄色くなるほど煙草を吸っていた。私は二十歳を過ぎてからはもう煙草を吸わなくなっていたため、これだけが堪えていた。

 恋人は相変わらずいなかった。それを寂しいと思うこともなかった。趣味もなく仕事人間でもない私は生きているだけで日々何かが磨り減っていき、その残滓は私の中に少しずつ虚ろな心をつくっていった。

 涼子や最上さん、風間さんのような仲の良かった人間に連絡を取ることもなかった。ただ毎晩レンタルビデオ屋で海外ドラマを借りてきて酒を飲みながらじっとしていた。

 新しい生活が始まって三年が経った。鏡をみると老けていく顔に驚いて、次に驚く自分が馬鹿らしくなる。綺麗だったことなんていままで一度もなかったじゃないか。

 実家からだんだん結婚がどうとか言われるようになった。うるさくて正月も帰らなくなった。黒い服が多くなった。大学生の頃は周りに合わせていたけれど、それもなくなると自然と興味がなくなっていき、ユニクロで汚れが目立たないような色しか買わなくなる。犬でも飼おうかしら。貧乏学生をしていた時代からだいぶ贅肉がついたし犬を連れて散歩するのも悪くない。貯金は貯まる一方だし。 

 なんの目新しさもなくなりつつある春を迎えたある日、最上さんから電話がきた。

「奥寺さん久しぶり」

「お久しぶりです」

 電話越しの彼の声は変わらなかった。緊張しているとき声がわずかに高くなる癖もそのままだった。

「いきなり電話してごめんね。今大丈夫かな」

 ちょうど営業先を回っている途中で、私は車をコンビニに駐めていた。

「どうかしたんですか」

「それがね、君に関係していることで知らせておきたくて」

「私に関係していること?」

 なんだろう。最上さんが知らせる私が関わっていることって。

「だいぶ急で驚くかもしれないけれど、いいかな」

「ええ、なんですか?」

 随分勿体振るなあ。もしかして最上さん結婚でもするのかな。

「うん。そのね……」

 彼がまごつくので私は急かした。

「私営業先を回ってるところなんです。はやくしてくれませんか」

「ああ、ごめん」

 電話越しで最上さんが息を吸う音が聞こえた。

「榮枝さんが昨夜亡くなったんだ」


 私は式場に着いたときには通夜は終わりかけていた。参列者は少なく、最上さんや風間さん、大家さんと見知った人ばかりで、みな焼香を回し終えて私を待っていたようだ。葬儀場を探して駆け回ったため、シャツの下がじんわり汗ばんで不快だった。

 最上さんとの電話を終えるとすぐに上司へ早退を申し出たが、その日は急務の案件で、かつ私の代わりがいなかったため、申し出は渋られてしまった。

「親類じゃないの?」

「はい」

「じゃあ急がなくてもいいんじゃないの?」

「それじゃだめなんです!」

 私は無意識に電話口で声を荒げていた。人が死んでいるのに仕事を優先させる上司をどうしても理解できなかった。

「そもそもなんでこんな歳離れてるの。その人とどういう関係なの」

 私は唇を噛み締めて、言った。

「友人です」

 聞いた通りの葬儀場へ向かったのに榮枝さんの名前がどこにもなく、私は混乱していた。幸い今晩式をあげている会場が一つしかなく、そこが榮枝さんの通夜会場だった。

「遅れてすいません。どうしても間に合わなくて」

 私は仕事着のままであることも含め、詫びた。

「いいのよ。誰もきちんとしてる人なんていないから」風間さんはそう言って微笑む。「はやく焼香上げてきなさいな」

 少ない参列者の間を通って祭壇の前に立つ。振り返って遺族、榮枝さんの親類を探したが、私の知らない顔は一つもなかった。そういえば榮枝さんの家族を私は聞いたことがない。仕方なくお坊さんに頭を下げた。

 祭壇に向き直って彼の遺影を見た。彼の横顔がそこに写っていた。ひとつ思い当たるシーンがある。縁側で失敗作を燃やしているときの榮枝さんだ。誰が撮ったんだろうと思ったが、すぐにわかった。最上さんだ。

 焼香に視線を落とすと眠っている榮枝さんが目に飛び込んだ。ああ、本当に亡くなったんだ。目尻のシワが優しくて穏やかな表情をしている。化粧のおかげか。

 抹香をつまんで私は固まった。香ってどうやってあげるんだっけ。マナーも覚えていないし私が最後だから見様見真似もできない。ここで誰かに聞くのもいやだな。

 目を閉じたままの榮枝さんが、好きなようにやったらいいと笑いかけてくれるような気がした。私も目を閉じて抹香を上からぱらぱらと落とした。間違っていても彼はきっと怒らない。

 そのまま後ろに下がって礼をした。すると風間さんが立ち上がって伸びをした。

「さあ、通夜振る舞いだ。私の絶品中華だぞ」


「でらちゃんこういうの慣れてないっしょ」

 風間さんはパック容器からエビチリを皿に分けながら茶化してきた。

「幸いなことに全然慣れてません。小学生のときに祖父を亡くして以来です」

「だと思った。香あげるときめちゃ緊張してたもん」

 みんながどっと笑う。

「え……って固まってるから笑いこらえるので必死だったよ」と最上さんが言う。

「まあ俺もわからなかったし無理ないよ」鈴木さんが頷きながら牛肉が入っているチャーハンを頬張っていた。

「恥ずかしいな。急いでて調べる暇もなかったんですよ……」

「まあいいのいいの。これもひとつの経験よ」

 大家さんはスープしか飲んでいない。もう脂っこい料理は受け付けないのだろうか。

「まさかこんな形で顔を合わせるとは思ってなかったけれど、お仕事ちゃんとやれてるの?」

「はい。なんとか」

「よかったわあ」小さい眼鏡は新調されていた。ちょこんと鼻に乗っていてアクセサリーみたいで相変わらず可愛い。「冷蔵庫とか置いて行かせちゃったから申し訳なくてねえ」

「いえいえ、新しいの買いたかったので」私は首を振る。「私の後の人、何か困ってませんでしたか?」

「うーん、それがねえ」

 風間さんが横から答える。

「でらちゃんが出て行ってしばらくしてから大学生の男の子が来たんだけど、一年で出ていっちゃったよ。なんだかよくわからないやつだったね」

「そうですか」

 風間さんは私の前にグラスを置いてビールを注いだ。

「私今日車ですから」

「うち泊めてやるよ。なんならその空いてる部屋で寝たら?」

「そんなのだめですよ。それに明日も朝から仕事です」

 そっかぁ残念、と注いだビールを自分で飲んだ。

 私は思い切って訊いてみた。

「あの、榮枝さんのことなんですが」

「心不全らしいよ」

 口元に泡をつけて風間さんはあっさり答えた。

「縁側でぽっくり逝っててよ。外に干してたブラジャーが飛ばされて庭に取りに行ったら変な寝方してるからさ。声かけたら息してなかったんだ」

「持病とかあったんですか」

「さあ、あたしはわからん」風間さんは箸を振った。

「私もそんなのは聞いてないのよねえ」大家さんも首を振る。

「まあでも苦しんだ形跡はないみたいだし、楽に逝ったのかもしれないね」

「だといいけれど。まだ若いのにねえ」

「親族はいないんですか。今日いないみたいなんですけど」

「それがねえ」大家さんはため息をつく。「あの人、親がだいぶ前に亡くなっててねえ。うちのアパートに入居する前に奥さんと離婚したってのは聞いてたんだけれど、子供もいないらしいのよねえ」

 元の奥さんとも連絡がつかないし。彼女はスープを啜る。

「結局管理会社と私で葬儀を執り行うことにしたのよ。やっぱり誰かにお見送りされたいじゃない。独りは誰だっていやよ」

「そうですね」

「まあしんみりすんのはあの人も望んじゃいないよ。いっぱい食ってよ。あたし料理上手くなったんだからさ」

 風間さんは空いている皿にどんどん料理を盛っていく。私はお腹が減っていなかったけれど口に入れた。濃い味の酢豚が美味しい。中華でよかったと思った。


 帰りは最上さんを乗せていった。最上さんは神妙な顔で助手席に座っていた。

「奥寺さん。会場迷わなかったかい?」

 国道へ出ようと右折していたとき、彼は唐突に訊いた。

「迷いました。どこにも看板ないから困りましたよ」

「あったよ。ちゃんと」

「そんなあ」駅前の交差点の信号が赤に切り替わり、先頭で止まる。「榮枝さんの苗字なら見間違いませんよ。違う方の看板なら見かけたんですけどね」

「それだよ」

「それ?」

 彼は私を見据えて言い放った。

「榮枝さんの本当の名前。榮枝は偽名だったんだ」

「え?」

 榮枝さんが偽名?なんのために。

「僕は立て掛けられた看板を見て葬儀屋に間違っているのを指摘したんだ。でも彼らは合っていると言い張る。それで大家さんに確認してみたら、戸籍上では榮枝さんは榮枝ではなかった。大家さんは忘れていたみたいだけど賃貸の契約ではその名前を使っていたらしい。ただ自分で榮枝と名乗るからみんなそう認識していたんだ」

 青になった。榮枝さんの謎に頭の中が乱されてサイドブレーキを引いたままアクセルを踏み込んでしまった。慌ててブレーキを下ろそうとして後続からクラクションを鳴らされた。

「どういうこと?どうしてわざわざ違う名前を名乗るの」

「わからないか?」

「わかりませんよ。そんな訳のわからないことするなんて」

 ブレーキを踏みながら落ち着いて発進させる。

「君は榮枝さんの書いたものを読んだことがあるかい?」

「ありませんけど。探しても見つからないし」

 私は自分で口に出してはっとした。アクセルに添えた足が固まる。

 榮枝さんの本が見つからないんじゃない。榮枝さんの本なんてはじめから無かったんだ。

 危ないから交差点は抜けよう、最上さんは私の肩をつついた。

「彼は知られたくなかったんだろう。だから偽名を名乗って作家名を隠していたんだと思う」

「でもどうして本名を隠すのかしら。普通知られたくないのならペンネームを使って活動するものじゃないんですか。それに彼は自分が作家であることを隠していなかった。私たちは彼がたくさん書いてきたのをずっと見てきたんですよ」ゆっくりアクセルを踏み込んで発進させる。ミラーには前方を睨む運転手の顔が映っていた。

「きっとプライドがあったんだよ。書く自分を誰かに見ていてほしかったんだ」

「ねえ、それって」少し迷った。けれど言った。「売れる作家がすることじゃないですよね」

 最上さんは窓際に肘をついて外を見ていた。

「さあね。本名、あの名前で調べたら全てがわかるさ」


 翌朝、有休が通った。社会通念として認められたのだ。上司は一言謝罪をしたが、私は聞いてなかった。

 喪服を買いに行く時間はなかったので地味な黒のワンピースを着ていくことにした。案外それっぽくて助かる。ここ最近黒い服ばかり着ていたのが吉と出た。

 香典袋には榮枝さんの名前を書いた。近場のデパートで数珠を買い、車で昨夜の会場へ向かった。妙に曇っていて空気からは雨の匂いがした。

 今日も駐車場は空いていて二、三台しか駐まっていない。あの人の葬式には人が集まらないらしい。式場の前には全然知らない人の名前がでかでかと立て掛けられており、複雑な気持ちになった。

 通夜と同様の面子で葬儀を行い、告別式をした。今度はちゃんと香をあげた。出棺では一人一つずつ新聞紙で巻いたさつまいもを入れた。アルミホイルは火葬の妨げになるとのことで巻けなかった。葬儀屋には奇異な集団と映ったろう。みなで笑いながら出棺した。

 昨日から誰も泣いていなかった。誰も泣けるほど榮枝さんと思い出がなかった。ただの一〇二に住んでいた偽名のおじさんだった。

 最上さんや鈴木さんも混じって棺が運ばれる。外へ出ると一面青空で雨の気配は消え去っていた。なんとなく火葬日和だなと思った。

 また焼香をあげられ、榮枝さんは火葬炉に入れられた。葬儀屋は赤い大きなスイッチを押して言った。

「では時間になりましたらまたお集まりください」

 私は屋外へ出た。後ろから風間さんと最上さんがついてきた。

「なあ、腹減ってない?そろそろおっちゃんが北京ダック焼いて持ってくるんだけど」

「今日一番タブーなチョイスですね」

「仕方ないだろアヒルが手に入ったらしいんだから。まあ葬式とはおっちゃんに言ってないけどね」

 風間さんはそう言って笑うと黒いチャイナドレスに金髪を揺らしてやってきた車を迎えに行った。

「奥寺さん」振り向くと最上さんが背広を脱いでいた。

「今朝ここに来る前に古本屋を漁ってみた。あったよ。榮枝さんの書いたの」

 脱いだ背広から文芸雑誌を取り出した。

「雑誌?」

「そう。芥川賞候補になった作品集が載っている二十年前の号だ。データベースを洗ってやっと見つけた」

「芥川賞……」

 雑誌は色褪せて古本らしく焼けていた。よれよれの表紙には「芥川賞候補作発表」と赤字で書かれていた。

「読むかい?」

 私はそれを手に取らず突っ立っていた。最上さんの向こう側には斎場の煙突が伸びていて、細く長く昇っていく白煙が見えた。

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