第43話 百三十七
家に着くと、瀬奈は片付けを始めた。
亮太はまだ帰ってきていなかった。
今のうちに彼の私物をまとめて、家から排除してやろうと思った。
一つ一つを手に取って眺めると、思いが溢れそうになるので、自分の物かそうでないかを判断する以上には、なるべく長く見つめないよう心がけた。
衣類、CD、音楽機器、ワレモノ。
分類は関係なく、全てゴミ袋に詰めこんだ。
ギターケースなど大物は仕方ないので、袋には入れずそのままにした。
瀬奈は再び、あの古いギターケースを開けた。
カレンの名刺の束の隠し場所。
最後に見た時と同じ、皺のついた名刺が一番手前にあった。
やはり今日が、あの日以来初めての来店だったようだ。
亮太を信じきった喜びを、返して欲しかった。
瀬奈は一枚ずつ、カレンの名刺を床に並べていった。
その面積が広がるごとに、胃にキリキリとした痛みを覚えた。
合計、百三十七枚のピンク色の名刺が床を覆い尽くした。
百三十七回瀬奈は裏切られ、百三十七回カレンは射精させ、百三十七回亮太は幸せだった。
「ただいまー」
呑気な亮太の声が、玄関から響いた。
瀬奈は迎えにいった。
「あれ?瀬奈、今日は早かったんだね」
生まれてから自分が犯した罪なんて、何一つないかのように、亮太は無垢な笑みを浮かべた。
「今日は何してたの?」
瀬奈は、努めて冷静に聞いた。
「バイトと新曲の練習だよ」
「ふーん、それだけ?」
「もちろん!今日は久々に夜ご飯一緒に食べれるね」
いつに増して、亮太はご機嫌だった。
瀬奈は、それが薄気味悪かった。
カレンに会えて嬉しかったのか、その罪悪感を消すために愛想よくしているだけか。
亮太はカバンを下ろし、靴を脱いだ。
瀬奈は、先に彼を部屋に通した。
入り口の前で、亮太は立ちすくんだ。
目の前に広がる光景に、息を飲んでいるようだった。
緊張で張りつめた彼の背中に、瀬奈は声をかけた。
「ねえ、また大好きなピンサロに行ってたんじゃないの?」
「なにこれ、なんの話?」
「なにとぼけてんの?
今日あんたが貢いでたピンサロ嬢に会いにいったでしょ?」
「誰に聞いたの?」
振りむいた顔が、すぐに青ざめてしまうあたりが亮太らしかった。
「そんなのどうだっていいでしょ!」
瀬奈は深く詮索されないよう、目で殺気を飛ばした。
亮太はたじろいだ。
「いや、違うの。本番前のミュージシャンにとっては、いろいろプレッシャーとか、」
「あんた、借金しながらよくもそんな所行けたよね?」
瀬奈は吐き捨てるように言った。
「瀬奈は一般人だから分かんないかもしれないけど、いい曲作るには、浮気とか非常識な事する危うさとか自由さがないと、殻を破った音楽なんて生まれないんだよ」
「え、じゃあ今売れてるミュージシャンは皆、裏切り者ってこと?」
「そうじゃないけど。とにかく俺は早く売れて、瀬奈を楽させてあげたかったんだよ」
その言葉に、瀬奈は一瞬怯みそうになった。
嘘でも、結婚を匂わす言葉が嬉しかった。
「だからさ、その為に理解してよ。ピンサロ嬢相手に本気になる訳ないじゃん」
亮太の熱い眼差しは、ずっと欲しかったものだった。
「え、じゃあさ。なんであの娘なの?今日は他の娘でもよかったじゃん」
今の亮太を信じたかった。
納得出来る弁解が欲しかった。
瀬奈は亮太を許して、また愛したくなった。
「どうしてそこまで知ってんの?」
「いくらでも方法はあるでしょ」
亮太は決まり悪そうに俯いた。
「俺、詮索する女嫌いだ」
「なーんーで、あの子なの?」
瀬奈は引き下がらなかった。
耳の遠くなった老人に話しかけるように大きな声で一文字ずつ、殺意をのせて言った。
「……可愛いし、楽しいし、」
亮太の口から、ぼそりと零れた。
自分で問い詰めたはずなのに、瀬奈は胸が苦しくなった。
カレンの魅力は痛いほど、瀬奈にも共感出来た。
「そうだよね、私、可愛いくないもんね。若くもないし、面白くもない」
「そんな事ないって!そりゃこんなんされたら卑屈になるのは分かるけど」
「同じだから!私の女としての欠陥を、その娘で補ってたんでしょ?同じじゃん」
「もーう、なんて言えばいいかな」
亮太は途方にくれてソファーに腰を下ろした。
頭をグシャグシャに掻き乱して、空っぽの脳みそから何か絞り出そうとしているように見えた。
瀬奈は黙って待ち続けた。
冷蔵庫が稼働する音だけが鳴っていた。
黙りこくる亮太と心を枯らしかけた自分より、冷蔵庫の方がよほど生き物らしく思えた。
冷蔵庫の幸せってなんだろう。
壊れるまでは、いつも人に求められる。
私よりよっぽど生き甲斐のある人生なんじゃないだろうか。
亮太からは、なんの言葉も出てこなかった。
「結婚してよ」
掠れた声で、瀬奈は言った。
「は?」
あまりに気の抜けた亮太の返事に、瀬奈の擦りきれた心は悲鳴をあげた。
「しろよプロポーズ!本当に悪いと思ってるならさ。
で、子供作る。音楽辞めて家庭作るって誓え。そしたら許す」
「結婚する時は、ちゃんとしたいから。音楽で成功して、いろいろ整えてからしたいから。焦ったって仕方ないでしょ?」
「それって、いつなの?」
「わかんないよ」
「ずっとはぐらかしてきて、ここまで来たよね?
私の気持ちなんて考えた事ないでしょ?
あんたの為に借金返そうとして、滅茶苦茶になってく私の事なんて、なんも分かってないでしょ」
「それは、ごめん。本当に感謝してる。
でも生半可な気持ちじゃ結婚って出来ないでしょ。
今まで話合わせてきたけど、本当は俺、子供なんて欲しくないし。
だって、まだガキみたいな俺が、育てられるわけないじゃん」
「じゃあ出てって」
「いきなりなに言ってんの?」
瀬奈は並んだ名刺をかき集め、ゴミ袋に入れた。
亮太は、慌てて袋の中身を確認すると、瀬奈の腕を掴んで止めさせた。
瀬奈が振り返ると、亮太の瞳は深海のように真っ暗で、そのまま沈んでいってしまいそうに思えた。
「ねえ、瀬奈、本気なの……?」
瀬奈に亮太を捨てられる強さはなかった。
その代わり、力づくで抱いた。
無抵抗の彼は、意志のない人形のようだった。
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