第42話 吐息になれたら
瀬奈は、一人で帰った。
もう二度とあの店には行けない。
ベティーの電話番号は着信拒否にした。
家にも帰りたくなかった。
家には、亮太がいる。
矢崎から振られた今、亮太のところに帰りたいという気持ちも一瞬よぎった。
しかし、すぐにブラックライトの中での映像がフラッシュバックした。
そもそも私の居場所なんて、始めからどこにもなかったんじゃないか。
一度に、二人の男に裏切られた。
ベティーで得たほんの少しの自信や魅力は、なんの意味もない、まやかしに思えた。
瀬奈はアルタのトイレに入った。
パンツを下ろすと、白い跡が付いていた。
矢崎に興奮して出てしまった汁を、瀬奈は恥じた。
放尿し、股を拭くと、トイレットペーパーが股に擦れる感覚が心地よかった。
ペーパーを捨て、自分の指で何度もそこを擦った。
肩の力が抜けた。
背負っていた重い荷物を、全て下ろしたような開放感だった。
瀬奈は頭の中で、理想の亮太と矢崎に求められる妄想を繰り広げた。
その妄想がスパークし、全て散った後で、我に返った。
疲れて腰を下ろすと、薄汚れた便座が尻を冷やした。
何もしたくなかった。
だけど、この冷たい便座の上にいるのは嫌だった。
このトイレから出たい。
瀬奈は腿に力を入れて立ち上がった。
何かをしようという欲が芽生えたのは、いい事だと思えた。
死んでもよかった。
誰にも愛されない自分なんていらない。
自分すら自分を愛せないのなら、もうこの世で瀬奈を愛する人はいない。
アルタから出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
いつもと同じように、新宿の夜空は白みがかっている。
街が生み出す光が、闇を殺していた。
瀬奈は溜め息をついた。
ひやりとした冬の空気の中に、湿った白い息が溶けていく。
それを眺めながら、羨ましいと思った。
自分の存在もこんな簡単に、瞬く間に消えられたら、どんなに楽だろう。
目的はなかったが、無気力に足が進んだ。
タピオカを吸う若者、飲み屋を探すサラリーマン、無視され続けるキャッチの男。
通りの空間を埋めるように人々が漂っていた。
皆ぼんやりと、自分が欲しいものを探しているように見えた。
瀬奈は空気と化した。
ただ人の流れる方に身を任せて歩いていると、自分が体という器から抜けて、魂だけで散歩しているみたいだった。
交差点で、ぐらっと景色が傾いた。
体を支える力さえ抜けて、瀬奈はバランスを崩したようだった。
次の瞬間、右足の甲に激痛が走った。
左足のパンプスのヒールが、剥き出しの右足の甲を踏みつけていた。
行き交う人にぶつかりながらも、瀬奈はなんとかバランスを取り戻した。
その痛みで、魂は体に引き戻された。
痛みは、肉体から逃れられない事を瀬奈に教えてくれた。
逃げていたって仕方がない。
瀬奈は諦めて帰る事にした。
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