第41話 私の王子様

 体温が下がった瀬奈の体に、ぬくもりが添えられた。

 肩に置かれたその手は、とても柔らかかった。

 瀬奈がぐしゃぐしゃの顔を上げると、矢崎の心配そうな眼差しが降り注いでいた。

 瀬奈は何か言おうとしたが、矢崎に制された。


「大丈夫だから」

 彼は瀬奈を支え、立ち上がらせた。


 瀬奈はそのまま、初めて入る物置用の部屋へ連れていかれた。

 未使用のシートが積まれ、消耗品のストックが収納されていた。

 ボーイたちのロッカーもそこに並んでいた。


 瀬奈が落ち着くまで、矢崎は何も聞かなかった。

 ソファーに座らせ、ブランケットをかけ、顔を拭く為のティッシュを持ってきた。

「寒くない?」

「今日はもうお客さんつかせないから大丈夫だよ」

「楽にしてね」

 瀬奈にお茶を用意しながら、矢崎は労わりの言葉をかけ続けた。


 瀬奈は不思議な感覚に包まれた。

 矢崎の優しさの一つ一つに触れる度、瀬奈を襲う悲しみが、すぅーっと抜けていくようだった。

 頭の中が霞みがかり、ぼやけていった。

 怒りや悲しみが心から消えていくと、あるのはどっとくたびれた身体だけだった。


 瀬奈は出されたお茶を一口飲むと、喉が渇いていた事に気がつき、一気に飲み干した。

 お茶が舌の上を撫で、口の中全体に染みわたる。

 ごくごくと音を立て喉元を通り、胃まで落ちる。

 さっき出し過ぎた水分を補うように、身体がお茶を欲している感じがした。


 水分を出したり入れたり、そんな事を必死でしている自分が、馬鹿みたいに思えた。

 そして体が水分を貯め続ける限り、涙が枯れる事はない。


 そんなしらけた気持ちになった後で、そろそろ話し始めなくちゃいけないと思った。

 矢崎は、辛抱強く待ち続けてくれている。


 瀬奈が口を開いてから、彼は目をそらさなかった。

 その揺るぎない眼差しに包まれると、瀬奈は安心して自由に話す事が出来た。


「辛かったね」

 矢崎は瀬奈の頭を撫でた。

 その手の柔らかさは頭皮から浸透し、脳みそを溶かしていくようだった。

 矢崎は、とても綺麗だった。

 まるで少女漫画から飛びだした、王子様のように見えた。


 もしかしたら、私が愛すべき人はこの人だったのかもしれない。

 瀬奈のうっすら迷いかけていた気持ちは、今確かなものに変わった。


「矢崎さんがいてくれて、本当によかったです」


「そう?僕なんか何も出来ないからさ、特に恋愛の事は。

 だけどベティーにいる時は、最大限守るよ。

 これからも嫌な事があったら、すぐに相談して欲しいし」


 瀬奈は俯いた。

 どう言葉にしていいのか、なんて切り出せばいいのかも分からなかった。


「もしかして、もうお店来るの嫌になってる?」

 矢崎が心配そうに聞くので、瀬奈は曖昧に笑ってみせた。


「たしかに、今日はしんどかったよね。

 瀬奈の恋愛に口出しは出来ないけど、男として彼は最低だし、別れた方がいいと思う。だけどそれを決めるのは瀬奈だから、もうこれ以上は言わない。

 だけどさ、お店は別じゃん。少しずつ本指も伸びてきてるし。

 瀬奈はエロいから、これからもっと人気出るよ。だからここで辞めちゃもったいないよ?

 というか……。本当は俺が嫌だ。寂しくなっちゃうじゃん!」


 瀬奈は、自分の顔がどれだけ涙でメイクが流されてしまったかなんて、頭になかった。

 ただ、傷ついた心を癒してくれる矢崎の優しさに溺れたくなった。


「私、馬鹿みたい。矢崎さんが彼氏だったらよかったのにな」


 元ホストの矢崎は、欲しいものを的確に与えられる男だった。

「俺も、瀬奈みたいに優しい彼女欲しいよ。

 だって、これがプライベートだったら今すぐ瀬奈とキスしたいもん」

「私も!」

 間髪を容れずに、瀬奈は弾ける笑顔で答えた。

 それは矢崎にとっても予想外だったようで、一瞬の気まずい間が空いた。


 瀬奈は浮かれた自分への恥ずかしさが込み上げてきて、笑って流そうとした。 

 矢崎は笑わなかった。

 その代わり、瀬奈の両肩を握り、静かに顔を寄せた。

 近づいてくる唇が生々しかった。


 矢崎さんも同じ気持ちだったんだ。

 瀬奈は熱を帯びたぼんやりした頭で、それが自分の唇に触れるのを待った。


 その時、矢崎の身につけたインカムが鳴った。

 瀬奈には雑音に聞こえた。

 矢崎が慌てて応対すると、店長が矢崎の戻りを急かしているそうだった。


「もう、しょうがないな!」

 矢崎は笑って、瀬奈から離れた。

 店長の監視を気にしてなのか、そもそもするつもりがなかったのか、瀬奈には判断がつかなかった。

 せっかくのキスをぶち壊されたのが悔しく、店長が恨めしかった。


 このまま、曖昧な形で終わらせたくなかった。

 ここで金を稼ぎ、そして1位になって女としての自信を取り戻す。

 全ては亮太との結婚の為だった。

 あんな地獄絵図のような光景を見せられたのに、これからも亮太を愛し続けられるのか。

 ここにまた来られるのかなんて、本当に分からなかった。


 今欲しいのは矢崎からの愛だった。

 瀬奈は全てを投げ出したくなった。

「ねえ、本当にしたいなら、して。お願い」

 すがりつくように矢崎の手を握った。


 矢崎は困ったような顔で微笑んだ。

「ほら店長が来たら、怒られちゃうぞ。さあ帰ろう」

 矢崎は全身にまとっていた色気を消して、まるで父親のように慰めた。


 瀬奈は彼の温度が冷めてしまったのを見逃すほど、馬鹿な女じゃなかった。

 だけど、衝動が抑えられなかった。

「私、ヨシゾウの女になりたい。ヨシゾウが望むなら、ここ辞めてもいいよ」

 

 矢崎は、瀬奈の手を振り払った。

「あ、の、さー。従業員として言ってあげてんの。

 もう大人なんだからサービスだって分かってよ。甘えんなババア」


 矢崎は物置部屋から出ていった。

 振り返りもしなければ、フォローもなかった。


 軽蔑の眼差しだけが、残像のように瀬奈の脳裏に焼きついた。

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