第40話 崩れ落ちる

 ラブコールが鳴り、瀬奈はテキパキとおしぼりを用意した。

 それが終わると、瀬奈は仮面を被るために、深く息を吸いこんだ。


 最近、接客が安定してきたと自分でも思えた。

 心に落ち着きを取り戻すと、本指名の客には特に、感謝を込めて接客しようと思えた。


 フロアに出ると、薄暗さと大音量のアニメソングに圧迫されたが、シートの方から底抜けに明るい笑い声が耳元まで届いた。


 きっとカレンだ。

 瀬奈はそう思い、笑みをこぼした。

 思わず声のする方へと目を向けた。


 瀬奈の足が止まった。

 ほとんど反射的だった。


 カレンのシートに、見慣れた背中があったからだ。

 浮き上がった肩甲骨、その上に伸びる首筋は極端に細く、パーマのかかった黒髪が垂れている。

 瀬奈は息を飲んだ。


 ここに亮太が居るはずなかった。

 死んでも居ちゃいけなかった。


 シートの横に並べられた靴へと、瞬時に目を落とした。

 スニーカーのかかとが履き潰され、布がほつれている。

 紺色に白のラインが入った、亮太のいつものスニーカーだった。


 鼻から息が吸えなくなってきた。

 亮太は今日、ライブ会場設営のバイトに行っているはずだった。

 今朝は、そう言って出かけていった。


 瀬奈は全て見間違えだと思いたくて、もっと近くで確かめようとした。


「何やってんの、2番じゃなくて6番シートだよ」

 巡回のボーイに肩を掴まれ、耳元でささやかれた。

 瀬奈が振り返ると、ミスだと勘違いしているボーイに「早くいけ」と目で訴えられた。


 もう一度シートを見ると、仰向けになった亮太の上に、カレンが重なり乳首を舐めている。

 亮太が身をよじらせ、もっと舐めて欲しそうに胸をのけぞらせた。


 顔が見えたのは一瞬だったが、たしかに亮太だった。


 亮太が私以外の女の愛撫を求めている。

 二人だけの密な世界は完成していて、その外堀で起こっている波紋は、彼らには届かない。

 その光景に、胸が握り潰されるようだった。


 瀬奈はボーイを押しのけ、裏へと走った。

 水道の前まで辿りつくと、完全に足の力が抜け、そのまましゃがみこんでしまった。

 冷たいタイルが尻や脚に張りついたが、今はどうでもよかった。


 抑えきれなくなった熱い涙と、呼吸を苦しめるねっとりした鼻水が、それぞれの穴から溢れた。

 瀬奈の顔は体液だらけになった。


 巡回のボーイに何か言われているようだった。

 でも今は、何もかもがどうでもよくて、一つも耳に入らなかった。


 積み重ねてきた全てが、崩れ落ちた。

 心が渇ききるまで、泣きたかった。


 死んでほしい。

 亮太への殺意が止まらなかった。

 執着という名の愛が、深まりすぎたようだった。


 瀬奈は心の中で叫んだ。

 あんたなんか、生まれてこなければよかったのに。

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