第39話 感度が枯れない女

 待機室では、ゆりが豪快にカツ丼を食べていた。

 二十五分しかない休憩時間の前に、出前で注文したそうだ。

 部屋中に、食欲をそそる匂いが充満していた。

 何人かが羨ましそうに見ていた。

 「臭くてごめんね!」

 ゆりは舌を出し、ガツガツと大きな口に運んだ。

 その横に、瀬奈はちょこんと座った。

 それだけで心が落ち着いた。


 ゆりは横目で瀬奈をチラリと見た。

 瀬奈の雰囲気で、何かあると察してくれたようだった。

 瀬奈は泣きつきたかったが、彼女の時間を邪魔したくはなかった。

 ただ横にいさせてもらって、頭を整理した。


 矢崎の言うように、瀬奈はプレイで絶頂に達さない。

 客に触られても感じないのに、欲しがれる訳もなかった。

 亮太とのセックスすら感じにくくなってしまったというのに。


「枯らした感度は、どうやって取り戻せばいいですか?」

 ゆりは、丼ぶりに張り付いた米を一粒残らず、箸で集めていた。


「しばらく性行為を辞めるとか?」

「それは、ここじゃ無理ですね……」

「じゃあ、感度が枯れない女として生きる」

「どういう意味ですか?」


「ミルクは、本当のあんたとは違う人間だから。

 いつも敏感。いつも欲しがり。ミルクちゃんは、痴女である」


 ゆりは、箸先を咥えながら微笑んだ。

 その目は、あまりにも強気で美しかった。

 この人の自信ってどこから湧いてくるんだろう。


 瀬奈はうっかり見惚れて、言葉の意味が頭に届くまで時間がかかった。

 やがてハッとした。


「ミルクでいる時の自分を、もう一つの人格として扱えってことですか?」


「そう。自分が一人である必要なんてないのよ。

 ミルクという役を演じればいい。

 全部演技だから、もう感じられなくたっていいんじゃない?」


 感じる事を諦める。

 瀬奈は不思議な感じがした。


 嘘なら、今までたくさんついた事がある。

 ここで働いているのを隠しているから、亮太には五ヶ月も嘘をつき続けている事になる。

 しかし嘘ではなく、「演技」とゆりは言った。

 紙一重だと瀬奈には思えたが、演技というと不思議と罪が減る気がした。


 ゆりがカツ丼を平らげ歯ブラシを終えると、すぐにコールがかかった。

 二十二時を超えた今、店は比較的空いていた。


「ゆりさん、ついて行っていいですか?」

 ゆりと瀬奈は二人で店長に許可を取り、瀬奈はゆりの接客するシートの後ろについた。

 接客はしないで、ただゆりのプレイの音を聞かせてもらう為だ。


 瀬奈はドキドキした。

 体育座りをし、耳をすましているだけだったが、まるで覗き見しているみたいだった。

 帰る客や女の子が通路を通る時には、瀬奈は顔を伏せて寝ているふりをした。


 ゆりの接客は、シートへの移動の際にチラリと、それ以上長くは見られないので、チラリと見た事がある。

 その一瞬は、いつだって絵を切り取ったように綺麗だった。


 そして声だけを聞いている今、ゆりも演じていることに気付いた。

 カツ丼を食べていた彼女とは、まるで別人のように感じられた。


 待ちわびた恋人との再会のように、ゆりは客と会えた事を喜んだ。

 甘ったるい声で客を褒め、欲しがった。

 チュッチュッと潤んだ粘膜の音がした。


 後から聞くと、ゆりは喋り方や声を客の好みに合わせているそうだった。

 好みを先に教えてくれたら、それに最大限近づこうとする。

 何も言われなかったら、何に心を動かされるのかをよく見る。


 そしてお姉さんになったり妹になったり、SになったりMになったり、客が欲しそうな女を毎度チューニングする。

 ゆりの心遣いに、瀬奈は感心した。


「女の子が思うエロを押し付けられると、興ざめしちゃう人もいるんだよね。

 だから初めて会うお客さんには、変にキャラクターを出さないように気をつけてるかな」

 瀬奈には、それが繊細で、面倒な作業に思えた。


「たしかに面倒と言われればそれまでだけど。

 お客さんが変わるごとに、私の幅が広がるというか。

 お客さんの影響を受ける事で、自由になれる感じもするんだよね。

 私一人じゃ見つけられない自分を、引き出されるみたいな感覚」


 そんな自由自在なゆりを、まるで子供に遊ばれる粘土のようだと思った。


 その後のプレイに、瀬奈は気合いを入れた。

 客の心に寄り添う為に、彼らの表情や反応をとにかく見逃すまいとした。

 感じていなくても、子宮を突かれる度に体を震わせ、「もっともっと」と欲しがった。

 瀬奈は、本当に絶頂に達した時の記憶を掘り起こし、全身でそのポーズを取ろうとした。


 仰向けになって攻められていると、シートを巡回する店長とたまたま目が合った。

 初めてだった。

 不意に階段を踏み外してしまった時のように、一瞬気が遠のいた。


 あのビー玉みたいな冷たい目に、無防備な自分を観察されたと思うと、ひどく恥ずかしかった。

 しかし、ここでひよる訳にはいかない。

 瀬奈はさらに激しく声を上げた。

 プライベートでも、こんなに喘がなかった。

 体は客と交わっていたが、心は店長やゆりの期待に応えたいと、全力でプレイした。


 客に手を振り裏に捌けると、満足気な顔の店長に肩を叩かれた。

「ミルクちゃん、いいね!さっきの接客は満点だったよ」


 瀬奈は、はにかんだ。

 そして一つ、深呼吸をした。無意識だった。


 肺から汚れた酸素を吐きだすのと同時に、ミルクも体から剥がれ落ちた。

 瀬奈は小さく感動した。


 正確に言えば、ただの深呼吸に、イメージを持った。

 それだけだったが、この呼吸が切り替えのスイッチとなった。

 身体にまとわりついたもやもやも、すとんと消えて思いの外すっきりした。


 この感覚を覚えておきたい。

 瀬奈には、ミルクという人格を持つより、痴女ミルクという仮面を被るというイメージの方がしっくり来るようだった。


 もしかしたらこの切り替えがある事が、嘘ではなく演じるという事なのかもしれない。

 瀬奈は、その楽しみを少しだけ囓った気がした。

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