第18話 心のガソリン

 店のドアの隙間からは、いつも小さな音が漏れていた。

 もわもわとした音の影を感じると、瀬奈は佇んでしまう。


 出勤前はいつもそうだった。

 これから七時間の勤務に耐えられるのか不安になった。

 前回の出勤日から少し日にちが空くだけで、リセットされたみたいに、朝目が覚めた瞬間から気が重くなった。


 自動ドアがスライドすると、受付の準備をしていた矢崎が顔を出し微笑んだ。


「おはよう。会いたかった」


 あまりにも自然に生まれるその笑顔に、瀬奈は小さく息を飲んだ。

 ツッコんだり笑い飛ばせるほど器用じゃなかった。

 微笑み返す自信もなかった。

 今の彼の言葉が冗談でもいい。

 分厚い雲で覆われた心に、光が差し込むようだった。


 ここでのストレスに負けないよう、瀬奈は何とか自分を奮い立たせようとしていた。

 そんな中での彼の挨拶は、一日を乗り切る為のガソリンだった。

 いつも出勤が被るわけではなかったが、被ったらその日はいい日だと思えた。 

 いつしか矢崎を、研修をしてくれたボーイではなく、ファンのような目で見るようになっていた。


 ボーイと女の子は、恋愛禁止だ。

 入店の際にサインした契約書にはそれが発覚した場合、罰金百万円という脅しまで記載されていた。

 もちろん、瀬奈に恋愛感情はなかったし、矢崎側もそうだと見えた。

 矢崎は、皆に平等に振舞っていた。

 矢崎が、他の女の子にも同じように接しているのを見ても、瀬奈はヤキモチを妬く事はない。

 いつも「ごちそうさまです」と感謝はあった。

 恋愛でもなければ、客でもないのに、こんな風に優しく色っぽく接してくれる人に、瀬奈は出会った事がなかった。


 矢崎はホストのような雰囲気だったが、笑顔だけは邪気がない。

 夜の仕事をしているなんて思わせない、カラッとしたものだったから信じられた。

 営業会社では、何かしら裏のある腐った笑みを、散々見てきた。

 だから瀬奈は、男女問わず、本当に笑う事の出来る人が好きだった。

     

 

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