第5話 嫉妬と裏切り
二人で過ごす時間は穏やかだった。
亮太のせいで贅沢は出来なかったが、それでも瀬奈はこの生活が楽しかった。
会社でも毎月粘り続け、瀬奈の部署の成績は、トップ3に居座り続けた。
瀬奈の望みは、たった一つだ。
いつか、彼と結婚したい。これさえ叶えば、他に何もいらなかった。
亮太と同棲して一年経った頃、妹から電話がかかってきた。
「姉ちゃん、あたし結婚するわ」
久し振りに蘇った懐かしい感覚に、瀬奈は目眩がした。
嫉妬が心を蝕む音が、今にも聞こえてきそうだった。
妹は少し照れ臭そうに、それでも芯のある明るい声で、旦那となる男がどんな仕事をしていて、いかに素晴らしい人間なのか語っていた。
「式の前には、親戚の皆集めてご挨拶やるから、ちゃんと来てよ?土日休めないって、いつも言うけど今回はお願いだからね!」
嬉しそうにはしゃぐ声が電話口から消えた後も、瀬奈はぼんやり立ちつくしていた。
また妹に負けた。
結婚まで先を越されてしまうなんて。自分が劣った女だということを、突きつけられた気がした。
亮太は、「結婚なんて音楽活動の妨げになる」と言って嫌な顔をするはずだ。なんといっても、瀬奈が彼女だと仲間に紹介しないくらいなのだから。
だけど、彼の本当の気持ちを聞いた事もなかった。
瀬奈は、勇気を振り絞って問いかけた。
「私たちって、いつか結婚するのかな?」
「もちろん。でもまだ早いから、少しだけ待ってね」
亮太はゆっくりと言った。
動揺したり、拒否するような態度はなかった。
その事自体が予想外で、瀬奈は驚いた。そして堂々とした亮太の眼差しに、すっかり心を満たされてしまった。
今、彼女として公表されていなくても、結婚したら皆に知ってもらえる。その時まで辛抱強く待とう。
二年経った今、状況は進展していない。
しかし、妹からは追い打ちをかけるように、出産報告が来た。
あの妹が、母親になる。
男を手玉にとって遊んでいた美人の妹だから、結婚までは理解出来た。しかし、人の親になるのは次元が違った。
強烈に、まるで雷に打たれたかのように、瀬奈は「子供が産みたい」という衝動に駆られた。
体の奥が、子宮が疼いた。
自分がどうしようもなく動物であると感じた。
初めて亮太の耳元で、彼の匂いを吸い込んだ時よりも深く、雌だった。
体が熟し、精子を迎える準備が出来ているのを本能的に察した。
これも妹から受けた影響なのか。
そう思い直すと腹立たしいが、何が原因であれ切実に欲していた。
もう待っていられない。
瀬奈は覚悟を決めた。
その日の晩ご飯は、亮太の好きな鮭鍋にした。
瀬奈は休みだったので、亮太の帰りを待ち、二人仲良く鍋をつついた。食後に温かいほうじ茶を淹れると、つけっぱなしのワイドショーを消した。
呑気に鍋をつついていた時には考えられないくらい、瀬奈の心臓はバクバクと動きだした。もちろん、食べていた時からこの話をするのは決めていたし、目の前にいる亮太は、この世で一番落ち着く相手なはずだった。しかし、いざ改まって話をするとなると、逃げ出したくなるくらいに緊張した。
「りょーちゃん、そろそろ結婚しない?」
「…へ?」
亮太はぽかんと口を開けて、何を話しているのか理解出来ない、といった顔で瀬奈を見つめ返した。
瀬奈は拍子抜けしてしまった。
「もちろん。でもまだ早いから、少しだけ待ってね」
あの時の確信めいた、堂々とした眼差しは、どこに行ったのか?
あまりにも無責任な態度に思えた。
「いやいや、え?りょーちゃん、前に結婚するけど少し待ってねって言ってたから。あれ?忘れちゃった?」
瀬奈は思わず前のめりになって言った。
亮太は神妙な面持ちで黙りこんだ。
鍋の楽しい雰囲気は、すでに死んでいた。
瀬奈は背中にじっとりと冷や汗をかき、インナーが張りつくのを感じた。
「今は、その余裕はない」
「なんで?」
結婚が出来なかったら、出産も不可能だ。
「私じゃ、だめ?」
「というか……実は、借金がかさんじゃって」
重苦しい声で、亮太が言った。
瀬奈は驚くよりも、よく分からなかった。
「次のデカいイベントへの資金集めで、ちょっとトラブって」
「大丈夫なの?」
「いや、、」
言い淀んだ亮太は、左の口角だけを下に歪めた。
瀬奈は、ハッとした。
この歪め方を前にも見た事があった。
瀬奈が作ったご飯が口に合わず無理して「美味しい!」と言った時や、周りのテンションに合わせて笑う一瞬前。お腹が痛いのを隠して演奏する時など、嘘をつく時だった。
それは本人にも自覚がない、亮太の癖だ。
感情がどうしても顔に出てしまう素直な欠点を、瀬奈は今まで可愛いと思っていた。
「りょーちゃん、私怒らないから。本当の事言ってごらん」
亮太は、ゆっくりと目を見開いた。しばらくシラを切ったが、瀬奈がめげずに追い打ちをかけていくと観念した。亮太は瞳をじっとり濡らし、口からは、ぼろぼろと真実が零れ落ちた。
借金は、イベントの資金集めが原因じゃなかった。
営業会社を辞める前に、銀行のカードローンで金を借りたのがきっかけだった。
あたかも自分の口座から金を引き出すように借りられて、亮太は無感情に金を引き出し続けた。
限度額に達した時、ようやく我に返った。
それを返済する為に、今度は別の金融会社から金を借りた。自分のライブの収入や単発のバイト代だけじゃ、どうしようもないと気付くと、実家の親にまで借りた。そして、返済の為に新しい仕事はまだ探していない。
瀬奈は、それを聞いている間中、亮太がそこまでして金が必要になる理由が思い当たらなかった。
生活なら瀬奈が支えていた。最後まで伏せたような喋り方に、だんだんと不安になり、不吉な予感に襲われた。
「もしかして、ドラッグ…なの?」
言った瞬間恐ろしくなり、瀬奈の呼吸が浅くなった。
音楽をやっている亮太の事だ。初めは興味本意だったのかもしれない。瀬奈はほとんど確信していた。
「いや…」
背中を丸め、顔を背けた亮太から掠れた声が漏れた。
「風俗」
瀬奈は言葉を失った。
頭が真っ白になり、脳がその一言を理解するのを拒絶しているようだった。しかし血は、ふつふつと熱くなっていた。
「なんでよ…」
圧迫されるような鈍い痛みと熱が眼球に迫ってくると、視界が歪みだした。
瀬奈にとってはドラッグの方がマシだった。
この生活状況で女遊びに行くなんて思ってもみなかった。
「違うんだよ!瀬奈に対して不満があるとかじゃないんだ。遊びだよ、ただの息抜き。たかが風俗だよ?浮気じゃない。別れたいなんて一ミリも思ってなくて……なんでこうなったのか、わかんないよ」
亮太は目に大粒の涙を浮かべ、今にも消えそうなか細い声で言った。
スウェットの裾を八つ当たりするように、しわくちゃに握りしめていた。
瀬奈は、借金までなら許せたが、浮気は堪え難かった。
瀬奈の中では、風俗は浮気でしかない。
他の女と肌を合わせるなんて、金銭が発生していたとしても関係なかった。
亮太は鼻をズルズルとすすらせ、そのうち袖で拭い始めた。
瀬奈は溜め息をついた。机の上の箱ティシュは空だった。洗面所まで替えを取りに行った。
電気をつけると、洗面台の鏡に、潰れたように低い鼻を赤らめた自分が映っていた。暖房のない、ひんやりした空気が火照った頭を冷やした。
一番怖いのは、浮気じゃない。亮太に捨てられる事だ。
冴えない顔を見つめながら、それに気がつくと、もう怒れなくなった。
亮太は、何を言っても許してくれる私を信じて話してくれた。
そんな私が好きでここまで一緒にいてくれたんだ。
瀬奈は溢れ出る涙をぐっと堪え、自分を落ち着かせようと深呼吸した。
行先のなくなった亮太への怒りは、ぐにゃりと形を変えた。
どんな事があっても、彼を私だけのものにしたい。
その為に、この借金を代わりに返してあげる。
恩返しとして、今度こそ必ず籍を入れさせてやる。
そう、心に誓った。
「合わせていくらなの?」
新しいティッシュを開封し、机に置いた。亮太は目を伏せたまま、手を伸ばした。
「ざっと百万…」
「いいよ。私がなんとかお金工面するから。りょーちゃんは今まで通り、好きな音楽やってなさいよ」
赤子をあやす母親のように柔らかな声で、瀬奈は言った。
亮太は土下座するように、瀬奈の太腿にむしゃぶりつき泣いた。
彼の黒い髪が逆さまに垂れ、白く極端に細い首筋が露わになった。
瀬奈はその湿った肌に触れ、髪の中に手を潜らせると、頭皮の温かさを指先で確かめるように、何度も何度も撫で続けた。
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