第4話 亮太との出会い

 瀬奈が一つのチームをまとめる部席に昇格した頃、アルバイトで入ってきたのが亮太だった。


 初めての、年上の部下だった。

 いつも二十代前後の新人を教育してきた瀬奈は、三十半ばの彼にどう接すればいいのか分からず、なんとなく気まずかった。

 研修を終えたばかりの亮太は商材の情報量に圧倒されていた。

 初めのうち、瀬奈は敬語を使った。しかしあまりにも彼がおぼつかないので、いつの間にか二十代の子達と同じように、まるで出来の悪い弟のように扱った。

 それには亮太も嫌な顔をしなかった。そもそもそんな余裕はなさそうだった。


 会社には、トークスクリプトと呼ばれる客と話す為の、簡易的な台本が用意されていた。

 これを音読すれば、いとも簡単に受注が取れる。

 研修ではそう教えていたが、実際の客との生の会話では、その通りになんて進まない。

 名乗っただけでガチャ切りされるのは、あたりまえだった。オレオレ詐欺が流行った後は、特に電話営業が不審がられるようになった。

 だから会話を続けてくれる仏のような客を、全力で狩りにいった。

 質問や反論をされたら〇.八秒以内で返すのが原則だ。そうでないと不審なイメージを与えてしまい、電話口の客に逃げられるのだが、亮太はすぐに吃ってしまうので百発百中で電話を切られた。


「嘘でもいいから、このトーク、最後まで読みきってくれないかな?」

 皮肉な事に、部長は亮太と同い年だった。亮太はよく皆の前で怒鳴られ、晒し者にされた。


 だんだん自信を失った亮太は「もしもし」と名乗るアプローチ段階から先に進めなくなった。

 瀬奈は、彼の電話対応をモニタリングし、彼が会話の中で迷子になると、傍まで走っていき、話すべき内容を指示した。


 コールセンターでは電話をする時、通常だとヘッドフォンにマイクを付けたようなヘッドセットを使用する。

 亮太を含めた新人は、ヘッドフォンが片耳しかついていないタイプを使わされた。指示を通しやすくしたり、周りの人の言い回しを勉強として聞けるようにする為だった。


 ある時、瀬奈が亮太に耳打ちしようとして顔を近づけると、彼の汗の匂いが微かにした。

 休憩時間のギリギリまで休み、走って戻ってきたのか。少し汗ばんだ男の匂いに、瀬奈は密かにドキドキした。しかし目の前で迷走する亮太を見ると、慌てて必要な言葉を耳元でささやき、彼のしどろもどろの案内を援助した。


 それが、亮太にとって初めての受注になった。

「ありがとうございます!」

 亮太が満面の笑みを浮かべ、お礼を言ってくれた。

 その笑顔の美しさに瀬奈は、ハッとした。

 いつも自信なさ気な彼が、こんな表情をするなんて思いもしなかった。

 瀬奈は何も言わず逃げるように席に戻ったが、生理の時にしか意識する事のない下半身が疼くのを感じた。

 膣の中が、ぎゅっと引き締まり、心よりも先に身体が反応しているようだった。その後トイレに行くと、ヌルヌルとした液体がパンツに漏れていた。


 それ以来、瀬奈は亮太を雄として見るようになった。


 亮太は毎月の目標件数を追うのではなく、追われてしまっていた。

 こうなると、月末にはプレッシャーに押し潰され、余計に良いパフォーマンスが出来なくなる流れがある。成績が低い者によくあるパターンだった。


 多くの社員が予想していた通り、亮太はあっという間に会社から飛んでしまった。亮太と会社が音信不通になったのは、彼が入社して二ヶ月目の事だった。


 根性もなく、頭の回転も悪く、若くもない彼の事は、朝の全体での締め直しでネタにされた。そして一通り皆が笑い、各々の優越感が満たされた後で、すぐに忘れ去られた。誰も、その後の彼の行方なんか気にしていなかった。

 

 瀬奈だけは心を痛めていた。

 集団で生み出す圧はリンチのようで、瀬奈は過去の自分と重ね合わせ、笑えなかった。


 部署内で、亮太とよく喫煙所で話していたアルバイトの男子に、さりげなく亮太の事を聞いてみた。


「ずっとこの仕事向いてないとか、辞めたいとか言ってたから仕方ないんじゃないすか?なんか馬鹿にされんの嫌だったみたいで、部長にキツく言われんのとか、しんどかったんじゃないすかね?」

「じゃあ他のバイト先とか探してたんだ?」

「いや、特に聞いてないっすけど。駅前とか路上で歌ってるって言ってたんで、今頃路上ライブでもしてんじゃないすか」

「それ、どこでやってんの?!」


 瀬奈は、教えられた三、四カ所の駅前を出勤後に寄り道してみたり、休日に頻繁に通るようにした。

 高円寺の路上で、ギターを抱え背中を丸めながら歌う亮太を見つけた時、すぐに駆け寄る事が出来なかった。嬉しさに、ほんの少しの不安が邪魔をして、瀬奈は足をすくめた。

 膣だけは、素直によだれを出した。


 彼の歌を聞く者は、誰もいなかった。たくさんの人が歩いていたが、目もくれずに通り過ぎた。まるで彼は空気のようだった。


 亮太はそれでも大声で歌っていた。ひとりぼっちの世界で叫び続けているように見えた。


 そんな彼を一人にしておけなくなった。

 彼の前に置かれた籠には、お金が入っていなかった。瀬奈はそっと五千円札を入れた。亮太が気まずく思うのではないかと、ひやひやしたが、彼はくしゃっと顔中にしわを作り喜んだ。


「うぉっ!なんでいるんですか!!瀬奈さんじゃないですか!!!!!」

 あまりにも大きな声を出すので、瀬奈は恥ずかしくなった。


「偶然通りかかって…」嘘をついた。

「それより、あんたのこと心配してたんだからね。元気にしてんの?」


「スンマセン、本当に」

 亮太は舌を出した。思い詰めている様子はなかった。


 今日は早めに引き上げる、と言う亮太と居酒屋に入った。

「俺、瀬奈さんには、ちゃんと挨拶したかったんですよ。めちゃくちゃ世話になったし。だけど誰か一人に言ったら、辞めるのが上に伝わったりして面倒くさそうだな、とか思っちゃって」

「まあ、そうだね」

 瀬奈はぼんやり答えた。

 話より、亮太の出し巻き卵を頬張る顔から、すっかり目が離せなくなっていた。なんとも美味しそうに食べていた。

 口に含んだ瞬間は無表情だ。やがて驚いたように目を見開き、「堪らない!」と噛みしめる。目を硬くつむり、顔の隅々からしわを集めて、喜びが顔の真ん中に充満しているようだった。そして美味しいと思う度に、大袈裟に悶絶してみせた。

 瀬奈に遠慮せず、亮太は夢中で皿の上にあるものを口に放り込んだ。まるで食べ盛りの高校生だった。


「俺、なーんか、瀬奈さんと一緒にいると、妙に落ち着くなぁ」

「え?」

 それは、瀬奈が今までもらった言葉の中で一番暖かく、しっくりときた。

 埋まる事がないと思っていた心の穴が、不思議と塞がっていくような感じがした。

 帰り道。瀬奈は亮太を家に呼び、一夜を共にした。 

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