「ここ、また来たかったんだ」


「あ……」


天瀬さんに連れられて来たお店は、先日お世話になった居酒屋『和』でした。

天瀬さんと2人きりだからか、変な緊張感がある。

大将に何て言われるだろうと思いながらも、天瀬さんを先頭にして店内へ入っていった。


カラカラカラ……。


「こんばんは」


「こ……こんばんは」


「いらっしゃい!おぉ、春子ちゃんじゃないか」


「あら、春子ちゃん」


大将と女将さんは、私と天瀬さんを見て驚いていた。

そうだよね、こんなイケメンが私と一緒にいるんだもん……そんなリアクションになるよね。



「テーブル席で良いかな?」


「あ、いえ……」


「それじゃ、あっちの個室にしようか」


「はい、すみません……」


「謝らなくて良いですよ。それじゃ、あちらに行きましょう」


何故か、他の人の視線が気になってしまった私。

もし、ここで社内の人に会ったらどうしよう……とか、知り合いに会ったら何て答えようとか……せっかく天瀬さんが連れてきてくれたのに、そんな事ばかり考えていた。



「今日は、いつもの佐藤さんらしく無いです。本当に大丈夫ですか?」


「あ、はい」


天瀬さんには、私らしくないとか分かるのだろうか?

私自身、いつもの私がどんな状態か分からないのに……。

それより……このお店の個室に初めて入ったけれど、密室空間が尋常ではない空気を生み出している。

それに伴って、なんていうか……これは、拒否反応!?

男性と2人だけで入るべきではないと、全身が警鐘を鳴らし始めていた。



「やっぱり、様子が変ですね。私が無理に誘ったのがいけなかったんですね」


「あ……いや、そうではないんです。ただ、こういうのは慣れていなくて。恋愛経験も全く無くて……だから、男性と来るなんてとんでもないって言うか……」


「そうだったんだ」


「はい……」


天瀬さんは、『気にしなくていいから』と優しく言ってくれたけど、余計に気になる。

このままじゃ……ダメだ。


「あの、せっかく移動していただいたのに申し訳ないのですが、カウンター席に行きましょう」


「えっ……?」


私は驚く天瀬さんの返事を待たず、席を立ち上がった。

そして、個室を出ようと障子に手を掛けた……。



「春子さん」


「はい?」


今、天瀬さんに名前で呼ばれた……?

驚いて振り向いた瞬間、唇に何かが当たった。


「…………」


このあたたかいものは、何だろうか。

そして、何故……目の前に天瀬さんの顔があるのだろうか。

それが分かるまで、数十秒。

その間、妙に長く感じた……。



「ご、ごめんなさい。私……帰ります」


「佐藤さん!」


私は天瀬さんが呼び止める声を振り切り、店を飛び出した。


……今、天瀬さんとキスしていたんだ。

事故かもしれないけれど、でも……あれが私の初めてのキスだった。

そう思った瞬間、涙が頬を伝って落ちていった……。




店を出て人目を避けて、駅と反対方向へ走っていた私。

どのくらい走ったのか、走り疲れてしまい涙を拭いながらゆっくりと歩いていた。

それでも繁華街だからか人通りは多くて、人目を避けているつもりでも、チラチラと自分に向けられる視線は感じていた。


何故……泣いちゃったんだろう。

王子様のような、イケメンの天瀬さんとのキスなのに……。



「……佐藤?」


「……?」


周りを歩く人の中から、私の名を呼ぶ声がした。

誰かは分からないけれど、声がした方とは反対方向へ顔を向けた。


よく考えてみたら、駅と反対方向に歩いたということは、会社の方に歩いたってことで……。

私の名前を呼んだ人は、社内の人。

泣いていた酷い顔を見られなくない……。


返事をしなければ、きっと気のせいだと通りすぎてくれる筈。

私はじっと動かずに、その人が何処かへ行くのを待っていた。



「きゃっ!」


誰かにポンッと肩を叩かれた。

驚いた私は、らしくない声をあげてしまっていた。


「やっぱり、佐藤だな。返事くらいしろよ」


「……鈴木さん?」


どうして……私に気が付いたのだろう。

知らぬフリをして通りすぎてくれてもいいのに。


「そうだよ。こんな所で何を……。って、おい、何かあったのか?」


あ……しまった顔を上げなければ良かった。

泣いていた酷い顔を見られてしまった……。



「…………」


「……まぁ、それは後で聞く。それより、その顔では帰れないだろ?家まで送るよ」


「いえ、大丈夫です」


この酷い顔を見られたって、他の人に害はないだろうし。


「俺がそうしたいんだよ。黙って俺と一緒に来い」


「えっ……!?」


鈴木さんは私の腕を掴むと、何処かへ歩いていく。

とある駐車場に着くと、そこには見慣れた車があった。

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