7 「椿」

 南条邸から更に奥へ走っていくと、懐かしい公園に差し掛かった。


 そうは言っても一度しか来た記憶は無いのだが、今日見た夢の舞台がこの公園だから懐かしさを感じてしまう。


「椿」


 どうして今、俺は南条さんの名前を呟いたのか。


 そんなの自分でも分からないが、気付けば砂場の上に立ち、無意識に口にしていた。


「――隼人、くん。今……」

「――っ?!」


 俺を呼ぶ声が聞こえた。誰の声かと言われればすぐに分かる。


 それは俺が探していた人物、南条椿の声。


 声が聞こえた方向に視線を移すと、そこにはドーム型の遊具があり、入り口の穴の部分から南条さんが顔を覗かせていた。


「はぁ……やっと見つけた」

「――来ないでください!」

「なっ……」


 南条椿に拒まれる、それは初めての出来事であるからこそ動揺が走る。


 だが、今回に関しては俺が先に南条さんを拒んだようなものだから、彼女の反応も理解できる。


 でも、実際には俺は拒んだわけではない。


 それを伝え切らないと、この関係は今日終わる。そんな予感がした。


 だから、一歩ずつ近付いていき、遊具の正前に立つ。


「……椿は、今だって本当は隼人くんと一緒にいたいんです。でも、それだと絶対また嫌がる事をしちゃうから……また、傷付けちゃうから……」


 震えた声で言葉を振り絞る南条さんに、俺が今してあげるべき事――それはさっき楓先輩に教えてもらった。


「ふざけんなっ! 何を勝手にそう思い込んでやがんだ! 見かけによらずほんっとうにバカだよな。お前と友達じゃなくなる方がよっぽど傷付くから……!」


 家を出る前に考えていた、もっとやんわりとした言い方とは真逆になってしまったが、これが正解だと信じて南条さんに対して声を荒げる。


「私が……椿がバカなのは自分でも分かってるから。それに、もう一度言いますが椿だって本当は一緒にいたいんです。でも、でも……それだと椿はまた……」

「マジでめんどくさい女だな、お前」


 南条椿に面と向かってこんな発言をするただの海櫻生なんて俺が初だろう。

 自分でも当たり前のように言葉にしてしまった事実に少し驚いている。


 でも、まだまだ言える。不思議とそう思える自分がいた。


「……そうです、椿はめんどく――」

「否定しろや。葛西に言われてた時はキレてたくせに、俺に言われたから、はいそうですって、肯定ばっかしてないでたまには俺を否定してみろや」

「隼人くんを否定なんて、そんなのできない。だって、ダメなとこなんて何も無いから……」


 いやいや、俺は葛西と同じ事を言ったわけだから、だったらさっき俺の家で葛西に反発したみたいにするだけじゃん……。


「無いんじゃなくて、探しすらしてないんだろ? 俺もそうだったよ。今日までのダメなとこなんて考えもしなかった。でも、思い返せば色々あるよね。例えば、家事全般壊滅してそうなところとか」

「それは、生まれた時から使用人がいたのでやる機会が無かったというか……でも、全くできないわけじゃなくて洗濯だけはできます。あの、その……流石に中学生にもなると身に付けてる下着を知られるのが嫌になったというか、見られたくなかったので。男性の使用人もいますし、尚更。それで、椿専用のバスルーム……というか脱衣室に洗濯機を用意してもらいました」


 家事全般壊滅、それに対して反論してくれたのは一歩前進だ。

 けど、それについてめっちゃ詳しく事情説明までしてくれなくてもよかったんですが……。


「……できるじゃん、否定」

「え……?」

「俺が家事全般壊滅してそうって言ったのに反論したっしょ?」

「あれは、そんなつもりじゃなくて……」

「いいや、ある意味反論だったから。でも、それでいいんだよ。俺に対して反発してきたっていい。俺のここがダメだって意見があってもいい。何なら、今日みたいなブチギレを俺にしたっていいんだよ」


 とはいえ、あのブチギレは中々に怖かったから極力控えてはほしいが、それでもただ肯定だけされ続けるのより遥かにいい。


「もし仮に椿にそれができたとして、だとしたら余計に隼人くんを傷付け――」

「だから、何度も言わせんなバカ女! 俺にとっての傷付くにあれ以上はねぇんだよ。肩を並べるとしたら、それは今ここでこの関係が終わる事だけだから、その他のちょっと傷付くとかそんなのは全然平気なの! ダメなところは駄目って言われたいの! 分かった?!」


 そこまで言い切ると、中から鼻をすする音が聞こえた。


「……本当に、いいんですか? 今日みたいにまた嫌がる事をしてしまうかもしれませんよ? それでまた傷付けてしまうかもしれませんよ……?」


 やっと伝わってくれたのか、ドーム型遊具から顔を出してくれた。

 その瞳には涙が浮かんでいる。だがこれは、悲しみから来ている涙ではないはず。


「いいよ、大丈夫だから。今日みたいに困ったらちゃんと伝えるから、それでやめてくれれば全然問題ないし」

「……隼人くんがそう言ってくれるなら、分かりました。本当に、ありがとうございますっ」


 そう言って南条さんは安堵の表情を浮かべ、俺としても今の関係性を失わずに済んでホッとしている。


 そして、その関係性も少しだけ前に進めたはずだ。


「それでなんだけど……別に今日のは全然、嫌だったわけじゃなくて、ただ今後友達として接していくには非常に困りますよって話でして……」

「それって、つまり……?」


 南条さんはきょとんと首を傾げて言葉の真意を教えろと促してくる。


 言えるわけねぇ……じゃあ何でこんな話を始めたんだって感じかもしれないけど、とりあえず納得だけしてもらえないでしょうか……?


「だから、その……」

「つまり?」

「……何でもない」

「つまり?」

「――あぁもうっ! 今日みたいな過激なスキンシップをされると色んなとこが反応しちゃうの! だけなのこんなのは……!」


 言っちまったあああぁ! 恥ずかしすぎてこの場から逃げ出したい……それはできないけど。


『つまり』攻めに屈服してしまったのを心底後悔した。


「はぁ、やっぱ……それで、色んなとこって、つまり具体的にはどこですか?」

「……え?」

「つまり?」

「あ、だからそれは……」

「つまり?」

「――あぁもうっ! ほとんど全身……! 目も鼻も心臓もそれから息子も……!」


 ぐっはぁ……! またしても『つまり』攻めにやられた……しかも何を馬鹿正直に息子とか言ってんだ俺は。


 隼人くんって椿をそういう目で見てたんですね、キモいんでくたばってください、って軽蔑されても文句言えねぇ……。


「……隼人くんって息子さんがいたんですか? だとしたら椿はもう生きてる意味がないので、今すぐこの場で死ぬ決断をしますが」

「えっ、違う、息子なんていないよ?! ……じゃなくて、なんで死ぬになるの?! 意味不明すぎなんだけど」

「ふふっ、冗談です。流石にその息子じゃないのは分かりますよ。……で、結局息子とは身体のどこの部位なのです? 分からないので、正式名称で教えてください」


 そんな事言われても教えられるかぁ!

 知らないならそのままでいてください。その方が南条さんのイメージに合ってます。

 どうか、一つ上のお姉様のようにはならないでね。


「えっと……それについては言いたくありません。追求してくるならドS認定します」

「隼人くんに対してだけはMになりたいのでそれは困りますね……分かりました、これ以上は聞きません」

「またもや意味不明な発言だけど、そうしていただけると助かります……」


 ひとまず安心して額の汗を拭う。


 あっぶねぇ……また『つまり』攻めされてたらと思うとヒヤッとするわ。


 南条さんは未来の伴侶とは毎日ヤって子供十人という妄想をしているくらいだから、そういう行為があるのを知ってるのは確定している。JKだしそれも普通だと思う。


 しかしそれは同時に、もし俺が『つまり』攻めに根負けして下ネタ言ったら、南条さんが全てを察してしまう事も意味している。

 将来の伴侶ではない俺にそんな反応されてたと知ったら、ドン引き程度じゃ済まないだろう。


 絶縁言い渡されてもおかしくないよね。

 マジで『つまり』攻めされなくて助かったぁ……いや、仮にされててもこれだけは絶対口を割らなかったけどね。


「……心臓。ふふっ、つまり椿にドキドキかぁ」

「ん? 何か言った?」

「いえ、今日みたいなスキンシップはやめなきゃなと、改めて自分に言い聞かせていただけですよ。あれは異性の友達とするものじゃないって理解しましたので」


 逆に今までは何だと思ってたのか気になるけど、理解してくれたんならまぁ良いでしょう。


「だったら、いい加減そこから出てきてくれる? 今、南条邸の人達が心配して探してるんだからね? あなた、めっちゃ迷惑かけてっからね?」


 そうは言っても、その発端を作ったのは俺だけど……でもまさか家を飛び出すなんて思わないじゃん?

 ……いえ、俺も反省しております。


「……しまった。また葵お姉様に心配かけちゃった」


 そう言いながら南条さんがドーム型遊具から出てきた。


「葵お姉様って、青髪の人?」

「そうですけど……葵お姉様を見た事――あるんですか?」


 真剣な眼差しでそう尋ねてくる。やけに気になってる様子なのはどうしてなのか。まあ、別に隠す事でもないから答えるけど。


「さっき会った」

「それより以前は?」

「以前……あ、そういえば今日の夢の最後の方に出てきたあの人、あれに似てるような気がするな……顔とか思い出せないけど、髪の色は絶対青だったし」


 って言っても、髪色が同じなだけで葵さんとやらなはずがないけど。


 だって、だとしたらあの少女は葵さんの近しい人物、それも当時の葵さんよりも歳下の人物って事になるし、そうなってくるとあの少女たる人物は限られてくる。


 それこそ、楓先輩やここにいる南条さん本人とか……でも、あの少女は黒髪で、楓先輩は銀髪だし南条さんは金髪なんだし、同一人物なわけがない。


 つまりは葵さんもまた夢に出てきた青髪の女の人とは別の人だ。


 なんて推理してみたけど、今はそんなのは関係ないか。


「どんな夢だったんですか?」

「その昔、虐められてた女の子を助けた時の夢。何の偶然か、その場所がまさかのこの公園なんだよね」

「……覚えて、くれてたんだ」


 南条さんが少しだけ俯いて何かを呟いた。


「どうかした?」

「いえ、何でもありませんよ。ただ、椿はその子と同じ――幸せ者だなぁって改めて思いまして」

「あの子は虐められてたわけだし幸せだったとは思えないけど」

「過去はどうあれ、今は幸せですよ。隼人くんに救われたこの椿が言うんだから間違いありません」


 南条さんを助けた覚えはないが、本人はあの件だったり今回の件だったりで助けられたと思ってくれているのかもしれない。


 それは別に悪い事じゃないし、少しだけ自分を誇りに思っておこう。


「まぁ何にせよ、今頃あの子が虐められたりせず元気でやってればいいなって思うよ。それを確かめる方法も無いんだけどね……せめて名前くらい思い出せれば、奇跡的に身近にいた場合はそれが分かるのに……って、こんなの南条さんにする話じゃないか。さて、そろそろ帰――」

「——椿」

「えっ……?」


 聞き間違えじゃなければ、確かに今、南条さんは自分の名前を口にした。


 それが何に対してなのか、もしかしてあの少女の名前――それは私だ、と言っているのかと、ここまでの彼女の発言から考えて、その可能性は少なからずあるかもしれないと思ってしまう俺がいる。


「そうしてくれていいと言ってくださったので、早速椿は隼人くんを否定……というより怒ります。たった一つだけ、今思い付いたので」

「そ、それはいいんだけど……初っ端からブチギレ南条さんじゃないよね……?」


 この時既に、先程の黒髪の少女=南条さんかもしれないという考えを捨てている俺がいた。


 だって、そうだとしたらあの流れから怒られる展開になるわけないもん。


「だから……いつまでもその呼び方やめてよ! この公園に来た時は『椿』って呼んでくれたじゃない! それなのに『南条さん』に戻すとか、よそよそしいわよ!」


 葛西の時みたいな強烈な口調じゃないから、これが彼女の真のブチギレ状態かどうかは不明。

 でも、とりあえず俺は今、強烈に睨まれてる……ような気がする。


 なのにその表情すらクソ可愛いとか反則だろ……やばい、もっと怒られたいとかいうドM志向が芽生えそうだ。


「き、聞こえてたんだ……」

「まあ、隼人くんがここに来てくれたのにはすぐ気付いたし、それでずっと見てたから。……それで、その……これからは『椿』って呼んでほしいですっ」


 表情が一転して、かなり恥ずかしそうにもじもじしながらそうお願いしてくる。


「わ、分かった……呼ぶから」


 そんな難しい頼みではない。実際に星名琴音だって名前で読んでいるのだから。

 なのに凄く緊張しているのは何故だろう……。


「はいっ、どうぞお呼びください」

「じゃあ……つ、つつつびゃっぎ」


 やべ、緊張して噛んじゃった……どうしてなんだ、琴音と同じようにするだけなのに……。


「……何噛んでんのよ? 明日の昼休みにグラウンドの中心で『おい、海櫻の男ども! 分かってんだからな?! 俺が銀河一カッコいい男だから嫉妬して睨んでやがるって事はな! でも睨んだところで結局お前らは俺以下だ! だからもう諦めな!』って叫ばせるわよ?」


 おい、忙しい奴だな……もじもじしてたと思ったらまた怒ってるよ。


 それより、何だその究極の罰ゲームは。

 火に油注ぐの確定じゃん。

 よく咄嗟に思い付いたねそんなセリフ……。


 ただの平凡な顔面の俺がそんな発言するとか、暴動発展もいいとこだろ……殴り合いの喧嘩とかそういったものはしたくありません。


「そんなん余裕で却下だわ……ちゃんと言い直しますから」

「ならいいんです。ささっ、どうぞお呼びください」


 だから、何なんだよその表情変換能力は!


 お次はにっこり笑って俺に名前で呼ばれるのを待っている。


「つ、椿……」

「声が小さ過ぎて聞こえません。もっとはっきり呼んでください」


 今度はジトッと睨まれる。


 確かに、小声過ぎたかもしれん……次こそ決めねば。

 そう思って一度大きく深呼吸し――、


「椿」


 意を決してもう一度名前で呼ぶ。


「はいっ」


 すると、彼女は僅かに頬を赤らめ微笑した。


「面と向かって名前で呼んでもらえると、ちょっと照れてしまいます」

「んじゃ、やっぱ苗字呼びに――」

「嫌です」

「だったら照れんなよ……んじゃ帰るぞ、椿」

「はいっ、隼人くん!」


 歩き出す俺の横に椿が並んでくる。


 極力平常心で呼んだつもりだったが、今のもやっぱり緊張していた。


 けど、横にいる椿が嬉しそうに笑っているから、名前呼びをした甲斐があったなと、そう思える自分もいた。

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