23 これだけは勘違いではなかった

 家の鍵を開け、玄関に入って倒れ込む。

 濡れたワイシャツから水が体に染み渡って寒い。玄関まで濡らしてしまった。


「――隼人くん?! 気をしっかりもってください! 今、救急車呼びますから……!」


 そんな俺の肩を南条さんが揺らし、ありがた迷惑な発言をしている。


「全然大丈夫だから絶対に呼ばないでください……それより、迎えを呼んでおいたら? それが来るまでうちにいていいよ」

「はいっ、お邪魔します」


 そう言って南条さんはうちに上がろうとして、ピタッと静止した。


「……ふぅ、危なかった」

「え、今土足で上がろうとしてなかった……?」

「いつも自分の部屋で靴からスリッパに履き替えているので、ついその癖が……玄関で靴を脱がなきゃいけないのは勿論知ってはいましたよ? でも人様の家にお邪魔するのは小学生の頃に朱音のお家にお邪魔して以来で、随分久しぶりでして……」


 なるほど、南条邸は土足らしい。流石、一般庶民とは格が違うぜ。


 つーか、小学生の頃以来って……それも葛西の家って、分かっちゃいたけどマジで今日まで葛西ぐらいしか友達いなかったんだな。

 まぁ、葛西に関しても南条さんが友達って言ってただけで、俺から見たらただの主従関係にしか見えないけどね。


「スリッパならそこにあるから、テキトーに使って。あ、それからそのブレザープリーズ」

「どうぞ」


 ひとまず南条さんからブレザーを受け取る。


「じゃ、俺は着替えてくるんで」


 制服と同じくびしょ濡れの靴下を脱いでから、一度脱衣所に行ってバスタオルを手に持ち、二階へ上がり自室に入る。


 そのまま濡れたブレザーをとりあえずハンガーに掛け、ズボンとワイシャツを床に脱ぎ捨てる。


「あのぉ……隼人くん。どの部屋にいますか?」

「――はっ?!」


 まさか二階に上がってくるとは、パンツ一丁の姿を南条さんに見られたら非常にまずい。

 というか、今からパンツも脱ぐから究極にまずい。


 ここはひとまず無反応でいかせてもらおう。


 大急ぎで体を拭き、着替え完了。

 部屋の外に出ると美咲の部屋の前に南条さんがいた。


「むぅ……何で反応してくれないんですか? お着替えのお手伝いをしようと思いましたのに」

「ごめん、タイミング的に部屋に入ってこられると色々問題アリだったから」


 あえて何も言わないけど、お手伝いとは? 俺は南条さんに幼稚園児か何かだと思われているのだろうか。だとしたら凄く切ないんだが。


 リビングに行き、念の為に熱を測ると36.8度だった。ひとまず安心だ。


「隼人くん、お風呂に入ってはどうですか? 身体を温めれば免疫力が上がるらしいですよ? 風邪を引かない為にも、今から入るべきです」

「へぇ、そうなんだ。んじゃ風呂沸かしてくるわ」

「それなら椿にお任せくださいっ! お風呂の場所はどこですか?」

「そこ出て右」


 何か、南条さんが沸かしてきてくれるらしいからお任せしよう。

 俺が場所を指差すと、南条さんはライラちゃんのオープニング曲の鼻歌を歌いながら風呂場に向かっていった。


 クソかわええ鼻歌やなぁ。


「隼人くぅ~ん……! やり方が分かりませぇん……!」


 そんな悲鳴が風呂場の方から聞こえてきた。


 栓してボタンポチッと押すだけなんだけどな……ボタンが分からなくても蛇口からお湯を入れてくれればいいだけなんだけどな……。


『椿にお任せくださいっ!』とか、マジでその自信はどこから来てやがったんだ……。


 人任せにしないで最初から自分で行くべきだったと若干後悔した。


「南条さん、やっぱ自分でやるから――」

「ふっふっふっ、出来ましたよ隼人くん。この蛇口からお湯を入れればいいんだって閃きました」


 風呂場におもむき南条さんに声をかけたのだが、渾身のドヤ顔が返ってきた。可愛いけど、微妙に違ってるからね?


「大体合ってるけどちゃんと栓してね。これじゃお湯溜まんないから」

「栓……? あっ、これか。イージーミスですね、次から気をつけます」


 そう言って南条さんは苦笑いを浮かべた。


 断じてイージーミスなどではなく重大なミスなんだけどね。南条さんが俺を呼ぶ前から閃いていたらと思うとヒヤッとするよ。


「それから南条さん、もう一つ方法があるんだけど、この『ふろ自動』ってボタンを押せば勝手に溜まるから。こっちの方が、溜まったら呼び出し音が鳴ってくれるから使い勝手がいいのです」

「なるほどです」


 納得した顔でそのボタンをポチッとする南条さん。


「――今は押さなくて良いから! あぁ、じゃあ蛇口のお湯止めて……!」

「でも、こっちの方が速く溜まりませんか?」


 ……ん? 確かに言われてみればそんな気もする。普段はボタン押して十五分くらいかかる気がするけど、二刀流なら十分もかかんないんじゃね?


「南条さん、もしかして天才……?」

「隼人くんの方が天才ですよ。毎回椿より試験の結果いいですし」


 南条さんはめっちゃ勉強出来ると思ってたから、俺の方が学力が高いなんて凄く意外だ。


 まぁ俺自身も、いつも定期試験では真ん中よりちょっと高いくらいの学年順位だから天才なんかじゃないんだけどな……って、ちょっと待て。


「どうして俺の試験結果知ってるの……?」

「試験結果って、毎回張り出されるじゃないですか。その時に隼人くんの順位だけは毎度欠かさずチェックしてます」

「マジか……」


 湯煙の熱気で満たされつつある風呂場の中にも関わらず、何故かちょっと寒気が走った。


 ホントに風邪引いちゃったかもしれんな……。


「椿って、一年生の一番最初のテストとか下から数えた方が全然早かったんですよ」


 そう言う南条さんとともにひとまず風呂場を出てリビングに戻る。


「へぇ、意外だな。さっき俺の方が試験結果がいいって聞くまで、トップの方にいるもんだとばかり思ってたわ」

「むぅ、一年生の最後の期末試験、名前並んでたじゃないですか。もちろん、椿が下ですけど」


 頬を膨らませる南条さん、可愛いなぁなんて思いつつソファーに座ると、南条さんも隣に座ってきた。


「へ、へぇ……そうだったんだ。全然気付かんかったわ」


 俺の服と南条さんの制服が触れ合うほどに距離が近い事に動揺しつつ、そう答える。


 正直、他人のテスト結果になんて何の興味も無かったから自分以外の順位のチェックなんてしてこなかった。

 だから南条さんの名前が下にあったのにも気付かなかったのだ。


 でも、思い返してみれば海櫻生達は当然南条さんの試験結果をチェックしているはずなのだが、今まで誰かから南条さんに関して成績優秀だと聞いた記憶はない。

 つまり南条さんの発言は事実なのだろう。


「隼人くんのテスト結果に近づきたい一心で頑張ってきたんですよ? その甲斐あって椿の学力は飛躍的に向上しましたから、隼人くんのおかげですねっ!」


 南条さんはそう言ってこちらに顔を向けてきた。

 

 ――だから近いってば!


 そう思ったところで拒めない自分がいた。


「ええっと……俺のおかげ、ね……ど、どう致しまして……?」


 そうは言われても全くピンとこないからどう反応すべきか分からず、物理的距離による動揺も相まってそう答えてしまった。


 そして訪れる沈黙。何となく気まずい。


 けど、何が楽しいのか分からないが南条さんがニコニコしてるのは救いだ。


「じゃ、じゃあそろそろ風呂入ってこようかな……?」

「はいっ、ちゃんとあったまってくださいね」


 まだお湯は溜まってないと思うが、この沈黙が耐えられないから洗面脱衣室に向かい、衣類を脱いで風呂場に入り、ひとまずシャワーを浴びる。


 もうそろそろいいかな?


 ボタンを押して給湯を止めて湯船に浸かると、体の芯から温まっている気がして凄く心地がいい。


 と、ここで浴室扉の向こう側に影がチラついたような気がした。


 浴室扉に目を向けると、やっぱり人影が動いている。


「……南条さん? そこにいるの?」

「――ひゃいぃ?! あのぉ、えーっとそのぉ……お、お湯加減はいかがですかぁ……?!」


 どうやらいきなり声をかけたから驚かせてしまったようだ。とはいえ、俺もそこに南条さんがいるのに少しびっくりしたから、おあいこでお願いします。


「丁度いいよ~」

「ホントですか?! ならよかったです」


 と、顔は見えないが安堵していそうな声音で反応が返ってくる。


 ……南条さんが沸かしてくれた風呂か。

 これは夢ではなく、現実なんだよなぁ。


 そもそも、俺の家に今、南条さんがいるのだって普通ではありえない状況だ。

 ……いや、今の俺にとってはこれが普通になったというわけか?


 そう考えると、間違いなく変わっている。


 南条さんが二年三組にやってきたあの日、告白されたと勘違いした挙句、人生が百八十度反転したと浮かれていたのが現実。


 それでもたった一つだけ――これだけは勘違いではなかったと今になって気付いた。


 あの日を境に、間違いなく俺の人生は変わり始めたんだ――。

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