20 差し込む光
アスファルトから跳ねる水がズボンの裾を濡らしているのか、段々と足首への張り付きが強力になっていく。靴も靴下もすっかりびしょ濡れで気持ちが悪い。
時折吹く少し強めの風がビニール傘を何度も裏返し、その度に直してをくり返す内にブレザーもかなり濡れてしまった。
「――うおっ?!」
これまでよりも威力のある風が傘を裏返し、その勢いで骨が何本か逝ってしまった。
「クッソ……直んねぇ」
半数近くの骨組みが機能しなくなった傘は、もはや傘としての役目を果たせる領域まで戻る事はなかった。
こうなってしまっては持っているには邪魔以外の何物でもないが、道端にポイ捨てするわけにもいかない。
傘を畳み、ネームで留めて出来る限りコンパクトにしてから走り始める。
まったく、何をやってるんだ俺は……こんな大事な日にあの日と同じ――いや、それ以上の失態を犯しているんだからこれっぽっちも笑えない。
別に浮かれていたわけではない。今回は緊張しすぎて、昨夜はいつまで経っても寝られなかったのだ。
でも、結果としては同じく寝坊。ただ、同じ寝坊でも一つだけ違う点が存在する。
それは目覚めた時刻。前回は昼前だが、今回は時間にして六時間目の終わり頃。
だからもう既に授業は終わり、放課後になってしまっている。
完全なる無断欠席とはこの事である。
お前は大学生かっ……! と、思わず自身にツッコミたくなるくらいには、自分でもこの圧倒的大寝坊に呆れてしまいそうになる。
それでも、諦めて明日にしようとは思わなかった。
南条さんは俺の事で色々と落ち込んでいる。
それに関しては葛西から聞いた話にすぎないが、先週の土曜日と今週の月曜日、自分で見聞きした南条さんの様子と言葉からもそれは事実で間違いない。
南条さんが二年三組の教室にやってきたあの日、俺に向けてきた表情が本物だとしたら、もう一度その笑顔を取り戻してほしい。
一日でも早く元気になってほしいから、だから今日じゃなきゃダメなんだ。
「はぁ……はぁ……ははっ! どうして俺はあの子の為にこんなに必死に、なってんだろうなっ……!」
たった一日しかまともに関わった事がないのに。
感じた心の熱も吹雪にでも遭ってしまったかのように冷却されたのに。
どうしてかどうでも良い存在だとは思えず、身体中に雨を浴びながら海櫻学園に向かって走り続ける。
何とか間に合ってくれと、心の中で祈りながら――校門前に辿り着く。
「あっれぇ? 今話題の風見隼人くんじゃん。びしょ濡れだけど、どうしたの?」
そんな声と同時に、俺に雨が降り注ぐのが止まった。
「はぁ……?」
一体誰が俺に声を掛けてきたのかと横を見ると、美少女ビッグ5の一角、南条さんの実の姉――
見れば、雨が止まった理由が分かった。
止まったと言うよりは遮断されたと言う方が正しいか、南条楓先輩が自分の傘に俺を入れてくれている。
「――南条楓先輩?! じゃあまだ――じゃなくて、入れてくれてありがとうございます」
きちんと礼を言ってから俺が来た道路、その奥に目を向けると何度も見てきた高級車が停車していた。
良かった……何とか間に合ったみたいだ。
「いいよいいよ。てかキミ、今日はまたビビって休んでるって風の噂で聞いたけど?」
この先輩も海櫻学園に所属しているわけだからあの件を知っているのも当たり前というわけか。
どうやら今日の俺は、生徒間では嘲笑されるのが怖くて休んでいるという話になっているようだ。
まぁ、そう思いたいのならもはやそれでも構わないのだけど。
「ただの寝坊です。まあ、今来たんで完全に無断欠席ですけどね」
「寝坊、寝坊ねぇ……まさかっ! 夜な夜なエロ動画を観漁ってたとか?! それで自分の息子を慰めすぎたのが原因で枯れ果てちゃって、疲労困憊で起きられなかったとか?!」
分かっていたが、かなり強烈な人である。初対面なのに、息をするように下ネタをぶっ込んできやがった。
これが南条さんの姉とは到底信じ難いのだが、現実だからある意味怖い。
「南条さん――妹さんは車の中にいるんですか?」
「あぁ~! 椿をおかずにしてたんだ!」
会話が成り立ちそうにない予感がしてしまった。最後にもう一度だけ確認してみて、駄目そうなら自分の目で確かめに行こう。
「あの、南条椿さんは車の中にいるんですか? あの子に話があるんですけど」
「よし、否定は無しと。椿ならまだ来てないはずだよ」
「ありがとうございます。それじゃ――」
と、南条さんの元に向かおうと思ったその時、校門に近付いてくる彼女の姿が目に映った。
□□□
今日も何も変えられずに帰りのホームルームが終わってしまった。
何も行動しないつもりだったわけじゃなくて、今日は隼人くんが学校に来てくださらなかった。
だからといって、行動しようにも何も出来なかったと言った方が正しいというのはただの言い訳で、今日まで何も出来なかった自分が悪いんだ。
隼人くんがやっぱり学校に行きたくないと思ってしまったのなら、それは全て私の責任。
そうではないのなら、また別の理由で今日は来ていない事になる。
体調を崩してしまっているのなら、それは勿論心配だからすぐにでも駆け付けたいけど、違った場合を考えると足が
今日は星名さんもお休みらしい。
星名さんの欠席は決して珍しい話ではないけど、仮に今、隼人くんと星名さんが一緒にいるとしたら?
それを見て耐えられるのかと聞かれたら、絶対に無理。
今から隼人くんの家を訪ねて、そこで二人が学校を休んでまで逢瀬している現場に出会したら、私は間違いなく朽ち果てる。
隼人くんがそんな理由で休むわけがないと信じているのに、どうしても怖くなってしまう私がいる。
今日の天気は雨。
もはや私の心は曇りなんかじゃなくて、ただの雨。
今日も後ろ向きな思考を巡らせてばかりで、言い訳がましい大雨女が南条椿、この私だ。
「椿お嬢様。お迎えが到着した様です」
良治から声を掛けられ、鞄を持って立ち上がる。
「――ちょっと待ったぁ!」
教室を出ようとしたその時、朱音がいきなり大声を上げた。
「……あ、いえ、その……まだ晴れてないので」
「天気の事? 今日は一日中雨予報なんだから、晴れたりしないんじゃない?」
「えっと、だからその……昨日、今日の夕方には晴れる予告をした手前、そうなってないのが納得出来ないと言いますか……」
「気にしないで。天気には誰も逆らえないわよ」
「そういう意味じゃなくてですね……」
だとしたらどういった意味だというのか、朱音は妙に複雑そうな表情をしている。
「待ってたって晴れるわけがないだろ。何より、校門前にずっと停車させているのは迷惑がかかる。だから早く行くぞ」
「はぁ……マジであり得ない」
良治の言い分を聞いた朱音は、ため息を吐いてから鞄を手に持った。
そのまま教室を出て昇降口に向かうまで朱音はずっと浮かない顔をしていた。そして、下駄箱からローファーを取り出すと雑にそれを投げ捨てて、荒々しくそれを履いた。
「お、おい……雨がそんなに気に食わないのか?」
「別に……良治には関係ない」
「――ひっ!」
良治の問いに、あからさまに不機嫌な朱音はそのまま良治をキリッと睨みつけた。それを見た良治は顔を引きつらせ、先に昇降口を出てしまう。
見れば外は、先程教室から見た光景よりも大分雨は弱まっている気がする。ほとんど小雨に近い感じだ。
「え、えっと朱音……? 雨、かなり弱くなってるわよ? だから元気出して」
「今の椿お嬢様にそんな励ましをされても、全く説得力なんてありませんね」
「えっ……?」
滅多に見ない不機嫌なオーラを私に向けて、朱音は先に外に出てしまった。
その後を追って私も外に出て、傘を広げる。
一歩、一歩とただ歩いているだけ——私はまた、諦めてすぐにでも帰ろうとしてしまっている。
椿は本当にこれでいいの?
そんな迷いとは裏腹に、段々と校門に近付いてしまう。
やっぱり嫌よ……!
私は――椿はこのまま終わりたくなんかない……!
月曜日の朝、私は隼人くんに謝った。
でも、多分隼人くんには私の謝罪の気持ちは伝わっていない。
そんなの当たり前だ。何の前振りもなくいきなり一方的に謝って、それで隼人くんからの反応を待たずに逃げ出す女の何を信じられようか。
信じてもらいたい。
椿は隼人くんが本当に大好きだから、もう一度誠心誠意謝って、それで隼人くんから言われる言葉を全部受け止める。
それで一歩でも前に進んで、いつの日か椿の事を信じてもらえる日が来てほしい。
だから今から一人で行こう――隼人くんの家に。
椿には沢山の願いがある。
その中で今の椿に願う資格があるものなんて一つもないのかもしれない。
でも、たった一つだけ
それを願った瞬間――雨が止み、雲の隙間から光が差し込んだ。
私は奇跡でも起こしてしまったのか、いや、そうじゃなくて単なる偶然。
でも、奇跡を見ていると言ったら、正しいのかもしれない――だって目の前に。
「どうして――」
今、椿の目の前にいてくださるのですか?
――隼人くん。
激しく脈打ち始めた鼓動が私の全身を震わせ、手から傘が離れていた。
□□□
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます