9 イライラ椿、ムカムカ椿

□□□



 陽が沈み始め、暗くなりつつある無意味に広い部屋の中、ベッドに横になっていると自然と涙が出てしまう。

 目蓋を閉じると真下に流れ、指を這うと枕が濡れていた。


 隼人くんが学校に登校してくださらなくなってしまい、二日の時が流れてしまった。


 どうしてこんな事になってしまったのか。


 そんなの全部、椿のせい。全部全部っ……! 私が引き起こしてしまった事なんだ。


「はぁ……」


 あれから四六時中それだけが頭を駆け巡り、何度も何度もため息を吐いてしまう。


 今、海櫻学園では隼人くんの話題で持ちきりとなってしまっている。それも、全部が全部心無い話題。


 隼人くんには何一つとして非は無いんだから本当にやめてほしい。


 だから、私には隼人くんが学校に登校してくださるようになった時に備えて、できる限り隼人くんが過ごしやすい環境にしておく責任がある。


 この二日間、海櫻学園の全学年全クラスに足を運んで、隼人くんを悪く言うのはやめてほしいと頼み込んだ。


 結果として、今も尚隼人くんを悪く言う話題が続いてしまっているように、ほとんどのクラスは形だけ理解してくれたフリをしているだけだった。


 それでも、幸いにも二年三組と私の所属する二年八組だけは理解を示してくれたから少しだけホッとした。

 これで隼人くんが登校してくださるようになっても、クラス内では快適に過ごせると思う。


 ……なんて、たったこの程度で罪滅ぼしのつもりになっている自分が本当に憎くて仕方がない。


 あの時、隼人くんの目からは涙が流れていた。

 そこでようやく、自分の犯した本当の罪に気が付いた。


 何とかしなきゃって、そんな焦りが身体中を駆け巡り、本当の椿の気持ちを知ってほしいなんて独りよがりな感情をあの時の隼人くんに押し付けようとしてしまった。

 

 でも、当たり前だけどそんなのとっくに手遅れで拒絶されてしまった。


 だったらどうするのが正解だったのか。

 きっと、映画館の帰りの車の中で朱音に噂について聞かれた時に否定しないのが正解だったのだと思う。


 そうすれば、隼人くんに涙を流させずに済んだはずだから。


 けど、それが正解だったとはどうしても思いたくなくて……だって椿は、隼人くんに好きって伝えられていないから――。


 本当の気持ちを伝えられていないのに、流れた噂を利用して偽るなんて隼人くんに申し訳なさ過ぎる。

 それに、椿はちゃんと自分の想いを伝えた上で、隼人くんにそれを受け取ってほしい。


 これも独りよがりな考えだと思う。

 でも、どうしてもこれだけは譲れなくて――。


 無理だと言われてしまった。

 吐きそうだとも言われてしまった。

 もう、椿の顔なんて見たくもないのかもしれない。


 だから、こんな事を願うのは我儘だとは分かってるけど――。


 どんな話題でも構わないから、どれだけ罵倒されても受け入れるから、もう一度だけ私と――椿ともう一度お話してほしいよ……。


 止めどなく流れる涙が枕を濡らし続ける。


「椿お嬢様、お夕食の準備が整いました。ダイニングルームまでお越しください」


 部屋の扉がノックされ、外側から常勤のメイドに声をかけられた。


「……もう少ししたら行くから、あおいお姉様に先に食べ始めるよう伝えておいて」

「かしこまりました。そのようにお伝えしておきます」


 涙が止まらない以上、今すぐに行くわけにはいかない。


 枕に顔を押し付け涙が止まるのをじっと待つ。

 その時間が、物凄く長く感じた。



◇◇◇



 ダイニングに来ると、伝えてもらった通り既にみんな先に食べ始めていた。

 そのまま空いている上座側の葵お姉様の隣、というかいつも通りの場所に座る。


 まぁ、お父様もお母様も別邸にいてほとんどこの家には帰ってこないし、お兄様も結婚してからお爺様に豪邸を買ってもらってそこに住んでるし、さくらお姉様も結婚してその旦那様と一緒に住んでるから、いつの間にかこの席が私の定位置となっている。


 ちなみに、お兄様も桜お姉様もお見合い結婚だ。

 私は絶対、それは嫌。というか、隼人くん以外は絶対嫌。


「どうしたの? 椿ちゃん。目が腫れてるじゃない。それにここ最近元気が無いけど……何かあった?」

「あっ……」


 迂闊うかつだった。涙が止まったからダイニングまで来たのだけれど、こんな事聞かれるなら鏡で顔のチェックをしてくるんだったわ……。


「それがさ、椿ってば学園で――」

「何でもありません……! 楓お姉様は口を挟まないでください」


 私への質問に対して、葵お姉様の向かいに座る楓お姉様が勝手に答えようとしてきたから、すかさずそれを止めに入る。


「あれま、怒られちった」

「別に怒ってません」


 もちろん嘘だ。正直楓お姉様には結構怒ってる。

 伝われば優しい葵お姉様は心配してくれるだろうけど、それじゃまた迷惑を掛けかねないから楓お姉様にはちょっと黙っててほしい。


「うーん、椿ちゃんもお疲れみたいねぇ。あ、そうだっ! 明日は土曜日なんだし、気分転換にでも行ってきたら? そうすれば、ストレス発散にもなって少しはイライラも落ち着くと思うし」

「葵お姉様、椿は別にイライラなんてしてません」


 これも嘘。楓お姉様には結構イライラしている。


「いやぁ、してるから。椿、あれから毎日機嫌悪いから。今朝なんて遂に楓に手を上げて。いやぁ、痛かったわぁ!」


 機嫌が悪かったのは、楓お姉様の私への発言一つ一つに対してですね、はい。

 積もり積もって叩いちゃいましたごめんなさい、はい。

 ……あれから毎朝毎朝、登下校中にあおってくるからイラつくのよ。


「楓ちゃん、ちょっとお黙り」

「はぁーい……わかりましたぁ」


 葵お姉様がお叱りになると、楓お姉様は気怠げに返事をした。


 本当に分かったのかしら? 絶対分かってないわよね? はぁ、イラッとするわ……。


「……そうですね。葵お姉様の言う通り、明日辺り気分転換に行った方が良いかもしれませんね」


 葵お姉様はともかく、この三女と明日もこの屋敷で一緒の時間を過ごすとか、今の私の精神状態的に考えると気が狂ってどうかしてしまいそうだ。


 それに、来週以降もどうせ煽ってくるんだし、そうなったらいよいよ叩くどころの話ではなくなってしまうかもしれない。


 積もり積もって殴る、に変わっちゃうかもしれないわ。

 そうならない為にも、できる限り発散しておかねばよね。


「椿お嬢様、お供致します」


 下座側に座る良治が口を開いた。


「ほほぅ、なるほどなるほど。いやぁ、分かっちゃいたけどねぇ」


 何を言ってたのか聞こえなかったけど、楓お姉様がいきなり不気味な笑みでボソボソと独り言を呟いた。


 何なのかしらこの人……怖。


「それなら、朱音も一緒にどうかしら?」


 良治と同じく下座側に座る朱音に声を掛ける。


 葛西朱音と瀬波良治――高校生活三年間、この屋敷に住み込む事になっているこの二人。

 幼少時代は、私にとっては謂わば幼馴染のような関係だったこの二人。


 小学生の頃までは仲は良かった。朱音に関しては、親友的存在だったと私は思っている。

 けど、中学生になるとそんな関係も嘘のように消えてしまい、ただの主従関係になってしまった。


 高校からは住み込みになると聞いて、広がってしまった距離を戻せるかもと思ったけど……この一年、維持どころか更に広がってしまったと感じている。


 もしかしたら、明日一緒にお出掛けでもすれば少しでも距離を戻せるかもしれない。


 だから、朱音にも来てほしいのだけど――、


「あはぁ……申し訳ございません椿お嬢様。私、あいにく明日は都合が悪くて」


 朱音は苦笑いを浮かべてそう言った。


「そうなの……なら、日曜日はどうかしら?」


 何が何でも明日にする必要はない。かなりの高難易度ミッションだけど、私が三女からの煽りを一日耐えれば良いだけの事。

 できる限り接触を避ける為に部屋に閉じこもれば、ギリギリ怒りの糸は切れずに済む可能性はあるはず……。


「あらぁ? 椿ちゃん、日曜日はダメよぉ? 桜お姉様の所にみんなで行く事になってるじゃない」


 そうだったぁ……そんなのすっかり忘れてしまっていたわ。


「うげっ……楓もその事忘れてたわ。まーたあのおチビちゃんにおばさん呼ばわりされるやつじゃん、最悪なんだけど……しかも何? 白髪おばさんって。銀なんだけど?」


 それだけは意見が合うわね。椿も同意よ、楓お姉様。思い出すだけでイラッとするわ……。


『ちゅばきおばちゃん! 何で白い髪の毛生えてるのぉ?! ママには無いよぉ?』


 じゃないのよ……白じゃなくて金だっつーの! ムカつくわね、まったく。しかも、ホントに一本だけ生えてたし……。


 でも、私達は決してまだおばさまなんかじゃない……!


「白髪おばさんはともかく、事実じゃない。私達はあの子の叔母なんだからぁ」

「椿ぃ、おばさんがなんか言ってるよ?」

「みたいですね、楓お姉様。三十路近いおばさまが何か言っておられますね」

「――ちょっとぉ! まだピチピチの大学三年生、ハタチよぉ?! おばさんなんかじゃないわよぉ!」

「間違えました、葵お姉様。三十路近いのは桜おば――お姉様の方でしたね」


 ピチピチの基準は分かりませんが、そんな葵お姉様を椿は応援しておりますわ。


 ……って、何でこんな呑気な事言ってんのかしら、私。


 今の椿は、おばさんと言われるのなんか可愛く思える程に別の事で落ち込んでるのだ。


 けど、落ち込んでるだけじゃ何も始まらないから、来週には何としてでも何かしらのアクションを起こさなきゃダメだ。

 隼人くんが学園に来てくれなかったら、家に押しかけてでも何とかしたい。

 妹さんが海櫻学園の一年生にいるのだって知ってるから、隼人くんが学園に来てくれなかったら家での様子を聞きたい。


 どんな事でも良いから、彼の事を知りたい。


 だから、来週になってまで楓お姉様にイライラしてる余裕なんて私にはない。その為にも明日は楓お姉様へのイライラを発散しなくては。


「……じゃあ、朱音はまたの機会という事で。良治、明日は頼むわね?」

「承知しました」


 あ、でもちょっと待って。

 ライラちゃんの映画、隣に座る隼人くんにドキドキし過ぎて内容全く頭に入ってないんだったっけ。明日はそれも観直したいかも。


「あ、でもその前に、明日は一人で観たい映画があるから、その後に集合で良いかしら?」

「あれ? 椿お嬢様、先日映画を観たのではありませんでしたか?」


 ちょっと朱音、ややこしくなりそうだからそれを言わないでよぉ。


「そ、そうなんだけど……他にも気になるのがあるのよ」


 もちろん、他に気になる映画なんて無い。

 でも、こうでも言わないと話が早く進んでくれない気がしたから、とりあえずそういう事にしておく。


「なら良治も一緒に連れてけば良いじゃん」


 楓お姉様が頬杖を突いて欠伸あくびをしながらそう言ってくる。


 連れていけるわけないでしょ?! 椿は、ライラちゃんを観るのよ? 椿がライラちゃん好きだって知ってるの、隼人くんだけなのよ? 二人だけの秘密なのよ? 絶対に他の誰かにバレるわけにはいかないわ。


「……おい楓、ちょっとマジで黙ってくれるかしら? 言ったわよね? 一人で観たいって」

「おぉ、怖……」

「まぁまぁ、落ち着いてくださいお嬢様方。僕はそれで構いませんから……」


 良治が私と楓お姉様を宥めてくる。


「じゃあ明日、観る映画の終わる時間が分かったら連絡するから、その時間に西宝シネマズまで来て頂戴」

「承知しました、椿お嬢様」


 ふぅ……何とかライラちゃん好きが誰にもバレずに済んだわ。まったく、余計なことしか言わない姉よね。


「でもそれってさぁ、デートの待ち合わせみたいじゃん? うっはぁ!」


 ムカッ……。


「ふざけないで……違うわバ……!」

「あぁ、またバ楓言ったぁ。仮にもお嬢様なのに、そんな暴言、いっけないだぁー!」

「――なっ、そっちだってお嬢様のくせにいつでもどこでも下品な事ばかり言ってるじゃない……!」

「楓は良いんですぅー」


 ムカッ、ムカッ、ムカッ……!


「はぁ……はぁ……」


 落ち着くのよ、椿。この人の術中にはまっちゃダメよ。あなたにはやるべき事があるでしょう?


「ふぅ……」


 そう自分に言い聞かせて何とか落ち着きを取り戻す。


 良し、こうなったら無視しよう。

 とりあえず、隼人くんとの件が解決するまで楓お姉様は無視、絶対無視。

 登下校中は耳栓。うん、いけるっ……!


「楓ちゃん、その辺でおやめなさい。椿ちゃんが可哀想でしょ?」


 このダメ三女にもっと言ってやってください、葵お姉様。


「それから椿ちゃんも」

「え、なんでですか……?」


 ここから楓お姉様へのお説教が始まってくれると思ったら、まさかの私へのお説教にシフトチェンジしそうな雰囲気が流れ始めて虚をつかれてしまった。


「煽った楓ちゃんが悪いのは間違いないんだけど、暴言はおやめなさい。そんなだと、ついうっかり外でも出ちゃうよ?」


 確かに葵お姉様の言う通り、それはまずい。これまで色々我慢して必死に繕ってきたのに、たった一度の過ちで全て無に帰るのは最悪以外の何ものでもない。


「聞くところ楓ちゃんはもう手遅れみたいだけど、椿ちゃんだって楓ちゃんみたいなお下品な女性だと思われたくはないでしょう?」


 それを聞いて、私は全力で首を何度も縦に振った。

 こんなどうしようもない姉と同類に見られるなんて、冗談じゃない。

 仮に隼人くんにそう思われちゃったら、切腹どころの話じゃなくなっちゃう。本当、改めて気を付けよう。


「何さ~、椿ぃ。これはこれで楽しいもんよ?」


 さて、お部屋戻ろ。


「ご馳走様でした」

「あら、全然食べてないじゃない。本当、ここ最近どうしたの?」

「だから、何でもありません……あんまりお腹空いてないだけですから」


 葵お姉様の問いに対して強引に顔を緩ませてそう答え、立ち上がってダイニングの扉に向かって歩いていく。


「椿ぃ、後で一緒にエロ動画観ない?」


 そのままダイニングを出て、自室に向かった。





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