第二章 潟の氷結聖母像

14.俺のことは放っておいてくれ

 ヴェルナスタ国立高等学校・第三分校は、貴族の男子が通う本校、貴族と富裕層ふゆうそうの女子が通う第二分校に続く、平民男女に開かれた高等学府だ。


 それなりの入学試験に合格すれば、ほとんどの学費を国庫で補助され、裕福でない家庭からも通うことができる。


 職人、単純労働者であっても、国民そのものの知識水準を上げることが国力の増強につながるという、土地資源を持たないヴェルナスタ共和国の特徴的で崇高すうこうな理念によるものだ。


「お、いいな、この女優! すっげー美人!」


「だろ? こっちの写真なんかも、ほら」


「胸、本当にこんな大きいのかよ? 誰かに行ったやついねえの?」


「近所のおっさんたちの話じゃ、本気ですごいらしいぜ!」


 始業前、朝のいこいの時間、男子生徒たちが持ち込んだ新作舞台公演しんさくぶたいこうえんの宣伝紙を囲んで盛り上がっていた。


 大人たちの期待や理念、ついでに女子生徒たちの冷たい視線なども、どこ吹く風だ。


「なあ、リヴィオ。おっぱい教授としては、どうよ、これ?」


「おかしな役職つけんな! それから、俺のことは放っておいてくれ。生命いのちに関わるんだ、割とマジで」


 教本を読むでもなく広げて、なんだか無心に一口堅焼きフォカッチャを食べているリヴィオを見て、レナートはこっそり肩をすくめた。


 最近、リヴィオはいろいろとおかしかった。


 臨時の事務仕事と言っていたが、学校が終わった後、毎日夜遅くまで外出している。本人も、同僚どうりょうらしいロゼッタもはぐらかすし、時々、奇妙な独り言を言ったりもする。


 そして、今もそうだが、とにかくよく食べる。リヴィオの母親で、レナートが世話になっている宿屋の主人でもあるダニエラは、したり顔でニヤニヤするばかりだった。


「おはよう、諸君。授業を始めるぞ。席につけ」


 担当教授たんとうきょうじゅが入室し、しかつめらしく咳払せきばらいをした。男子生徒の一人が手をげる。


「すいません、教授ー。リヴィオが調子、悪そうです。エロい話に乗ってきませーん」


「そうか。人生には、そういう時もある。触れてやるな、特に女子生徒」


「えー? 聞いた限りじゃ、誰も告白されてませーん」


「この前の官服美人かんふくびじんだと思いまーす」


「言ったそばから掘り下げるな。注意したのは、そういうところだぞ」


 教授も教授で、大人らしく無神経だ。


 教室中がひとしきり笑って、授業が始まった。リヴィオ本人は相変わらず、なにかを達観したような表情だった。


 昼休みも、リヴィオはとにかく食べる。


 この前の一件でりたのか、最初から持ってきている大量の昼食の、残り半分を食べる。半分は授業の合間あいまにちょくちょく食べて、お昼にはもうない。


「リヴィオ……病院でてもらわなくて、本当に大丈夫なの? 寄生虫とか、もらっちゃってない?」


「鋭いな……ああ、いや! なんでもない! 元気だって! 成長期だよ! すぐにおまえより背、高くなってやるからな! あはははは!」


 レナートの目に、リヴィオの態度は、あからさまに白々しらじらしい。と言って、確かに不健康な感じでもない。


 ただの友人としては、それ以上、追求の仕様がなかった。


「そんなことよりさ! 俺、今日やっと、給金もらえるんだよ! 母さんにも言うけど、そんなに遅くならないで帰るから、寝ないで待ってろよ。聞いた限りじゃ造船所の雑用より、かなり良いみたいだぜ? めろ!」


「はいはい。リヴィオはすごいよ、立派だよ」


 レナートは苦笑した。苦笑でごまかした。



********************



 二人でリヴィオの家、ダニエラの宿屋に帰ると、いつものように一階の食堂で、ロゼッタが寝起きのぼけっとした顔を食卓しょくたくに投げ出していた。


「おかえりー。国の将来をになう、学生くんたちー」


「……ロゼッタさんは、学校に通わないんですか?」


「んー、まあ、そのうちね。ひまができるようなら、考えるわ。こう見えて真面目まじめな仕事人間なのよ、あたし」


 かなりがんばって、ロゼッタが、着崩きくずした赤い縁取ふちどりの紺色官服こんいろかんふくの、ささやかな胸を張る。赤毛はまだまとめておらず、寝ぐせがついてボサボサだ。


「リヴィオはがんばってるわよー。学校と仕事の両立なんて、頭が下がるわ。この調子で手伝ってくれれば……そうね、いた時間で学生やり直すのも、悪くないわね」


「やり直すって、じゃあ、ロゼッタも前は通ってたんだ。第三? 第二?」


「第二だけど、いろいろあって家ごと飛び出したから、これから入るなら第三ね。先輩づらされるのも腹立つから、あんたたちが卒業した後にするわ」


「ひでえなあ、ちゃんと親切にするって。なあ、レナート」


「そういうのが先輩づらなんだと思うよ、リヴィオ」


 レナートは給仕きゅうじの前かけを着けながら、肩をすくめた。


 二人の会話に混ざっていると、心地が良い。リヴィオとは以前からの友人だが、ロゼッタとも、なんだかもう友人のようだ。多分、リヴィオがそう接しているからだ。


 レナートは厨房ちゅうぼうに向かいながら、視界のはしでリヴィオを見た。


 リヴィオは、気がついていないかも知れない。レナートにも、学校に他の友人はいるが、彼らは皆リヴィオをかいして友人になった者たちだ。


 レナート自身は人に関わるのが得意ではなく、リヴィオの屈託くったくのなさが、とても暖かく特別なものに感じられた。


「あれ? 今日はまだ早いし、こっち来なくても良いよ。向こうで一緒に食べなさいな」


 厨房ちゅうぼうの奥で寸胴鍋ずんどうなべを混ぜながら、リヴィオの母親、ダニエラがレナートを振り向いた。


 三十六歳、リヴィオと同じ亜麻色あまいろの髪をい上げて、化粧けしょうかざもない地味な普段着姿でも、不思議と華やいだ雰囲気のある女性だ。


 身体つきもすっきりして、年齢より若く見られるが、本人的には目じりのしわが気になり始めているらしい。


「大丈夫です、手伝いますよ。あの二人の食事につき合っていたら、すぐに胸焼けしちゃいます」


「育ち盛りってのは、良いもんだ。あんたもしっかり食べなよ。身長は、後から取り戻そうったって、無理なんだからね」


「ありがとうございます。そうですね……リヴィオに抜かされないよう、がんばります」


 笑って、そうは言われてもこれに負けないよう食べるのは難しいほどの、大量の料理を二人の食卓に運ぶ。


 いつもの野菜の汁煮込みミネストローネに、鳥肉の生ハム香草巻きサルティン・ボッカ卵黄らんおう燻製肉くんせいにくをからめた小麦麺パスタに、白身魚しろみざかな衣揚げコトレッタが、どれもこれも大皿だ。


 小柄こがらなリヴィオも、すらっとしたロゼッタも、どこにそんな熱量ねつりょうをため込むのか、レナートの三倍くらいはたいらげて仕事とやらに出かけていった。


 もう少ししたら他の宿泊客が降りてくるし、最近は夕食時に、外来の食事客も受け入れている。つつましやかだが、忙しくなる時間帯だ。


 レナートが、リヴィオたちの食卓を片づけ終わったのとほとんど同時に、入り口の扉が開いた。外来客だ。


 挨拶あいさつをしようと振り向いて、レナートは動きを止めた。


 藍色あいいろの上下を着た、男性の一人客だ。褐色かっしょくの髪をしっかりと整えた、厳格げんかくな顔つきをしている。レナートを見て、少し目を細めた。


「だいぶ日を置いてしまったが、まずは、壮健そうけんそうでなによりだ」


 男は、今年で四十二歳になるヴェルナスタ共和国の当代の主宰ドージェガレアッツオ=フォスカリ、レナートの父親だった。

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