13.きつく言っておいてあげましょう

 ヴェルナスタ共和国の政務首都せいむしゅとヴェルナスタは、ラグーナ佇立ちょりつする水上都市だ。


 無数の水路が市街を走り、建物は色鮮やかな煉瓦造れんがづくり、路地は精緻せいち石畳いしだたみ、水路を渡る橋は優雅な曲線をえがいている。


 温帯性海洋気候おんたいせいかいようきこうに属して暖かく、市民は服飾と音楽、珈琲カッフェ葡萄酒ぶどうしゅをこよなく愛し、大陸中からおとずれる観光客も多い。


 もうすぐ初夏の祭り、国事こくじでもある海のめぐみへの感謝祭<海との結婚ノッツェ・デラ・マーレ>がもよおされる。


 当日は平素にも増して飾りつけられた、星の数の小型船ゴンドラが祝祭客を乗せて市街を往来し、二本の大運河カナル・グランデが合流する主宰宮殿パラッツオ・ドゥカーレの南岸からは豪奢ごうしゃ主宰公式船ブチェンタウロが進発して、一大船団が海洋に出る。


 気の早い者たちは今から連日の祝杯騒ぎで、よく晴れた週末休日ともなれば、街全体が陽気に浮かれていた。


「……また、胸が小さくなった気がするわ……ジャズアルドの奴、人の気も知らないで……」


「そ、そんなことないよ……ロゼッタ、かっこいいよ! 変わってないよ!」


比較検証ひかくけんしょうできるほど、ロゼッタの胸を熟知しているのですか」


「違うって! 他に言い方ないだろう?」


「……あんたたちに言われると、腹立たしいのも倍増しね……」


 朝の陽射ひざしにあふれた食堂で、リヴィオとロゼッタが、やつれた顔を食卓しょくたくに投げ出していた。


 二人とも、下着と言われない最低限の部屋着へやぎを、だらしなく着崩きくずしている。グリゼルダはリヴィオの肩に腰かけ、頭にしなだれかかって、なにが嬉しいのか御満悦ごまんえつの表情だ。


 豊かでやわらかい胸が、後頭部に意識的に押しつけられているようだが、反応する元気がリヴィオの方になかった。


 ジャズアルドはいつものことなのか、なにかを察知さっちしているのか、出てきていない。ロゼッタのわった目が、八つ当たり気味にグリゼルダに向けられた。


「だから、そんなに出ずっぱりだと、本気でリヴィオの生命いのちちぢめるわよ……正真正銘の呪いになって、どうするのよ……」


「リヴィオがうらやましいですか。ジャズアルドは少し、淡白たんぱくでいけませんね。愛は言葉と身体で伝えるものだと、私から、きつく言っておいてあげましょう」


下世話げせわの極みだわ……っ!」


 文字通り頭越しに飛び散る火花に、リヴィオは嘆息たんそくした。


 頭の中には、もう、朝食の追加が早く食べたいという欲求しかない。自分で自分に、そう言い聞かせた。


 がちゃん、と、ことさら大きい音がして、小麦麺パスタを山盛りに盛った大皿がリヴィオの眼前に置かれた。輝くような黄色で、麺以外めんいがいの何物もない。ただの塩茹しおゆでだ。


「あの……レナート……?」


「早く食べちゃってよ。いつまでも居座いすわられると、後片づけができないんだよね」


 給仕きゅうじの前かけをしたレナートが、石仮面のような表情でリヴィオを見下ろしている。リヴィオは、一瞬で食欲が減退げんたいするのを感じた。


「な、なに……? レナート、怒ってる……?」


「別に。ぼくの知らないところで、なんだか女の子と楽しそうでうらやましいな、って思ってるだけ」


「違うって! いや、ごめん! 心配かけて悪かったけど、遊んでたわけじゃ……」


 言い訳などはなから聞く気がないように、レナートがからの食器を下げて、歩き去る。とにかく追って、リヴィオが足をふらつかせた。


 外出するのか、ちょうど二階の客室から階段を降りてきた女の人と、危うく肩をぶつけるところだった。


 短い金髪と、男物みたいな暗緑色あんりょくしょくの上下の中に灰色のえりつきを着た、びしりと堅い雰囲気の美人だ。20歳より少し上、引き結んだ口が、厳しい教師のような印象だった。


「失礼」


 女の人が短く言って、すれ違う。リヴィオは、無意識に腰が引けていた。


「あんなお客さん、いたっけ……?」


「今週の始めから、まっていただいてるよ。雑誌記者の人で、<海との結婚ノッツェ・デラ・マーレ>を取材に来たんだって。毎日、夜遊びでいそがしかったリヴィオは、気がつかなかったかも知れないけど」


「いや、だから……ごめん! 悪かったって……!」


 大陸の冬の風のようなレナートの声に、リヴィオはとにかくあやまった。なんであやまるのかわからなくても、あやまった。


 すれ違った女の人のひとみが、一瞬だけ、綺麗きれい翠緑すいりょくに輝いたような気がしたが、すぐにそんなことを考えている場合ではなくなった。




〜 第一章 大運河カナル・グランデ怪魚人かいぎょじん 完 〜

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