第94話 盲愛3

 そのきっかけはまだ疋嶋が東洋脳科学研究所で所長をしていた頃まで回想する。疋嶋はタカマガハラの作成案を提出後、何者にも姿を見せなくなった。

 唯一自室への出入りを許したのは士錠と食事とコーヒーを運ぶ給仕係だけだった。そして、染白はその給仕係の一人である。

 最初は交代制で疋嶋の給仕を担当していたが、疋嶋のあまりに冷徹な態度に嫌気がさし、続々と辞退をしていった。そして最後には染白だけが残り、事実上の専属の給仕係となったのだ。

 皆が辞めていく中、染白だけが根気よく残っていたことには理由がある。それは疋嶋の一言によるものだった。


「君、自分のことを不幸だと思っているね」


 疋嶋は運ばれてきたコーヒーのマグカップに口を付けながら目を合わせずにそう言った。染白はあまりに唐突な質問に焦せり、返答に戸惑ってしまった。

 疋嶋が給仕係に声をかけることなど滅多にない。他の担当者からそんな話は聞いたことがなかった。


「いつまでも子供の頃の嫌な記憶に支配され、今という時間帯をないがしろにしては、いささか愚かだと僕は思うよ」


「なんでそんなことを……」


「僕には過去がない。ここにいる他の皆も僕と同様に技術と言う未来を育むものにしか興味がない。だが君だけは未来を過去のよりどころにしている。君の挙動、そして表情はどこか後ろ向きに見える」


「ええ、そうです……」


 染白は盆を持ちながらそう呟いた。

 確かにこの研究所にいるどの研究員も皆、疋嶋や士錠のように未来にしか興味がない。だが染白は過去から逃げるためにここに入ったのだ。

 囚われ続ける過去の記憶。それは学生時代まで遡る。中学一年生までははっきり言って勉学が出来るほうではなかった。どちらかと言えば、活発なスポーツタイプの女の子で今とは真逆の性格だった。

 しかしこの頃から両親がカルト団体にはまり始める。家の財産を注ぎ込み、家庭は少しずつ崩壊していった。人々を支配し続ける宗教と言うものは非科学的であり、全く持って実態がない。実態が無いからこそ、人はすがりついてしまうのだ。

 両親がカルト団体に入信するようになったきっかけも、やはり精神の弱化にあった。

 中学生の頃、日本は不況に陥り、そのしわ寄せで父が会社をクビになった。収入を失い路頭に迷った家庭はじわじわと傾き始めたのだ。貯金を切り崩す生活を強いられたが、それも次期に限界を迎える。平均的なサラリーマンの貯金だけでは豊かには暮らせない。陰鬱な空気が漂う家庭は次第に狂い始め、その機を狙ったようにカルト団体が近づき、地獄へと堕ちていったのだ。

 両親が完全に洗脳され、染白本人にも入信を進め始めた時、染白はそのあまりの恐怖に逃げ出してしまった。

 家を捨て、家族を捨て、友人を捨て、何もかもを投げ捨て、恐怖の赴くままに必死で逃げた。何とか親戚を頼って、両親から逃げ延びた染白の性格はそこから見違えてしまう。新しく通い始めた中学では友人も作らず、確かな正解のある科学というものに没頭した。宗教と言う悪しき文化に対抗するように、昔の明るかった自分に対抗するように染白は根暗になり、青春を全て科学に捧げたのだった。

 つまり染白にとっての科学とは過去から離れるためのものだった。それを面と向かって核心を突いたのは疋嶋が初めてであった。


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