第95話 盲愛4

「私の生き方を否定なさるのですか」


 染白は盆を握り締め、唇を噛み締めながら言うと、疋嶋は溜息を交じりに答えるのだった。


「いや君が一番、人らしいと思ってね」


「確かに私は疋嶋さんや士錠さんと違って天才ではありません。凡庸である私は過去を捨てることなどできませんから」


「僕が天才に見えるかい?」


「はい、疋嶋さんは誰よりも天才です」


「では君は?」


「過去に囚われる愚者……ですか」


 染白がそう言うと疋嶋は笑い始めた。高笑いが部屋の中で反響する。


「何が可笑しいのですか……」


「君は素直だな。それは僕が言ったことだろ。君自身は君のことをかわいそうなヒロインだと思っている」


「そんなことはありません!!」


「だったら、過去を捨てる勇気を持ちなさい。過去のない僕の専属給仕係が過去に支配される人間など、滑稽すぎる笑劇だ。僕の欠陥が過去を持たないということなら、それは修正できない欠陥だ。しかし君は自分の過去をどう思っているのかね?」


「どうって……」


 染白は両親のことを思い出しながら、首を振った。


「疋嶋さんには関係のないことです」


「君がどのような過去を歩んできたかは知らない。知る気もない。だがいま自分自身でその過去による今を生きなければならない自分をどう思っているかを聞いているのだよ」


「そんなの……ないほうがいいに決まっています。あの過去のせいで私の人生が狂い始めました。何もかもを失った記憶は簡単に消え去りません」


「そうか……だが君には僕と違って捨てるという選択肢が可能だ。何もない僕と違って、その過去が欠陥と言うなら修正をすることができる。こう見えて僕も人の記憶と言うものは少し興味があったのだよ」


 染白は足の指に力を入れた。この何もない床が動いているように錯覚したのだ。過去という不安定な朽ち木の上にいる染白はいかにこの人生が危ういものなのか思い知らされた。


「私にいままで生きてきた証である悪しき過去を捨て去れと言うのですか。確かに嫌な記憶です。しかしもうその記憶だけが私がいまこの場に立っている理由でもあるのです」


「人間臭いな。でも僕はその人間臭さに取りつかれていたのかもしれない」


 ずっと天才であり、雲の上にいる孤高の人間だと思っていた疋嶋が酷く近くに感じた。


「僕はね。一見、人に興味が無いように見えて、ずっと人間に興味を持っている。その弱さに、悪しき文化に、だからこそそれを我が手を持って修正したい。いままでの人類を一度、まっさらに戻してから理想の姿に創造したい。タカマガハラはその序章に過ぎないのだ。だからこそ君のような人を探していた。過去と言う最大限に人間臭いものに取りつかれた君をね」


「私に出来ることがあるのですか」


「ああ、一つだけある。僕がこの研究を続けるまで、決して僕の近くを離れないでほしい。たった独りだとどうしても人という生物がゲシュタルト崩壊してしまうのでね」


 疋嶋はそう言って、手を差し伸べた。この手を取ることが正解だったのか、不正解だったのかは分からない。しかしこの時、疋嶋の手を取ったことを後悔したことは今後、一度もなかった。なぜならそれは染白自身が認められた唯一の過去となったのだから。

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