第90話 刺客6
士錠の目の前に立つ男は齢にしては三十歳だが、脳科学的な見地から言えば、まだ二十二歳である。それはあの研究室で、自らの口で言った永劫の定説であった。
確かに利用しようと考えた。だが疋嶋には何も罪は無い。罪があるのは士錠のほうだった。純情無垢な青年に見覚えのない罪をかぶせて、大人たちの尻を拭かせるというのか。
このまま疋嶋をタカマガハラに送り出せば、士錠は疋嶋を殺すために助けたことになる。人命を損得勘定で救い、その代償を払わせようとしている。何たる高慢で蒙昧な行いなのだろうか。
その酷くもろく、右往左往を続ける自尊心が士錠の唇を震わせた。
「僕が行こう……これは僕の罪だ」
その威厳をかいた言葉に上道は何も言えなかった。小泊も後頭部を掻きむしり、この判断に反論の意を示せなかった。
「ふざけるな!!」
だが疋嶋だけは違った。覇気を失いつつある士錠の胸倉を掴み上げ、管理室に響き渡るほどの大きな声量で怒鳴り散らした。
「あんたは俺を何のために助けた! 何のために真実を教えた! その場の情で流されるほどの覚悟なら捨ててしまえ!! 人の命は容易くないんだ。あんたが行ってどうする? 俺を……八年前の俺を止めることさえできなかったあんたが行って、何になると言うんだよ。あんたは生きて、罪を償え。人の命を救い続けろ。それがあんたの覚悟じゃなかったのか!!」
「陽介……」
背後から見ていた野島は唖然として呟いた。
「何とか言えよ、俺に行けって言えよ! 士錠兼助!!」
「離れて、陽介!」
野島が疋嶋の体を後ろから抱きかかえると、胸倉を掴み上げる疋嶋を引きはがした。息を荒げながら、手を膝につき、下から睨み上げている。
士錠は乱れた襟を直し、正面を向き直すと言うのだった。
「済まない……いやありがとう疋嶋君」
その言葉に疋嶋は口角を上げた。
「一度失った人生だ。二周目は俺のために使ってやる……だから」
疋嶋はそこで言葉を詰まらせた。ゆっくりと振り返り、引きはがしてくれた野島の表情を見た。
「ノンコ、許してくれ」
「何を許すのよ」
「俺は……」
野島は手のひらを突き出して、疋嶋を黙らせる。
「その先は言わないで、だって陽介らしくないもの。さっきの威勢は生きるための威勢でしょ。社長が死にそうな、情けない声を出していたからでしょ。あたしもあたしらしからぬことを言ってしまったわ。陽介は死なないってあたしは信じているから」
「そうだな、別に確実に死ぬわけじゃないんだ」
「日本を救い、研究所を救い、そして自分も救いなさい」
野島は疋嶋にそう言った後、士錠に顔を向けた。
「士錠社長、先ほどの非礼をお詫びします」
「本当に良いのだな。疋嶋君、そして里佳子」
二人は深く頷いた。その表情から目を逸らすことなく、じっと見つめている。先ほどまでの絶望に満ちた沈黙とは違う、心地よい静寂が波紋のように広がった。
士錠は口を閉じたまま、鼻から溜息を吐き出すと、二人に背を向けるのだった。
「ではタカマガハラの準備を開始する」
その声と共に管理室は再び動き出した。
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