第79話 災厄6

 まるで禅問答のようだった。このような哲学的な思考が科学と密接と関係していることは士錠とて重々承知している。ある程度の倫理が行き過ぎた科学にリミッターを掛け、制御しているのだ。

 だが、この時の士錠はそのリミッターこそが脳科学における障壁だとも思っていた。脳という倫理を司る場所をコンピュータと繋げるというBMIの研究は、人類史における禁忌と言っても過言ではない。しかし、その止まらぬ好奇心は士錠に常識とは対面した答えを導き出した。


「君は生後三か月だ」


 その言葉は疋嶋陽介が後に起こす暴走の引き金となった。人は肉体ありきで、人とみなす。しかし士錠はこの時、疋嶋の赤子のような瞳に吸い込まれていた。そして、士錠は疋嶋の思想に寄り添うように人体よりも脳を尊重したのである。


「ええ、僕は二十二歳ではありません」


 賛同した疋嶋は難解な問題がついに解けたような、爽快感と高揚感に包まれた表情をしていた。この空間に常識、そして倫理のリミッターが解除される音が響いた。

 士錠はコーヒーを飲み干し、ローテーブルに肘を置いた。


「君のような例は見たことがない」


「そしてその例に教授も興味がある」


疋嶋はそう言って、誘惑するような文言で士錠の知的好奇心をさらにくすぐった。


「君と僕はどうやら倫理の外にいるらしい。しかし人類の発展とはいつだって、大それた夢によって始まる。地動説を説いたコペルニクスだって、進化論を説いたダーウィンだって、新たな人類の成果を踏み出す時、世の中の定説や常識、宗教という非論理的なものに阻まれる。だが結果として、その新たな一歩は正しく、この世に改良を与えた。真実が悪であることはないのだ」


「全くその通りです。僕はこの三か月間、地球の歴史を学びました。箸の持ち方を覚えるよりも先に、敬語などのどの礼儀作法を覚えるよりも先に、人類が歩んできた歴史を知りました。その時に分かったのです。人類の誤謬を、この世界の不可思議な点を、僕はそれをすべて解決します。人の在り方を問うために」


 疋嶋はそう言って、立ち上がった。冷めたコーヒーを一気に飲み干し、マグカップを静かに置いた。


「では僕はもう一度、この場所に来ます。そのときはまたこのコーヒーとやらをご馳走になりますよ」


「ああ、僕も君とまた会える日を楽しみにしている」


 会話を終えた時には疋嶋に対する猜疑心や恐怖心が消え去っていることに気が付いた。いつの間にか、好奇心だけが残り、そこは親近感さえもあった。

 士錠は一度として、他人に影響されたことがなかった。自分の道をひたすら突き進み、天才と揶揄されるたびのその表面しか見ていない人々に呆れ返っていた。しかしそんな士錠が初めて、影響された人物こそが疋嶋だった。

 この男と会話している間に奥のほうへ引きずり込まれ、気が付いた時には戻れない領域まで足を踏み込んでいる。

 そんな麻薬的な高揚感に包まれるようだった。


「ところで士錠教授」


 疋嶋はドアノブに手をかけ、顔の横半分だけを振り返らせると、笑みを浮かべながら言った。


「なんだね」


「その嘘は僕には利きませんよ」


「僕が嘘を?」


「ええ、その足は義足ではない。ではまた次回お会いしましょう」


 そう言い残すと、返答を聞く前に研究室を出て行ってしまった。独り取り越された士錠は自分の右足を触り、ソファに溶けるように身を任せた。

 そして天井を見上げて、大きな声を出して笑うのだ。こんなにおかしい日は初めてだった。


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