第80話 災厄7

 それから一か月足らずで残りの卒業単位を先行取得した疋嶋はたった一週間で十五万字にも及ぶ卒業論文を書き上げたのだった。それが『脳による人』であり、その後の士錠の人生を大きく左右した。

 そして、疋嶋の出現は時世さえも祝福した。この年からBMIの研究は世界的に進歩し、日本でもマイクロチップを埋め込むのが主流と化していた。その新人類の証であるマイクロチップには様々な企業が目を付け、ソフト開発に尽力していた。

 この大きな波に乗らぬ手はないと、マイクロチップの普及はさらに急加速し、一年も経たないうちに、全世界の先進国の人口における約九割がマイクロチップと共に生活することを決断した。

 そのうちの一割が、さらなる効率を求め、脳内マイクロチップをインプラントしたのである。

 そして、その時世の流れは『脳による人』でも正確に予言されていた。人とコンピュータの融合が人類の発展において、避けることのない通る道であり、いずれは人とコンピュータの隔たりが消え去る。それが疋嶋の思想であり、第一章の要約である。

 そして第二章から続く、バーチャル世界の実現に士錠は注目した。疋嶋の書いた論文を一日中読みふけっていた士錠はその後、タカマガハラの構想を『脳による人』の理論を中心として、練り始めていた。

 この時、士錠は疋嶋と言う男に対して圧巻していた。脳の問題点を利用した技術、さらには肉体の非効率性、マイクロチップを一つの文明の利器としか注目していないマスコミや上場企業を一掃する発想がそこにはあったのだ。

 しかし、卒業論文を提出した疋嶋は大学から姿を消し、士錠が送り続けたラブコールに応えることなく、いくら探しても見つからなかった。学科システムに問い合わせても、疋嶋は卒業と同時にここに在籍した全てのデータを消し、その存在を消してしまったのだ。

 ただ大学のサーバーには虚しく論文だけが残り続け、士錠は冬になっても、決して疋嶋の姿を見ることはなかった。

 しかし一方で、この論文を頼りに東洋脳科学研究所ではタカマガハラの前身となる研究が始まっていた。あまりに精巧に作られた理論であるため、東京医科大で唯一の脳科学研究者である士錠がその論文を独占し、決して外部には洩らさなかった。

 その論文が書籍化し、一般の目に留まるのはタカマガハラが発表された後のことである。

 そして、タカマガハラのシステムが概ね完成に近づいたころ、疋嶋は突如、士錠の研究室に現れたのだ。


「本当に君なのか……」


 士錠は驚きのあまり、偽物の義足を隠すことなく勢いよく立ち上がった。


「僕は言ったはずですよ士錠教授。必ずこの場所に戻ると」


「しかし君はもう何か月も大学に姿を現さなかっただろ。だからもう二度と会えないと思っていたよ。それに君の論文を読んだ……僕は言葉が出なかった。この人類にはまだ早い理論を僕は必ず完成させて見せる」


「ええ、それが人類にとっての進化ですから」


「君も一緒に来てくれないか、マイクロチップを利用した夢想現実の研究チームの一員になってくれ」


「ちなみにそのソフトの名前はもう決まっているのですか」


「ああ、決まっている。このソフトの完成は間違いなく神を侵犯する。この世界がもう一度、人間界から天上界へと戻る。だから名前は“タカマガハラ”だ。君の脳は人の脳を凌駕し、皆を照らす存在となる。だからどうかこの手をとってくれ」


 士錠はそう言って、疋嶋の前に手を差し出した。開かれた手のひらをじっと見つめた疋嶋はその手を握りながら笑顔で答えるのだった。


「この世界を救うために」



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