第78話 災厄5

 それから丸一日が経過した。

 士錠は大学の研究室で東洋脳科学研究所の資料に目を通しながら、コーヒーをすすっていた。ほとんど自宅には帰らず、研究室と研究所を行き来する生活を送っていた。しかし、自分以外誰もいない研究室は自室と変わらず、快適に過ごしていたのも事実である。

 士錠が二杯目のコーヒーをマグカップに淹れた時、珍しく研究所の扉がノックされた。大学の端にある一室を知っている者は多くはない。まず、この大学に在籍する学生の大半は士錠のことを知らないだろう。

 マグカップを置き、資料を引き出しに収めると、自ら出向き扉を開けた。


「君か……」


 それは予想した通りの学生だった。ファッションにはからきし興味がないのか、いつも同じ服を着ている。寝癖があり、しわが寄った洋服に身を包んでいる姿を見ると、若き頃の自分を思い出すようだった。

 しかし、見つめられる目には曇りが無く、まだこの世に生を受けて間もない赤子のような瞳をしていた。人は生きていく上で様々な体験をする。その体験が脳を蝕み、綺麗だった人本来の脳に下劣な感情を植え付けられる。そのたびに人は赤子の頃にはあった純粋さを失い、次第に目に曇りが見えていくのだ。

 しかしそれがこの疋嶋と言う男には一切なかった。だが人はある程度の曇りが無ければならない。真っ白であるその脳は、狂気を生みかねないからである。


「教授、お聞きしたいことがありまして」


「なんだね?」


「人はどこまで行けば人ではなくなるのでしょうか」


 その狂気的な言葉に士錠は咳払いをする。


「何を言っているのか分からないな」


 そう言って突っぱねようとするが、疋嶋は扉を掴み、動くそぶりを見せなかった。流石に強引にその手をどけるわけにもいなかため、士錠は渋々、中に入れることにした。


「一旦、中に入りたまえ」


 士錠は研究室のソファに座らせ、その話を詳しく聞くことにした。もう一つあったマグカップにコーヒーを淹れ、疋嶋の前に差し出すと、それをまじまじと見つめるのだった。


「これはなんですか」


 無垢な表情で首をかしげる。これを幼い子供がするならまだしも、二十二歳にもなる大人がやると寒気が走る。士錠は怪訝そうな表情をし、溜息交じりの声を出した。


「コーヒーだが」


 士錠にとっては皮肉であったが、疋嶋はそれを真正面から受け取った。


「初めて見ました」


「何を言っているのだね、君は。二十二歳にもなる大人がコーヒーを知らないわけが無かろう。君のその異常な記憶力は認めよう、しかし僕をからかうならもう二度と顔を見せないで欲しい」


「いいえ、僕は二十二歳ではありません。しかし先ほど僕の言った人の在り方の考え方によっては僕は二十二歳となるのかもしれません」


「どういうことだ?」


「僕はほんの三か月前に全ての記憶を失ったのです。言語、文化、そして歩行に至るまで、二十二歳という体を持った状態で初めてこの世に生を受けました」


「君の意見が本当だとするなら……たった三か月で人が喋れるようにはならない」


 士錠は突っぱねるように言った後、その言葉を自分の耳で聞くことによって初めて、気が付いた。背もたれに身を任せていた体を起こし、前のめりになる。


「まさか、だから君はその記憶力を……」


「ええ、そうです。僕はその三か月間で人が学習する全てを学びました。そして僕は問いたいのです。今の僕は二十二歳なのですか、それとも生後三か月なのでしょうか」


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