第68話 慈愛2

 しかし、どうしても首が伸びない。気持ちの上ではもう整理がついている。この世界に思い残したことはない。

 だが、あと数センチが遠かった。生物に備わった本能が死へ対する恐怖を植え付けている。本当に死のうと思う人間は覚悟すらしないのだ。もうそれは現象の一部でしかなく、防衛本能の末、死を選ぶ。しかし兜斗はまだその領域には至っていなかった。そして、その数センチの勇気のなさがどうも歯がゆく、惨めにさせるのだ。

 握っているのはただの紐。しかしその紐が熱くなっていった。もう持っていることすらも困難なほど熱く燃えているように思えた。

 小さな台から降り、クローゼットの前に立ち尽くす。そして、幾度もその場で地団駄を踏んだ。二階が揺れ、床下に響く。

 これを引きこもってから幾度繰り返しただろうか。もう数えられないくらい繰り返している。その都度、この存在を情けなくなり、さらにその抜け出せない沼へとはまっていく。生きる勇気も死ぬ勇気もない兜斗は何色にも染まることのできない白鳥のようにこの暗い部屋の中を彷徨い続けるのだ。

 クローゼットに寄りかかり、手に持っていた紐がずり落ちた時、ポケットに入れていたスマホが振動した。慌てて、スマホを取り出し、ロック画面を覗くとメールが一件だけ来ている。

 知人と呼べる人はほとんどいない兜斗にメールなどほとんど来たことがない。そもそも自分のアドレスすらも忘れていた。

 メールの差出人は「ノア」となっていた。そのような人物は知らず、迷惑メールか間違いメールかと思った。しかし最初の一文に目が留まる。

「この世界に絶望した全ての君へ。肉体の解脱と新世界への招待状」

 怪しいカルト団体の勧誘かとも思った。しかしそのメールはスマホに直接、来たわけではない、脳内マイクロチップを介して、スマホに表示されているのだ。

 兜斗は自分の頭を抑えた。もうそれは忘却の彼方へ消え去った記憶。兜斗の脳にはマイクロチップが埋め込まれている。

 女で一つで育てくれた母が幼い兜斗の居場所が分かるようにとインプラントしたものだった。今思えば、自分の目で管理するのが面倒だったから、マイクロチップという文明に利器に頼ったのかもしれない。

 しかし兜斗にとって、そのマイクロチップは体に刻まれた母の愛情の証である。それが矮小なものであるとしても、母が兜斗を憂い、護るためにインプラントしたものに違いはない。

 母を失ってからはもう脳内マイクロチップのことなどとうに忘れていた。それが数年ぶりに反応を示したのだ。

 兜斗は煌々と光るスマホのブルーナイトの浴びながら、椅子に腰かけた。メールをタップし、その内容を読み始める。

 そこに書かれている内容はどの大人から言われた薄っぺらい台詞とも違った。本当にこの送り主はこの世界に絶望している。新世界を創ろうとしている。初めての理解者が現れたような文章に引きずり込まれた。

 ノアという人物がどのような人間なのか知らないが、目に見えないからこそ、魅了されていく。どうせ生きることも死ぬこともできない。ならば、この世界を捨て、ノアの言う「新世界」で生きよう。

 これがカルト集団で自分が怪しい儀式の生贄になろうとも、「死」という口実が生まれるなら都合がよかった。

 そして兜斗はすぐにタカマガハラをインストールするのだった。


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