第66話 研究所7
疋嶋はその言葉を聞いた瞬間、割り箸を握っていた手が震えた。それは怒りという明瞭な感情ではなかった。得も言われぬ畏怖、そして焦燥。心中でくすぶっていた火種が発火する感覚が全身を襲った。
「そんなわけないだろ!!」
強引に立ち上がり、怒鳴った。勢いよく立ち上がったため、椅子は倒れ、持っていた割り箸は折れ曲がっていた。
他のテーブルで食事をしていた研究員が一斉に振り返り、好奇な視線を集めてしまう。空気が凍り付き、間が悪くなった疋嶋は軽く会釈をすると、椅子を元に戻して静かに座った。
「割り箸、もう一膳貰ってくるわ」
「すまない……」
疋嶋は目を逸らしながら小さな声で謝った。自分がこれほどまでに取り乱すとは思わなかった。疋嶋はどちらかといえば落ち着いたタイプの人間で、最後に大きな声で怒鳴ったのはいつか思い出せない。
かつ丼を目の前にして、額を抑え、深いため息をついた。
「これ、新しいやつ」
野島が帰ってきて、割り箸を渡す。
「ごめん……迷惑をかけるな」
疋嶋がそう言うと、野島は再びパスタを巻き始めた。
「なんか懐かしいと思わない。あの時は反対だったけれど……」
唐突に振られた昔話に疋嶋は戸惑った。
「何のことだ。悪いが全く覚えてない」
「中学生の時よ。誰かが持ってきた小学校の卒業文集に載っている最後のページ。『将来の私』というコーナーにあったあたしの夢をみんなからかわれた後のことよ」
「女優になるっていうやつか」
「ええ、からかわれた時は見て見ぬふりしていた陽介が放課後に話しかけてくれたじゃない」
「悪かったな、見て見ぬふりをしていて」
頬杖を突いた疋嶋が口を尖らせながら言った。
「重要なのはその後よ。学校の近くにあった定食屋に誘ってくれて、かつ丼を奢ってくれたわ。校則では買い食いは禁止だったから、少しドキドキしたけど、なんだかその不器用な優しさに当時のあたしは救われたわ」
「そんなこともあったな。確かあれが俺たちの出会いだったか」
先ほどまでの曇り切っていた顔が嘘のように晴れ、その懐かしさに思うがまま浸る。
「でもまさか本当に叶えるなんて思わなかったぜ。でもな、それでも俺には夢なんて無かったから。白紙だった俺の将来の夢とは違って、例え大それたものだとしてもそれを持っていることがひどく輝いて見えたんだよ。あの時、俺は初めて思った。『こういう人間が主人公になるんだ』ってな。だから俺はわき役でも、本当に回想シーンの一部にしか出番がないちょい役でもいいからそのストーリーに関りたいと思ったんだよ」
「関わったわよ。陽介は一番大きな役を担ったわ。“ヒーロー”という大きな役をね」
「俺がか……」
疋嶋は自分の胸に指を立てて、惚けた顔をする。
「あたしの夢を応援してくれる人がいる。認めてくれる人がいる。そんな存在がくすぶっているあたしの心に火を点けた。陽介はあたしの人生にとってかがり火のような存在なのよ。だからあたしはその火に消えて欲しくないの。いつ見たなって熱く燃えていて欲しいの。だからね、酷な事を言うけれど、逃げないで、その火を絶やさないで、あたしが救われた陽介でいて頂戴……」
疋嶋はその言葉を聞き終えた時、頬にあった手は膝を抑えていた。降り曲がっていた背中はしゃんと伸び、目は真っすぐと正面を見つめていた。
そして割り箸を持った手を震えていた。しかし、この震えは明瞭なものだった。その気持ちを言葉に乗せ、言い放つ。
「ありがとう」
屈託のない五つの文字はありきたりでシンプルだけど、いつだって人を救うのだ。
疋嶋は割り箸を割り、懐かしいかつ丼を味わった。
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