第32話 隠し事2

 疋嶋が奥の客間を使い、野島は手前の客間に入っていった。

 真田はここが客間と言っていたが、それはただの強がりだ。この部屋には何もない。恐らく逃げていった妻やその息子が使っていた部屋だろう。柱には所どころ、シールをはがした跡がある。白く残ったざらつきを指でなぞりながら玄関で見た写真を思い出した。

 平凡な家族写真。息子はまだ幼く、小学一年生と言ったところだ。真田もあの写真に比べるとかなり老け込んでいる。大まかな予想だが、その子は今頃、もう中学一年生くらいにはなっているではないかと思った。

 友人が結婚し、子供を持つ。三十歳とはもうそんな年齢なのだ。体感では感じない、歳月を改めて咀嚼した。

 深呼吸をして実家に似た畳の匂いを鼻腔の深くまで吸い込む。野島や真田、当時の友人が支えてくれることで、まるで浦島太郎のような現実と向き合うことが出来る。

 しかしこうやって夜たった独りで居ると、病院に居た時のような不安や焦燥感が蘇り、ほんの少しだけ感傷的になってしまうのだ。


「お風呂空いたわよ」


 扉が開き、野島がバスタオルで髪の毛を乾かしながら、顔を見せた。やはり女優である。中学の頃はまるで男友達のように接していて、気がつかなかったが、化粧を落としても美人だった。

 風呂上がりで火照った顔も美しく、思わず見とれてしまう。着替えた洋服も真田が着るようなセンスの欠片もないジャージだが、それを野島が身に着けるだけで洋服が映えた。


「なにどうしたの? ぼーっとして」


「いやなんでもない」


 少し目線を逸らし、照れを隠す。


「そう言えば、ノンコが入浴している間、真田に借りて大学に電話してみたんだ」


「例の教授のこと? それでどうだったの?」


 疋嶋は首を横に振りながら答える。


「かなり大きな大学だ。八年前の一講義から教授を割り出すことは出来ないらしい。そもそも今では『神経系と脳細胞』なんていう講義は行ってないそうだ。だから引継ぎの記録も残っていし、授業内容すらも分からない」


「そう……でも陽介はその教授にじゃなくて、その講義の興味があったんじゃないの? だってゼミじゃないんだから、ただの講義で学生と教授がそこまで親しくなるとも思えない」


「確かにそうだよな……」


 疋嶋は何度も頷きながら、野島のその指摘に納得した。だが疋嶋の論文を読み、そこからタカマガハラを創った人間が存在することは事実なのだ。つまり、疋嶋と接触し、脳科学の世界へと引きずり込んだ人間がどこかにいる。

 その霧に包まれた存在こそがこの事件を握る鍵であることは分かっていた。


「ここでいくら考えても仕方ないな。取り敢えず、明日の運転もよろしく頼むぜ、ノンコ」


「陽介も朝早いんだから、考えすぎて眠れないなんていうことがないようにね。おやすみ」


 野島はそう言うと、自分の部屋へと戻っていった。野島には言われたものの、何も考えずにはいられなかった。

 疋嶋は風呂に入るときすらも考えた。考えるというよりは頭から離れなかった。今日一日で体験した衝撃的な数々。タカマガハラで見たあの景色の驚愕は一日二日で離れるものではない。

 興奮と感傷の入り混じる、奇妙な心情の中、部屋に戻る。

 荷物も無く、がらんとした畳の上で、布団も敷かずに寝転がった。天井から垂れさがる電球をぼんやりと見つめ、意識が遠のくのと同時に目を瞑った。

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