第16話 流転5
疋嶋は喉を鳴らしながら、歩いた。野島に背を向け、頭を押さえながら考える。
「俺は医大生だったけど落ちこぼれだぞ。単位だってぎりぎりだ。こんな男がそんな大層はサーバーに侵入できるウイルスを作るほどの腕があると思うか」
「分からないわ。もしかしたらこの八年間の間に何かあったのかも。それかあなたのIPアドレスが何者かに奪われたか」
「とにかく、この事件を解決しなければ、俺の潔白は証明できない。一生逃亡生活を続けることになる……そういう意味だな」
「分からないことだらけだと思うけど、あたしが知っている情報はこれくらい。記憶喪失のことに関しては何も知らないわ」
野島は少し俯いた。
「十分すぎる。お前が現れなければ今頃、俺は尋問室で意味の分からない質問を永遠と繰り返されていたところだったよ。変わってしまったこの世界のことが少しでも分かっただけでいい収穫だ」
「本当に落ち着いているわね、記憶喪失の人には見えないわ」
「肝が据わっているように見えるのは馬鹿なだけだよ」
先程まで暗かった野島の顔に光が見えた。
「でも十年来の俺になんでこんなに良くしてくれたんだ? 放っておいてもノンコに危害は加わらなかったはずだ。俺のことに首を突っ込んだばかりにお前だって今では指名手配のリストに載ってしまったわけだろ。それじゃ……もう」
「あたしの夢のことを心配しているの? だったら余計なお世話よ。もう十分に憧れた景色を見ることができた。丸くなったとか、もういい年だからとか、そういう問題じゃない。これはあたしの決意なの。だからもう二度と芸能界には戻らないわ」
「そうか……じゃあさ、この事件が解決したらノンコが出演しているドラマを一気見してやるよ」
「そのためにも警察には捕まらないことね。刑務所にレンタルビデオ店はないから」
腹の底から唐突に笑いが込み上げてきた。二人は同時に吹き出し、高笑いが境内にまで響いた。
こんな危機的な状況だというのに二人は楽しそうだった。大人になっても中学時代のようにふざけ合うことが出来る。掛け替えのない確かなものがそこにはあった。
芸能界に入り、女優として夢を叶えた時とは別のどこか温かい高揚感に包まれた。
「まぁ取り敢えず、八年もの間、陽介がどこで何をしていたか知っている人物に当たってみたいと始まらないわね」
「それなら大穴だが一人だけいる。大学の時の友人だが、そいつなら何か知っているかもしれない」
「その人、今どこにいるか分かる?」
「医者の息子だからな。今でも田舎の診療所を継いでいるなら、そこにいるはずだ」
「そこしかないわね。場所は?」
「長野の上田。かなり山の奥の集落に小さな診療所がある。そこが奴の実家だ。まぁ確証はない。優秀な男だったら引き抜きで都会の大学病院に勤務しているかもしれない。だが、もし会えたなら力になってくれるはずだ」
「上田ね……いまから出たら夜までには着くはず」
「運転、任せてもいいか」
「どうせペーパーでしょ。あたしが運転するわ。あなたは助手席で休んでなさい」
「そうさせてもらうよ」
二人は墓石に背を向けた。
真夏の日差しが照り付ける墓地を出て、寺院を後にする。路上に駐車してあった車に乗り込み、上田までの長い道のりが始まった。
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