第10話 出発3

「どちらへ行かれるのですか」


 主治医の隣で立っていた看護婦が声をかけた。大きく踏み出し、疋嶋の手首を掴もうと腕を伸ばしてきた。


「家に帰る……それだけです」


「あなたはまだ、記憶を失っている状態なのですよ」


 手首を掴みながら言った。


「でも原因は分からない。ここに居ても時間の無駄ですよね先生」


 主治医と目を合わせる。


「できる限りのことはやりました。今後も君のサポートをしたい。でも施術を受ける権利は患者にある。僕たち医者はそれを強要することは出来ない」


「そういうことです」


 疋嶋はそう言って、看護婦の腕を振り払った。


「それに見た限り、この病院は街を支える重要な役割をしている。大学病院とは違い地域の人たちに愛されている場所だ。そんなところでいつまでも原因不明の患者で病床を占めていては救える命も救えない」


「そんなことないですよ」


 看護婦が否定する。


「こんな時だけ医大生ぶるのは癪だけど……俺が医者だったら救える命を救いたい。研究は二の次、三の次。そう考えることが命を取り扱う人間の心意気だと俺は思う」


「素晴らしい考えだ。君のような熱い医者がもっと増えればいい。分かりました。そこまで言われてはこちらとてもう引き止めない。一応、薬は出しておきます。今は無くとも何らかのフラッシュバックがあるかもしれません。その時はいつでも頼ってきてください。では経過観察と言うことで、退院を認めます」


「はい、色々ありがとうございました」


 疋嶋は診察室を後にした。自分の病室に戻ると荷物の整理を始める。とは言っても片付けるほどの荷物は無かった。

 財布とスマホ、そして着替えのセット。驚くほどに軽装だった。

 家に帰るとは言ったものの、自分の家の住所などこの八年の間に代わっている。取り敢えず自分が記憶を無くしていることを両親に知らせるために実家に向かうしかない。

 病院のカウンターで薬を処方されるとすぐに実家へ向かった。幸い運ばれた病院が関東圏内であったため、実家には電車を乗り継ぎ向かうことが出来る。

 ほんの二時間ほどで実家がある田舎の駅に到着した。

 病院を出てからここまで、八年越しの世界を観察したがこれと言って変わっている様子はなかった。車が空を飛んでいたり、ロボットが人の同じ生活をしていたり、SF映画のタイムスリップした主人公が見るような世界とはかけ離れていた。

 しかし可視化できない部分で、この世界は急速に進化を遂げている。それはいま自分の脳内に埋め込まれたマイクロチップしかり、他にも沢山の技術が革新しているのかもしれない。

 疋嶋は霧の中を彷徨っている感覚だった。


 大学に進学して以来ほとんど帰らなかった実家に帰る。感覚では四年ぶりだが時は八年と言う歳月が経っていた。

 しかしこの駅から続く家までの道はなにも変わっていなかった。両脇には田んぼがあり、トラクターが走っている。それは中学生時代毎日、自転車で通った道だった。

 そんなノスタルジックな感傷に浸りながら家に差し掛かると、玄関の前に停まっている一台の黒塗りのセダンが目に入った。

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