第7話 一変5

 会場の外では壁に寄りかかりながら士錠が待っていた。五十歳という年齢の割には若く見え、大人の色気を放っている。トレードマークの顎髭を触りながらぼんやりと天井を眺めていた。

 野島が会場から出てきたのを確認すと、傍らに立て掛けてあったステッキを手に取り、右足を引きずりながら出迎えた。

 引きずっている右足は義足で、高校時代に交通事故に遭い、失ったのである。


「里佳子……」


 士錠は野島のことを自身の名付けた芸名では呼ばない。目が合った野島は深々と頭を下げた。その時間は記者会見で見せた黙礼よりもずっと長かった。


「本当にこれで良かったのだな……」


「ええ、十分です。私が見た夢は決して長いものではありませんしでした。しかし人生の中で最も色濃く、煌びやかな夢であったことは間違いありません」


「そう言ってもらえると本当に救われる。僕もいいものを見た。ありがとう、そしてすまなかった」


 野島は軽く会釈をすると真っすぐと前を向き、一度も振り返ることなく歩いて去っていった。


「我が強い、いや肝が据わっているのか」


 その後ろ姿を眺めながら士錠が言った。


「そうだと思わないかね、上道」


 名前を呼ばれたのは野島のマネージャーを務めていた上道だ。


「お前の職務もこれで終いだ、また僕が新しい我の強いタレントを拾ってくる。そしたらまた頼んだぞ」


「社長……なぜあんたことを?」


 上道は士錠の言葉には耳を貸さず目を細める。


「まさしく僕がやらせたとでも言いたい様子だね」


「……」


「この会見は僕の意志ではない。紛れもなく里佳子の意志だ。あいつがあの場に立ち、皆が思っている不文律を破った。今回の会見で別に何が変わるわけでもない。タレントを陰で支えるのは事務所の仕事。そして巻いた火種を回収するのも事務所の仕事だ」


「東堂さん独りがたった二日であれほどの資料を集められるはずがありません。それに会場に設置されていた小型カメラ……あれは社長が用意したものでしょう」


 上道にそう言われた士錠は眉を上げた。顎髭を触りながら惚けた顔をする。


「さぁな、僕は何も知らん」


 その言葉を聞いて大きな溜息をつく。


「そんなことはどうでもいいことだ。僕たちには後片づけがたくさん残っている。それを一つ一つ終わらせなければならん。さっさと帰るぞ上道」


 士錠は何事もなかったかのように帰路を発った。


 その後、上道は独りで一度、事務所に戻った。士錠は今回の件の弁明で業界各所を回らなければならない。

 事務所に帰ると上道の机の上には茶封筒が二枚置いてあった。一枚は退職願。そしてもう一枚の封筒を開けてみるとその中にはメモ用紙が入っていた。


 ――青春の思い出に返ってみたいと思います。人の価値に差なんてない。結局は皆同じ生物であり、同じ子供なのだと学びました。上道さんからは女優としてだけではなく人として学ぶことが多くありました。本当にお世話になりました。心から感謝しています。         野島里佳子     


 野島はいままで自分の本名を執拗に嫌っていた。その本名を呼ぶことを許されたのは士錠ただ一人だった。

 しかしこの手紙で東堂紬は野島里佳子に戻ったらしい。

 その手紙を読み終えた上道は、その本名が誰の目にも触れぬよう、シュレッダーにかけ、事務所の電気を消した。

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