第2話 覚醒2

 あまりの恐怖に疋嶋の絶叫はこだました。

 その声は病室を飛び出し、フロア中に響き渡った。唇が震え、足がすくむ。

 何も考えず、ただ病室を飛び出した。先ほどの叫び声で病室から患者を身を乗り出し、廊下を駆け抜ける疋嶋をまじまじと見ている。


「ちょっと、どこに行くんですか」


 著しく取り乱した疋嶋を止めようと、常任していた看護婦が声をかけて、行く手を阻もうとするがそれを跳ねのけて、必死の形相で走った。

 血圧測定に来た看護婦を追い越し、廊下の壁で体を弾ませながら向かった先は受付カウンターだ。

 疋嶋は自分が置かれている状況の理解が全くできなかった。何でもいい、自分を自分たらしめるための証明が欲しかった。

 息を切らしながら、カンターに手を突き、身を乗り出す。鬼気迫る疋嶋の顔にその場にいた誰もがおののいていた。

 狂人のような態度に困惑した看護婦が腰を引きながら声をかける。


「……どうなさいましたか」


「俺のカルテを見せてくれ……早く!」


 まるで強盗だ。武器を待っていないものの、その狂気だけで十分に脅しになる。人でごった返していたカウンター付近も疋嶋を避けるように一定の距離を取り、囲むようにして雑踏の円が築かれた。


「カルテですか……なんでそんなものを」


「もしもこの場所にないなら、教えてくれ。俺は本当に疋嶋陽介なのか。馬鹿な事を言うようだが、誰か俺が俺であることを証明してくれ」


「ええ、それは間違いありません……あなたは間違いなく疋嶋さんですよ。あなたの住所の所在も何一つ不備はないはずです」


「分かった。じゃあもう一つ質問する……その……」


 大きく息を吸い込み、口ごもった声帯からひねり出すように言った。


「俺は……いや……いまこの日本は西暦二〇三〇年で正しいのか……」


「え……」


 看護婦の反応はほんの数分前に疋嶋が自分の顔を鏡で見た時と同じ反応だった。その目は狂人を見る目であり、その会話を聞いていた他人も空間が不思議なひずみが生じたことを察した。


「いや、違うね。今日は西暦二〇三八年の八月十六日だよ」


 背後から男の声が聞こえてきた。そちらの方向へゆっくりと振り返る。充血した目でその男を凝視した。


「先生……疋嶋さんが」


 カウンターの奥に座っていた看護婦が上ずった声でその男に助けを求める。


「分かっているよ」


 視線を疋嶋に再度移し、近づいてきた。


「先ほどから会話を聞かせてもらったよ。まるでタイムトラベラーだ。でもそんなことは医学的観点から見ても、科学的観点から見てもあまりにオカルティックでナンセンスだ。つまり医者の立場から言わせてもらうと君は記憶をなくしている」


「俺は大学四年の夏に倒れたんじゃないのか」


 すがるように言い寄る。


「それは八年前の記憶だよ。もう一度思い出してみたまえ。どこか曖昧な部分はないのかね」


「そんなことはない、嫌というほどの鮮明だ。俺は家を出て、そこからどこのパチンコ屋に向かった。なにもかもすべて覚えている。でもそこから先の記憶がまるで消し去られたように無いんだ」


 医者が興味深い顔をして頭を捻った。


「先生こちらが、カルテです」


 看護婦が疋嶋のカルテを先生に差し出した。それ受け取り、じっくりと観察する。ほんの数秒間の会話だけで疋嶋の特異的な点に気が付いた。


「これは非常に珍しい事例だな、話してみた限り、ただの記憶障害とは言い難い……」」


 眉を細めながら言った。


「俺はどうになるんです?」


「取り敢えずこちらでCTを取ってみよう。僕も長年、脳神経外科医をやってきたが君のような患者は初めてだ。まるで八年と言う歳月が綺麗さっぱり抜け落ちている。取りえずここは離れよう。他の患者にも迷惑だ」


 疋嶋は肩を借り、そのまま病室に戻った。嵐が過ぎ去ったフロアの受付カウンターでは数分間は騒々しくざわついてたが、すぐに元に戻り、病院の平和な日常が繰り返された。

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