自分を顧みる時間がなかった子
中島克治先生著書の『小学生のための読解力をつける魔法の本棚』という本を図書館で見かけ、お、おもしろそう。と思って借りて読んでいる。
優しい語り口で進められる文章は、こういった「~するといいでしょう」といったようにあれこれ推奨してくる類でも苦に感じず読める。すごく印象の良い方だなあと思う。
中島先生の言葉の中で、心の琴線にひっかかる言葉を見つけたので、今回はそのことについて。
タイトルにもある、『自分を顧みる時間がなかった子』。
文章の流れとしては、勉強だけの生活をして自分で考える力を養わなかった子達の子を体現していた。作中では、親がその状況を強いてしまっているように書いてあったけれど、わたしはこの文章にすこし違和感を覚えた。
私は小さい頃、むしろ両親は勉強しろだんて何も言わないし、習い事もしろともいわれない……誤解を恐れずに言えば、ほぼ放置されて育った。
周りの子があれこれ親にお小言言われているのが羨ましくもあったわたしは、しきりに母に言った。
「勉強しろ!宿題しろって怒って!」
とんだお馬鹿さんに聞こえるが、当時は必死だった。
毎回のごとく、母には「でももうやっているじゃない……」なんて困ったように言われて肩を竦められるばかり。確かにそれでは言いようがないのは、親になった今ではなんとなくわかる。
必死に勉強した。宿題はもちろん、予習も復習も怠ることなく自学した。
少し興味があった空手教室に、入会を目的にして連れて行ってもらった。……けど、これはどうしても勇気が出なくて、結局体験だけして帰って来て。
でも本当は、この勇気も……母の後押しがあれば踏み込めたのだよなあと思う。人のせいにするつもりはない。けれど、当時のわたしの本音だった。
臆病で、用心深くて、でも幼いながらにプライドもあって。多分、大人からしたら扱いずらい子どもだったんだと思う。
大人になって、わたしはようやく自分と向き合い、自分を知った。
だからこそ言える。
当時のわたしは、必死だった。
両親にわたしを見てもらうために必死だったのだ……。
本当は怒られたかったのではない。本当は習い事がしたかったわけでもない(いや、空手は本当に興味があったんだけれど)。
わたしは、もっと両親に、わたしに干渉して欲しかった。
情けないが、その事に必死過ぎて……、本来自分を顧みるべきときに顧みれなかったのだと思う。
わたしは、人一倍両親が大好きで、妹を可愛がっていた。
だから同じくらい、その愛情を求めていた。
けれど今、人一倍
両親にも妹にも、恐ろしく興味がない。
嫌いならまだ、感心はあったのだと思うけれど、今は本当に……言葉は悪いがなんとも思わない。
ここまでたどり着くのに、それはもちろん長い葛藤があったけれど今回は割愛する。
この中島先生の言葉でわたしが気がついたのは、どうして当時にこの異常な感覚に気がつけなかったのだろうと言うこと。
本は大好きだった。本が友達だったくらいだから、わたしの生活には本がいつもあったはずなのに。
本は、そんなわたしの異常な家族への愛に気づかせてくれなかった。
……と、本のせいにしたいんじゃないんだよ。
視野が、世界が狭かったんだよね。
隔離されたような小さな田舎町。どこへ行っても知っている人しかいない。そんな小さなわたしの世界。
あそこで育った年月のことを、わたしは不思議なことにあまりよく覚えていない。
自分を顧みる時間がなかった子。
勉強云々もそうだけれど、それだけじゃくて。
人にばかり求めてばかりで、自分を見失っている人がもしどこかにいたら、こんな人間もいたんだよって話をしたいな。
今日はそんな、ちょっと物悲しい過去の話。
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