桜の下へ
「どうしたんですか? 今日は顔色が優れませんね。私以上に青白いですよ」
翌朝、彼は心配そうに瞳孔を震わせてその子の顔を覗き込んだ。
「そうですか? ああ、そういえば昨日寝苦しくて眠れなかったんです。きっとそのせいですね」
慌てて彼女はもっともらしい、言い訳を述べる。しかし彼は不思議そうに首を傾げる。
「寝苦しい? 昨日は暑くも寒くもなく寝心地の良い晩だった気がしますが」
「……その、悪い夢を見て起きてしまいまして、そこから眠れなく……」
「悪い夢? いったいどんな?」
「……口にすると正夢になりそうで怖いです」
「そうですか、よっぽど怖かったんですね」
その子はそっと彼の澄んだ瞳から目を反らした。その目をずっと見ていると、何もかも何もかも白状したくなってしまう。でもそうなれば自分の過去を打ち明けることにもなってしまう。それは絶対に嫌だ。
もう一度愛しい人の、美しい目を真っ直ぐ見つめることができるように、これで最後なのだから、今宵だけは失敗できない。目を反らしたまま、彼女の頭の中ではこれから犯す罪の事ばかり揺らいで、彼女は恋人の言葉も何度も聞き逃した。呆けてばかりで、彼の仕草や行動にも笑えなかった。
恋人が贈ってくれた綺麗なたんぽぽの花を、そっと両手で包む。今はまだ恋人に触れられない。そんなことをしたら、何もかも溢れてしまいそうな気がするから。だから恋人の手の変わりに花を握りしめる。その茎に、触れたはずの彼の手を想いながら強く強く握りしめる。
結局彼女は心配そうな恋人を、いつもの笑顔に変えることができないまま、その日は別れることとなってしまった。けれど、そんな失敗も今日だけだ。今宵の事を成し遂げれば全て終わる。
そこから先には、二度と過去に脅かされることのない、恋人との幸せな日々がある筈だから。彼女はそう自分を慰め、金の入った包みと鈍く光る包丁を握りしめた。
夜道をそっと歩いていく。一歩一歩が重い決意に地に沈みそうな錯覚がする。おそらくそれは、行きたくないと泣きわめく、理由もわからない恐怖が見せる幻影。それでも行かなければ、なにも終わりにできないから、その子は雑木林を目指す。
時は来た。草木も眠る丑三つ時。妖しい気配が渦巻く真夜中、人間二人の影が雑木林に動く。男はその子から受け取った紫色の風呂敷包を開き、その中に光る小判を手に取る。包みの中にきちんと自分の指定した枚数が揃っていることを確認する。そして月明かりに小判を一つ一つかざし、その黄金色の輝きを確かめる。全ての確認を終えて、もう一度小判を包直すと男は口を開いた。
「どうも、確かに頂きました。じゃあ次も……」
言い切るより早く、その子は男の胸に飛び込んだ。男に向けて立てた包丁の刃が男の胸に沈んで行く。自分の体重のありったけで、包丁越しに相手にのし掛かる。白色の月、金色の小判、紫色の織物、銀色の刃に、真っ赤な血。目も眩むような色彩が雑木林に溢れる。
「次なんて、無い」
包丁を振り払い、彼女は静かにそう告げる。その声は男の耳には届かない。どさりと重い物が地に落ちる。人ではなくなった物が深紅に包まれ腐葉土に沈む。流れ出る冷たい朱は、次から次へと地に染み込んで、乾いた木々の養分になるのだろうか。
これで終わった。やっと自分は過去から解放された。彼女は安堵のままに地面に座り込んだ。咽から熱い熱い息が、漏れ出る。確かに終わったのだ。過去との決別は。
しかし、それは彼女の幸せな時間の終わりでもあった。その子が男に金を渡し、そしてその息の根を止めるまで、全てを見ていた者がいた。彼女が誰よりも愛し、そして彼女を誰よりも愛する人が。
その人は確かに一見空回りが多く、慌てると思考が止まるという欠点はあるが、恋人の様子がおかしいことに気づかないほど愚鈍でもなかった。彼は恋人が、昔そんな顔はしないでくれと頼んだあの顔のように、寂しく切ない顔をしていたことにも、目を反らされてからついぞ一度もその瑪瑙の様な瞳がこちらを向かなかったことにも気づいていた。
そして彼には愛に一生懸命で、恋人の為にいかなる労力も惜しまない誠実さがあった。そんな彼が、恋人のあとを迷いつつも追ってきたところでなにも不思議はないだろう。彼は当然の成り行きとして彼女の家の周りを彷徨いて、そして当然の成り行きとして夜遅くに彼女が人目を忍んで出掛けるのを見かけた。
夜更けに恋人が出掛けて行くのを見て、優しい彼が心配をしない訳が無い。駆けては息を切らし、暴れる心臓を押さえ込んではまた駆ける。
そしてようやく辿り着いた雑木林で彼はしっかりと見てしまった。愛するその子が人を殺すのを。
何故かその時、全てがとてもゆっくりと見えた。止まった様な時間の中で、まるで美しい絵の様に。その美しい絵の中心を飾るのはそして月明かりに照らされる美女。そして彼はその麗人が間違いなく自分の恋人だと気付き、どうしようもない絶望を味わった。
その人は彼女に走り寄っていったいどうしたのだ。と問うことは出来なかった。そう問いかけて、自分の知らない恋人を知ることが怖かった。だから何も言わず彼女を置いて雑木林を立ち去った。
その夜、彼は一晩中苦悩した。身が引き裂け頭が割れても答えの出ない苦しみを感じながら、それでも彼は考えた。恋人が罪人であることは最早弁明のしようもない事実。人殺しに目を瞑り彼女を愛し、寄り添うこともまた罪である。
しかし、彼はわかっていた。それを理解しても尚、自分には彼女を愛さぬことなどできない。と。
やがて彼は結論を出した。愛することが罪であり、愛さぬことか出来ぬなら、いっそ。この心の苦しみを自分と共に葬り去ってしまおう。それが彼の見つけた浅はかで、悲しい答えだった。
その人はもとより自分の弱々しく何をするにも不便な体や、何の変哲もない庭を病の床から眺めるような人生に愛想を尽かしていた。彼の人生を意味のあるものに変えてくれたのは、優しく笑顔の可愛らしい恋人だった。
しかし愛する恋人は罪人。
もういい。生きていていても仕方ない。彼は床の間に飾られている刀を一つ取り上げ、鞘から少し抜いた。白銀色が、艶かしく揺らめいた。その冷たい色は少しだけ、一瞬見た人を殺すときの彼女の瞳に似ていて哀しかった。
刀を傾けると、そこには恋人を受け入れることもできず、彼女の知らない顔から逃げた情けない男の顔が写っていた。彼は自分が今から殺す男。病弱でどうしようもない駄目な男。せめてこの男が人並みの体力を持っていたのなら、きっとこの男は愛しい女性を連れてどこまでもどこまでも、どこまでもどこまでも逃げていくだろう。罪人だろうとなんだろうと、そんなことを忘れるほど遠くまで一緒に逃げていくのだろう。
でも彼はそんなたった少しの力さえ持ち合わせていない、情けない男。だから。彼は一振りの刀を携えて屋敷を離れる。
いざ想い出のあの場所へ。
愛しい人がいつも笑顔でいてくれた場所へ。
朝日が空を明るく塗り替える頃、彼はあの山桜の下で自分の首を掻き切って死んだ。
同じ頃、彼女は今まで幾人と殺してきたと言うのに、初めて返り血に濡れた己の体が恐ろしく感じていた。震えが止まらずはらはらと涙が止めどなく流れる。力の逃れた手から紅い包丁が滑り落ち、地に刺さる。
彼女は逃げる。足が震えて絡まり、何度も転びそうになりながら山を駆け上がる。あそこなら、あそこに行けばきっとまたいつもの自分に戻れる。想い出の場所。あの人がいつも笑顔でいてくれた場所へ。
そして彼女は彼の亡骸を見つけた。あまりにも悲しい対面だった。彼女は恋人との日々を守るために人を殺し、そしてその恐怖から逃れる為にここまで逃げてきた。そして逃げた先でもう息をしない恋人と顔を会わせたのだ。
山桜の大木に身を預ける恋人。青白い肌を染める真っ赤な鮮血。傷口から熱という熱が逃げ出し、その体からはもう生きていた名残は感じられない。彼のそんな姿を見た瞬間、不思議と彼女の中から恐怖が消えた。
彼女は理解した。かつての共犯者を殺したとき、彼女が感じた恐怖は失う恐怖だったのだ、と。幸せな日々を殺人という非日常に侵される恐怖だったのだ。今までその恐怖を感じなかったのは彼女に失うものがなかったからだ。
そして今その恐怖を感じなくなったのは、大切なものを亡くしまた失うものが無くなったからだ。その人は自分の人生に愛想を尽かして死んでいった。そして彼の亡骸を見て、その子も自分の人生に愛想を尽かした。彼女は何もかもほとほとどうでもよくなってしまった。
呉服屋の日々のように、彼女はまた手にいれた幸せを失った。これから先、また新しい幸せを探す事が煩わしい。それに、例え新しい幸せが見つかったとしても、それをまたいつか失うのかと思うと何もかも全て虚しい。
もう終わりにしよう。この世は駄目だ。この世に自分が永久に幸せになれる場所等無いのだろう。ならばあの世で良い。死後で良い。恋人と添い遂げたい。
その子は恋人の亡骸から刀を拾い上げると、愛する男の血糊を纏ったそれで自らの胸を掻き切った。瞬間、彼女の時が止まる。彼女が生きてきた時間の全てが石になる。その子は恋人の前に崩れ落ち、永遠に瞳を閉じた。
山桜の花が二人の上に淡々と降り積もって行った。
彼女の最期はやはり、桜の季節だったのだ。彼女の恋人の体は、地主の家の代々の墓に埋められた。そして彼女の体は無縁仏として幾多の流れ者達の遺体と共に、小さな石の下に納骨された。
「斯くして、死者となって尚、添い遂げたいと言う二人の願いは叶わなかったのでした。と。どう? 結構悲しい話でしょ?」
木の葉さんはそう締めくくった。そして私を見て不思議そうに笑った。
「どうしたの信乃、どうして泣いてるの? 悲劇的だけどありきたりと言えばありきたりでしょ?」
私の頬を涙が止めどなく、止めどなく流れていく。確かにその子の人生は数多ある不幸話の一つかもしれない。それでも悲しいことに違いない。悲しい話はいくらでもあるとはいえ、その一つ一つがそれぞれがどうしようもなく悲しいものなのだ。
私は彼女が憐れでならなかった。不幸に生まれ、痛みと苦渋に満ちた子供時代を過ごし、やっと手にいれた幸せも奪われて、それでも復讐を支えに生き延びて、恋をしてそして過去に憑き殺されたその子があまりにも可哀想で、私は泣いた。
「……だって、そんなに辛い思いをして……生きたのに……、そんなにあっさり死んじゃうんだって思うと……」
そう、その子は簡単に諦めた。怒りを糧に一生懸命生き延びたのに、恋人を失うその先に何の生きる意味も見いだせず、自ら命を絶ったその子。その子の人生が、その子にとって諦められる程軽いものだった事が切ない。
「ねえ信乃、自分のこと幸せって思えた?」
木の葉さんが私の顔を覗きこむ。桜を背景に美しい顔が微笑んだ。
「そっか」
私は気づいた。木の葉がその話を語った真意に。悲しみに溺れる愚者にはもっと悲しい話が良薬なのだ。私と同じように悲しみに死んだその子、私はその子の様に盲目になってはいないだろうか? その子は死ぬ間際、一瞬でも呉服屋での日々や、恋人との日々を思い出しただろうか? きっと思い出さなかった。彼女には幸せだった日々を思い出させてくれる人はいなかったのだ。
でも。私には。木の葉さんがいた。思い出させてくる。教えてくれる。美味しい食事を食べること、楽しい思い出を振り替えること、私が死んだことを知らないままずっと私を思ってくれる家族がいること、こうして木の葉さんにあって自分の幸せを知ったこと。もしかしたら、偽りでも恋を知れたことさえも。何もかも幸せに感じられる。
「突然でびっくりしたけど、私にこれを、幸せを思い出させる為にこんな話をしたんですね、木の葉さん」
木の葉さんはにやっと笑った。
「人間は前例に学ぶものでしょ?」
「……うん。その子も生まれ変わって幸せになっていると良いな」
私は自分の幸せを噛み締めながら、ぽつりと言った。その子の新しい人生で、全て上手くいっていなくても幸せのある人生を生きていてほしい。そんな私の仄かな弔いの念は、木の葉さんに嘲笑された。
「生まれ変われる訳ないよ。だってその子は復讐の為のお金を得る為だったり、復讐だったり、幸せを守るためだったり、色々な理由で直接的にも間接的にもたくさんの人を殺したんだから。地獄行きに決まってるでしょ?」
木の葉さんは実に淡白に、鼻で笑った。どこか蔑む様に。木の葉さんの言葉と表情に、私は少し怒りを覚えた。哀れな身の上の人を嘲笑うなんて、少しばかり道徳的にいかがなものだろうか。
「なんか木の葉さんは薄情ですね」
私は木の葉さんへの皮肉を込めて言う。
「ふふっ、お褒めの言葉と受け取っておきます」
しかし木の葉さんは気にする風でもなく、にやっと笑った。それは初めて会ったときのような胡散臭くて意地悪そうな笑顔。一瞬でも見せた天使のような美しい微笑みは、幻か何かだったのだろうか。木の葉さんは不意にそんな事を考えている私の肩を抱いた。そして唄うように言う。
「思い描いて、信乃。信乃の好きなほたての貝柱の味……、お父さんの船で遊んだこと……、信乃の故郷の暗くて冷たくてきれいな海……、生意気だけど優しい弟……、それに、例え偽りでも幸せだった恋の時間……、ついでに私のことも」
「ついで、なんて。ちゃんと一番に思いますから」
私はそう答えて、目を閉じる。鈴を転がすような木の葉さんの声が心地良い。瞼の裏に幸せを思い描いていく。憎しみも悲しみも、なんだかどうでも良くなっていく。体の中から仄かな暖かさが滲んできて、私が溶けていくのが分かる。
「木の葉さん」
「なあに?」
「……ありがとう。あなたに会えたことも幸せでした」
「うん。……信乃、元気でね。幸せになってね」
「はい」
「あのね、信乃。命って桜の花みたいなものだと思うの。それで、運命は天気。日の光を投げかけてみたと思ったら、気まぐれに吹雪いて花を蹂躙したりする。それは散った花が悪いとか残った花が偉いとかじゃないよ。ただその散っては芽吹き、花開いては枯れる。その繰り返しが美しいだけなの。信乃もその子も散ったけど、それは悪いことじゃないの。私の言葉、魂に刻んでおいてね」
桜の花は咲いては散る。散るからこそ次が待ち遠しく、美しいのだろう。人の生もまた、終わりがあるからこそ有意義で、来世が待ち遠しくあるのだろう。
「はい。きっとここでのことは忘れちゃうんですよね。でも、木の葉さんにもらった言葉、忘れても、無くしません。絶対に」
木の葉さんは笑った。今度はさっきの胡散臭い笑顔が嘘のよう。風に翻弄される木の葉の様に裏と思えば表、表と思えば裏返し。胡散臭い顔かと思えば、無垢な顔、かと思えば胡散臭い。そんな美しい人。
「信乃、ありがとう。さようなら」
木の葉さんの手が肩から離れる。最後にそれだけ感じて。
散りゆく桜の花びらとは反対に、夜空に向かって昇っていく信乃という女の魂。彼女はこれから輪廻の輪に溶けて、未来か過去か、どんな世界かわからないところに転生していく。その先にある幸せを信じて。
一人、話し相手のいなくなった桜の木の上で、木の葉さんは信乃の魂を見送る。自分は天に昇ること無く、信乃に語らなかった話の続きを思い出しながら。
ふと気がつくとその子は、不自然な程霧の立ち込める川原にたっていた。目の前を流れる河は大きく、激しい流れを湛えているにも関わらず河の水が奏でるはずの水の音は一切聞こえない。激流を前にする川原でありながら、そこはいやに静かだ。
ふと静寂を破るように、遠くから楷が水を切る音が聞こえてきた。手を伸ばせば指先さえ不確かになりそうな濃い霧のなか、その子は河に近づいた。
案外船は近くに来ていたようで、霧の中から揺らめくように姿を表した。白木の小舟は渡し守を含めて、人が二人の乗るのが限界そうな小さなものだった。白い小舟に朱色の曲線が描かれた不思議な小舟から、小柄な渡し守がその子を呼ぶ。
「おい、乗れ」
不思議とその子はその言葉に逆らえなかった。促されるままに船に乗り込む。小さいが乗り心地は悪くない。その子が船底に腰を据えたのを確認すると、渡し守はまた小舟を出した。
その子は目の前に座る渡し守を見る。そして渡し守の笠の下に、着物の中に渡し守という存在が無いことに気づいた。霧のせいで見えない、ということとは違う。ただ、朧気に人の形を取った混沌が着物を着て、笠を被って舟を漕いでいるのだ。笠の下には黒かと思えば紫の、紫と思えば青色の、そんな何かが渦巻いている。楷を掴む手は人の様な形はしているが、その輪郭は揺らいでいる。異形、しかし不思議と恐怖は感じなかった。この不自然な霧満ちる河には、むしろ渡し守のこの形がぴったりと馴染む。渡し守は口を開いた。
「ここは三途の川だよ。この河の向こうに人間の言う神様がいる。きっとお前が思うような形はしていないけれど、礼儀を忘れるな」
「はい」
渡し守の強い命令に、その子は逆らわなかった。渡し守の言葉にはどんな思いでいても逆らえないような強制力があった。霧は濃く、その子の着物は湿り気を帯びて肌に張り付いてきた。しかし、不快ではなかった。
船が進む度、対岸に近づく度、霧は密度を増し、まるで形ある何かのように感じられた。そして、霧の中でその子はまるで誰かに抱き締められているような、すべての緊張や力みが取れた穏やかな気持ちになっていた。
そっとまぶたを閉じると、心地よい人肌の様な暖かさに、滑らかな絹織物のような感覚が強く感じられた。不安も恐怖も疑問も葛藤も、楷の音と霧に削ぎ取られるように消えていく。
うつらうつらと夢現。ふわりふわりと船が揺れながら進んでいくのを感じる。薄く目を開くと真っ白な霧ばかり立ち込めて、進んでいるのかどうかは分からなかった。
渡し守は何も喋らない。楷の音だけが響く。長い長い時間、目を細めて白い霧を見詰めていた。どれだけ長くその霧に身を任せていただろうか。
「降りろ」
唐突に、渡し守が口を開いた。その子は言われるままに小舟から降りた。そこはたったさっきまでいた、川原よりももっと不思議な空間だった。前後左右上下、どこを見渡しても真っ白な霧がその子を包んでいる。何かを踏みしめている感覚はあるのに、足元も真っ白だ。
渡し守と船がそっと霧に溶け消える。純白の中に呆然と立ち竦んでいると、ふとどこからか声が響く。心を落ち着かせるような低音、それでいて耳障りの良い高音でもある不思議な声。相反する二つの良さを兼ね備える声。
「お前はまた、面白い人生を歩んできたね」
どこから聞こえているのかわからない声にその子は辺りを見渡す。しかしどこを向いても、ただ純白が埋め尽くすのみ。
「人の目で私は見えないよ。強いて言うならこの霧全てが私だ。いいからお聞き」
この人が神様なのかとその子は思った。神様の言葉に彼女は理解はできないが納得した。神様という存在はとても大きく、とても抽象的なものなのだ。だから人には真っ白な霧以上に認識することは不可能であり、だがそのとても大きな力に抱き締められるような安堵を感じることはできる。見えないけれどいる。それが神様なのだ。
「私はお前のような子を何人も見てきたよ。不幸のあまり、他の命を害する子をね」
神様は言った。その言葉に言葉以上の価値はないはずなのに、神様の言葉は聞いているだけで体の力が抜けていくような気がする。何もかも神様は知っている。だから、何も隠す必要がなく、だから何かを隠すような緊張も、知られるのでは無いかと言う恐怖も感じない。どこに込める必要もない力はただ抜けていく。
「人を傷つける子は一度壊して別の魂に直すのが一番なんだ。要するに転生という未来を奪うのさ」
神様の言葉に、彼女の口から自然と言葉が漏れる。喋っているのか、喋らされているのかわからない。でも構わない。
「私のような人殺しは地獄に落ちるものと思っていました」
神様は困ったように言う。
「地獄に落ちるよりきっと辛いよ。永遠に君という魂は消えて無くなってしまうのだから」
「私は消えても構いません」
神様はその子の言葉に笑った。顔は見えないけれど、優しそうな息づかいが聞こえた。
「魂はね、私が壊そうと思わない限り、肉の体に何があってもなくなることは無いんだよ。過去は前世になって肉の体と消えていく。でも魂は消えない。それは君の愛する人もね」
愛する人、という単語にその子は反応した。
「あの方もここに来たのですか」
「どうだろうね。あの子も重たいものを背負っていたから」
「あの人も転生するのですか」
恋人は来世へ行った。それを聞くと彼女の中で途端に強い未練が起き上がる。
「ああ、するよ。重たいものを背負ったままね。でも、あの子には何の罪もないが君には罪がある」
「……私は消えるのですか」
「そう。遠い来世で恋人に会うという希望は捨ててほしい」
消える。来世もその次もない。恋人を追うことは叶わない。やり直せるかもしれない未来。自分ではない自分、でも魂に刻んだ想いを忘れる筈はない。そうならば、記憶も体も無くなったってきっとやり直せるだろう。彼を見つけてもう一度。でもそれを諦めることが彼女への罰。
「……」
「君のような魂はここで消えて、空気や光など色んなものになって、やがて別の何かになる。新しい魂か、それとも器か。断言できることは、それは君じゃないってことかな」
あまりにも過酷な罰だ。
「……」
「魂の巡りは大切だからね。一つの魂は時が来るまで一つの器に入って過ごし、時が来たら一つの人生を終えてここに来る。器を勝手に壊して巡りを阻害するようなものは取り除かなければならない」
「……」
「泣かないでくれよ。君が犯した罪なんだ」
気づけば体の中から思いの全てが流れ出る。涙となって、瞳から。
「……もう、やり直せませんか? 二度と償うこともできませんか」
その子はすがった。神様はもう自分を消すことを決めてしまっただろうか。罪を背負ったまま、恋人との再会を夢見ることさえ許されないだろうか。
「……嫌です。消えたくない。……生まれ変わって幸せになりたいよ……」
頬を伝い落ちる涙は、白い霧の中に消えていく。しばらく神様は何も言わずに待っていた。そして、赤ん坊の様に泣きじゃくるその子の背を、霧を流して撫でて言った。
「消さなきゃならない魂はね、どれももう救いようがなく汚れているんだよ。改心なんてできそうもないものばかりなんだ。でも、君は違うみたいだね。私の懐の中で嘘はつけない。その涙は本物だ」
彼女に神様の言葉をきちんと聞く余裕はなかった。ただ駄々を捏ねるように、彼女は嫌だ嫌だと首を降り続ける。
「……嫌です。……これきりなんてあんまりですよ」
「泣き止んで。君は面白い。わかった、君に贖罪をさせてあげよう。もしも罪を償えたなら、そのときは君を恋人と同じ世に生まれ変わらせてあげよう」
恋人、その言葉に彼女は顔をあげる。
「…………えっ」
「贖罪を許そうと言ったんだよ。君は、君の愛する人の為、頑張れるだろう?」
そっと濃い霧がその子のまぶたを撫でて、閉じさせる。幼い子をそっと眠りに落とすように、優しく視界を遮らせる。白色の霧がその子を中心に渦巻く。今度は足元に感じる地面さえ無くなり、その子は汚れない白の中をどこまでも落ちて行った。神様の声が遠退いていく。その子の意識も遠退いていく。
「次に君が目を醒ますのは、あの山桜の上だ。その時には君はもう人ではない」
しっとりとした濃霧がその子を包む。真綿にくるまれたような感覚に、その子は眠る。
「あの山桜は君と恋人の未練を抱いて、悪意を呼び寄せる怨念の木になる。あの山桜にはこれから報われぬ魂が集まるよ」
赤子のように、いつか実母に抱かれた幼い頃のように。その子は無防備に眠りながら霧の中を落ちていく。
「君が直接的、あるいは間接的に手にかけた人間と同じ数だけ魂を救いなさい。楽なことではないが、やり遂げてみせなさい。大丈夫。君の痛みは誰かの傷を癒す薬になるよ」
神様の声はそこで終わる。目を醒ましたとき、その子は、木の葉と言う名の救い人は山桜の枝の上にいた。
あれからどれだけ経っただろうか。世界は巡り、あちらこちらで浮かばれぬ霊達が生まれる。その中の幾つかはあの山桜の元に集まり、美しい話し相手に心を救われている。こうして今日も悲劇の語り部である木の葉さんは魂を救い続ける。いつかまた恋人と会うことを夢見て。
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