桜を待って
その日からその人とその子はお互いにお互いへの想いを抱く友人になった。彼は雑炊以来味を締めたらしく飯時によく訪ねてきた。食事を待つ彼の目はいつも星の様に煌めいていて、いざ出来上がった食事は例え少し失敗したような物でも幸せそうに平らげた。目を離して黒焦げにさせてしまった炭のような料理さえ、泣きながら完食しようとした時はさすがにその子も止めにかかった。
また彼はよく菓子を持参した。甘味から煎餅まで、持ってきた物を子供のような無邪気な顔で、差し出す彼は可愛かった。そして、どれだけ菓子が待ち遠しくても
「ご飯が出来上がるまで、お菓子で小腹を満たしていたらいかがですか?」
と言っても、必ず頑として
「あなたのご飯の前に、腹は埋められません!」
と叫ぶ彼は愛しかった。
道で鉢合わせた時や、食後の散歩には必ず山桜の元に二人で出向いた。初めて彼と見たその桜は、花が散ったばかりで、見事な葉桜になって山の木々に混ざっていた。桜の木かどうか、言われなければわからないような緑の葉まみれのその木は、だが見事な大木だった。
たった数日で自然の景色が変わるわけではないのに、ことあるごとに二人で今山桜はどうなっているだろうかと見に行った。
「今日も変わりませんね」
「おや、葉が一枚散りました」
「雨上がりは綺麗ですね、翡翠みたいです」
「見てください、あの葉は少し黄色です」
他愛もなく日々桜を見てはその微細な変化を探した。
日々、お互いを知っていくにつれ、遠慮や照れが減り一緒に過ごす時間が少しずつ長くなっていった。錠前と鍵穴。二つがぴったりかちあって開いた扉の先には、暖かな日々が広がっていた。
風がさらりと流れるように、自然と想いは募り、日が移ろう様に相手への好奇心が高まっていく。何もかも、どんなことも尋ねたい。
そしてその子は彼について様々なことを知った。彼がこの村の地主の子であること。体が弱くいい年になっても、自分の家に貢献できていないのを恥じていること。花と食事が何より大好きで、どこか抜けているくせにとびきり優しいこと。
彼の過去、今の暮らし、未来への希望。時にはあまりに無邪気で可笑しな彼に呆れることもあった。しかし、彼女にとってはその人に呆れさえ、瞬きする間に好意に変わって心を埋めていく。思えば彼女には誰かを軽蔑したり、見下したりしたことはあっても、ただ純粋にぽかんと呆れたことはあまりない。あまりにも理解の範疇を越えられると、そこに生じるのは負とも正ともつかない、だからこそ真っ白に清らかな感情だった。
自然の摂理とそう変わらない必然さで、彼女は彼を知れば知るほど愛していった。
その人を知るのと同時に彼女自身も、自分のことを彼に教えていった。知って欲しいと思った。優しい実母の思い出を、穏やかな呉服屋での日々を、好きなものを、嫌いなものを、洗いざらい全て。
ただひとつ、幸せに満ちたその人とその子の間には、彼女の過去という秘密だけが隠されていた。彼女は自分の過去のことは、どう聞かれてもそれとなく流して、口をつぐんだ。
大きな秘密を抱いたまま、それでも二人の関係は進展していった。互いに確かな想いの上に成り立つ関係が、二人を友達以上にするのに時間はいらなかった。
それはある麗らかな春の昼下がり。二人は山桜の下で、その子の手製のぼた餅を頬張っていた。山桜はそれは見事に咲き誇り、二人の上に薄紅色の雨を降らせていた。輝くような薄紅色はあまりにも美しく、夏から雪解けの頃までは他の木々に埋もれていたことは嘘のように山の中に映えていた。
木の下から満開の桜の花を透かして空を見ると、それは綺麗な日の光と空の水色が桜越しに視界いっぱい広がっている。その美しさを好きなだけ二人で独占できる。新芽の萌える山並みの中で数本の山桜だけが浮き立つように映えている。
「私はどんな花も好きですが、中でも桜の花は格別ですね」
その人は桜の雨の中で笑った。薄紅色の色彩が彼の回りを踊る。
「私はつつじも、菜の花も、はなもくれんも好きなんです。でもやっぱり桜が一番好きです。綺麗でしょう? 花びら一つ一つが燃えるように生きてるようで」
そう言ってふわりと笑う彼を、堪らなく愛しく思ってその子は同意を示す。
「そうですね。私も好きですよ、桜。どういう訳か、私の人生の転機や区切りには桜が咲いている事が多いんです」
その子の言葉に彼は瞳を輝かせた。星でも恥じ入って夜空の彼方に消え失せそうな清い輝きに、彼女は目を奪われる。
「素敵です、桜に愛された人生。やはりあなたのような美しい人を花は歓迎するのですね」
「歓迎……はされていないですよ。区切りや転機と言っても悪い思い出が多いもので。私は桜が好きですけれど、桜は私が嫌いだからどうにか私に嫌われようと必死なのかもしれませんね」
その子は微かに自虐を含んで微笑んだ。こんなにも美しい男を求めることを許されるほど、私は良い女だろうか。この手はこんなに純粋な人に触れられるような綺麗な手ではない。どれだけ隠そうとこの手を染める見えない血糊は、自分が一番自覚している。そう思うと、ただ悲しく哀しく思える。
その人はそんな彼女の姿をしばらく見つめ、それから手にしていたぼた餅を一気に食べきると言った。
「あの、私はあなたを美しいと思います。それは大好きな桜の花や、旬の水菓子なんかよりもずっとです。あなたのどんな顔も素敵に思えます。でも……、そういう笑顔は見ていて切なくなるんです。だから、どうかその……そんなに悲しい顔はしないでください」
一息にそう捲し立てると、彼は言葉の間中止めていた分の空気を吸い込み息を切らした。
彼女はその言葉をうまく理解できなかった。あまりにも真っ直ぐで清らかな想いに、思考が止まってしまった。その人はぽかんとしている彼女を見て、自分の想いがしっかり伝わったのか不安になったらしく、しどろもどろに言い直した。
「あの、その……桜があなたを愛さないなら、私があなたを愛します! いえ、桜の代わりなんかではなく……私はあなたを愛しています。だからその……」
どんどん自分でも訳が分からなくなって行く彼を見て、例によってまたその子は笑い転げた。そして笑う度に彼女は自覚していく。
そう、この突拍子の無さに、可笑しさに、真っ直ぐさに救われるのだ。と。桜を見る都度彼女は思い出す。呉服屋の主の死を、復讐の終わりを。思い出す度泣きたくなる思い出を、彼といればそんなこともあったもんだ、と軽く思える。
彼は全ての幸福を、全ての美しさを、ただ幸せだと美しいと感じさせてくれる。そこにまとわりつくあらゆる悲しみを、取り除いて全ての真実だけを楽しませてくれる。涙は全て暖かいものに変えてくれる。その子は笑いのあまり浮かんだ暖かい涙を押さえて返事をする。
「私を愛しているのなら、私をあなたの特別な人にしてくれませんか?」
彼女の言葉にその人は、彼岸花のような雑じり気のない朱色に染まる。彼は餡の付いた手を手拭いで拭うと、彼女の手をとった。
「あの、その……つまり、あなたの言葉の真意は……」
「あなたの無粋さには呆れますけれど、それもあなたの良さなんですよね。こう言えば良いですか? 私もあなたを愛しています。私を想うなら、私をあなたの恋人にしてください」
桜の下にその人の笑顔が花開く。桜の花びらが、今度こそその子を祝福した。彼の中に在るたった一人分の、その人にとって肉親や恩師以上に大切な人の席。そこは彼女のものになった。
その子は思った。多分、私は汚れていてそこに座るのは許されないとしても、誰かが私がそこに座ることを許さず引きずり下ろそうとしても、私は屈しないだろう、と。
そして誓う。許されないのなら、許さない人間を全員叩き潰して許させればいい。この人の隣を誰にも譲らない、と。
今までの近く遠慮のない親友の関係は、艶っぽく男女の意味を多分に含むものに変わった。関係は昇格したはずなのに何故か遠くなる距離。
親友だった時、自分達はどれくらいの距離感だっただろうか。果たしてその距離感は恋人同士として、近すぎないか、遠すぎないか。そういった事が一気に分からなくなって、一から手探りで新しい関係を構築していく二人。
最早二人の特等席となった山桜の下で隣り合っても、どれくらい近くに寄ったものか、どんな話をしたものか、迷ってしまう。ぎこちなく手を繋いでは離してみたり、それからまた繋いでみたり。だが元から親しかった二人の関係に、すぐに新しい関係は馴染んでいった。
親友よりも一歩近く、親友よりもしっとりと落ち着いた関係。壊れることなく揺らぐことなく、これからは何があっても二人はお互いの隣に落ち着く。ほんの少し勇気を出せばその肩に触れるような近さで、食べ物の味を、景色の美しさを、お互いへの想いを、できる限り共有しようとする毎日。それが日常に変わる。その子の心にはいつもその人が居て、その人の心にはいつもその子が居る。
ふと訳もなく贈り物をしたいと思い、どんなものを恋人は喜んでくれるかと想いを馳せ、彼の好きそうなもの、彼に似合いそうなものを前に悩む。どんなものでもきっと間違いなく彼に似合いそうだと、目の前に並ぶ物に苦悩し、しかしそう悩む時間さえ幸せだった。
自分の言葉が、ちゃんと自分の意味するように恋人に伝わったかと日々悶々とする。彼の一挙一投足を深読みし落ち込む。そんな恋につきまとう苦労さえも、二人の恋を渋く深く、確固たる物に昇華させていく。抹茶が苦ければ苦い程、添え物の落雁が甘く感じられるように、日々恋に心を煩わせるからこそ、ふと想いが通じた時この上なく幸せなのだ。
地主の子に流れ者の村人。身分の差はあったが、不思議と誰もが二人の関係を喜んでくれた。嬉しいことがあったら二人で笑い、悲しいことがあったら二人で嘆く。どんなものでも共有したい、一人で背負ってなんかほしくない。
甘く苦い、穏やかでいて激しい。そんな恋の日々。桜が散って、木の葉が燃えて、雪が土を覆って。
彼はいつも自分が大好きだと公言する花を彼女に贈ってくれた。季節が変われば花が変わり、その度、彼は軟弱な体に鞭打って季節の花を摘んできてくれた。彼女にとって泥や根が付いたままの贈り物が、どんな高級品より尊かった。例え萎びて枯れてしまう、他人が見れば些末で手抜きに見えるものでも、その花に乗せられた想いは何より強くて熱いから。
彼女は知っている。花を一輪積む前に、必ず彼が合掌し頭を下げることを。一輪の命を誰かに差し出す意味を彼が知っていることを知っている。美しい花を貰って、その花の美しさを愛する人に語ってもらえる。彼が愛する花とそこに乗せられた想いを送るに相応しい女だと、彼が思ってくれている。
永遠に、この愛しい人と、この幸せをずっと大切にしたいと彼女は思った。この幸せ、永久であれば。
しかし運命は無慈悲にも、その子の幸せに終止符を打つ日を突きつけた。村にまた新しい移住者がやって来たのだ。痩せて如何にも狡そうな、それでいて小心そうな者。彼女の過去の一部を知る男。
それは偶然だった。しかし運命と割り切るにはあまりにも残酷な偶然だった。
彼は彼女が豪商を潰す為に使った共犯者。彼はその子が豪商を潰し、豪商の主一家を殺そうとしていたことを知っていた。そして酷く悲しいことに彼女の美しさは他の人間見間違いようがないものだった。男はその子を見るや否や、すぐに彼女のことを思い出した。
そして、彼女が今恋人と幸せの真っ只中にいることを知り、強請に出た。それは男が引っ越してきてから、数日たったある日。夜遅く村人が寝静まった頃、彼はその子を村外れの雑木林まで呼び出した。
「あんた、俺を覚えてます?」
彼女の方も男を忘れてはいない。どうして始末しておかなかった。こんな小心者は生かしておいても問題無いと何故思ってしまった。
人は変わる。復讐に生きた女が、恋に溺れる女に変わることもあり、眼中にも入らないような小悪党が、厄介な悪人に変わることもある。
どうして念には念を入れなかった。復讐に急いたのか。その子は自分を責めながら男を見据える。彼が要求してきた金は微々たる物だった。この先一生揺すられるとしても、それで黙秘を守れるなら良いだろう。彼女はそう思い、明日の夜までに、という彼の要求を飲んだ。
しかし最後に添えられた言葉に彼女は妥協を止めた。
「そうだよな。あんたも、恋人には知られたくないよな」
かつての共犯者が溢した、何気ない会話の終わりの一言。それがその子に決断させた。金はいくら無くなっても構わない。
だが万が一にでも恋人に過去を知られる可能性が在るのなら、この恐喝者を生かしておくべきではない。
消してしまおう。これが最後の殺人だ。過去と決別するために、これから生きて行くために、殺す。とうに決めたことじゃないか。自分を彼の隣から引き離す者とは闘うと、決してそこは譲らないと。
「はい。では明日、丑三つ時にまたここで」
それで、最期だ。
その言葉を隠して、その子は恐喝者と別れ、家路を急いだ。明日はあの山桜の下で恋人と会う予定がある。脅されようと、殺人の決断を下そうと、彼に会わない。という選択肢はその子にはない。だって何より大切なことだから、何よりも優先すべきことだから。
彼女は我が家に辿り着くと、真っ直ぐに台所へと急いだ。そしてそこにある包丁の内、最も鋭い物を選ぶと砥石にかけた。念入りに念入りに、今度こそ一切の油断無く、絶対に男を仕留め損ねることの無いように、包丁を研ぐ。包丁の濡れた刃に険しい彼女の顔が写っていた。
彼女の冷たく鈍く光る瞳はいつかの鬼女の瞳。夜遅く、包丁をよく輝く凶器に変えたその子はやっと寝床に付いた。
しかしその夜、彼女は今まで感じたことも無かった殺人への恐怖に苛まれ、一睡もできなかった。手が震え、酷く脂汗が流れた。明日、もう一度この手を汚すのかと思うと、何故か呼吸が浅くなった。
もうとっくに汚れた手のはずなのに、そこに最後に一度血糊を重ねることを、自分は今さら何故恐れているのだろう。何人も、何人も何人も、それこそ何の罪も無い人だって殺めてきた手じゃないか。経験ならいくらでも有るじゃないか。だから静まりなさい、震えも呼吸も、やけに騒がしい血潮も、静まりなさい。何度も自分に言い聞かせて、その子は瞳を閉じた。
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