葉桜の日々に
その子は復讐の元手に貯めた血塗られた金を基に、足の赴くままに、思うままに、ふらりふらりと諸国を旅し続けた。流されるように、さ迷うように、当てもなく。
しかし、どれだけ旅を重ねても、復讐に代わり、その子を生かす「何か」は見つからなかった。門付の美しい音楽も、大河にさらされる艶やかな染め物も、純白の新雪も、荒れる海も、真っ赤な紅葉も、彼女の心の空白を埋めることはできなかった。何を見てもただ、虚しさだけが感じられる。
幾年、年が過ぎたのか、彼女は小さな村にたどり着いた。穏やかな村だった。見渡す限り田んぼと畑が重なって、その中を村人が鍬やら籠やらを背負って行き来している。襷をかけた素朴な笑顔の村娘が草むらに腰かけて握り飯を頬張っている。ぼろを着た童達が小川の水を掬っては掛け合い、馬屋の藁に飛び込んでは眠っている。
名物になりそうなものは何もなく、唯一目立つ物と言えば、この村の地主か庄屋なのか、少しばかり立派な屋敷がひとつある位だ。
その子は気まぐれにこの村に滞在することを決めた。村の空き家を宿に二、三日泊まるうちに、その子の心は決まった。ここに住もう、と。その村はその子の心の空白を僅かに埋めた。雨の日も風の日も雪の日も、田畑を耕す農民の姿がその子の心を癒した。彼らは来る日も来る日も畑を耕し続ける。生きるために畑仕事をしているのか、畑仕事をする為に生きているのか解らなくなるほど、単調に。
朝起きて飯を食い耕作し、収穫しまた飯を食っては床につく、未来永劫、子々孫々に至るまで彼らはそれを繰り返すのだろう。何の為に生きるのかなど気にもせず。目的なく、ただ一椀の粟と、日暮れの家族団欒というあまりにも小さな幸せを全てに生きる村人たち。
しかし。これではないか、これこそがその子がどんな時でも切望して止まなかったものではないか。彼女が望むのはこんな何の変哲もなく起伏もなく、ただ安穏に生きる人生。矮小でも確かな幸せ。
そんな物を望み、それとは全く異なる世界を生きてきた彼女は、理想の生を村人たちの中に見つけたのだ。復讐と言う目的を、人生の芯を失った自分でも彼らのように生きられるだろうか、と淡い期待を胸にその子は村に根をおろした。
初めはあまりにも美しい移住者に、村人達の間では真偽も怪しい憶測から、絵空事のような噂話まで山ほど囁かれた。何処かの没落貴族か、滅びた国の妃か、はたまた天女か、もののけか。
だが、蝉が泣き止み、紅葉が染まり、村が雪景色に変わる頃にはそんな噂はいつの間にか無くなっていた。村人たちの中でその子は、何処からともなくやって来た神秘の美女から、いつでもそこにいる日常の住人に変わっていったのだ。
やがて雪が溶け、新芽が芽吹く季節がきた。その子は少しずつ、村人の中に溶け込んで行った。村の子供が彼女を警戒しなくなり、それに連れて親の方も彼女に気を許し始める。顔を会わせれば挨拶を交わす仲になり、だんだん井戸端会議に花を咲かす仲になる。二度目の春が来る頃には、お裾分けをしあったり、子供の世話を頼まれるような親密な関係がその子と村人達の間に産まれていた。
いつか呉服屋で過ごしたような、平穏な日常が彼女を取り巻いていた。このまま年老いて死ねたならどれ程幸せだろう。その子は毎日幸福を噛み締めて思った。
彼女がこの村に初めて足を踏み入れてから幾度か目の梅雨。それは雨がしとしと村を濡らす午後だった。その日、その子の運命は大きく動き出したのだった。
彼女はその日、何か新鮮な景色でも求めて、雨の中村を散歩していた。確かに雨に濡れた景色や、湿った土の香りは目新しく悪いものではない。しかし畦道のぬかるみや風が吹く度、雨がほんのり肌を濡らすのは不快なことこの上ない。
しばらく歩き回って彼女は、引き返して家でおとなしくしているのが吉と結論を下した。彼女はもと来た道をため息と共に引き返し始めた。帰路について、しばらくすると雨足は僅かに強くなり、空気はぐっと冷たくなった。彼女の足取りも急いていく。ほとんど走るようにその子は、家へと続く曲がり角を左に曲がった。
そして、そのぬかるんだ泥道に、息絶え絶えに倒れ伏している男を見つけたのだった。初めて見たそのとき、一瞬彼女はそれを何処からか飛んできた洗濯物ではないかと思った。しかし近寄って見ると、どうやら呼吸をしているようで、生きた人間の男のようだと気づいた。
しかしその男の呼吸は浅く、死人のようにべったりと地べたに張り付いている様子を見るに、ただ事ではないらしい。
彼を一目見たとき始めに彼女の頭に浮かんだのは、こんな雨の日に出歩く阿呆は自分だけではなかったんだな。というおかしな考えだった。次にこの男は何をしているのだろう。という考えが浮かび、最後にやっと理由はわからないが倒れているんだ。という結論を導き出した。
結論は即座に焦りに変わった。彼女は慌てて傘を投げ出すと、彼に駆け寄った。いよいよ本降りになった雨が容赦なく二人を濡らす。彼女は男を抱き起こし、肩を揺すって呼び掛けるが一向に返事は帰って来ない。吹き付ける雨はその子の目に飛び込み、意思とは関係ない涙となって頬を伝い落ちる。
その子は顔をあげた。視界を歪める雨水を顔から払いのけ、泥道の先に建つ我が家を見る。そしてもう一度腕の中の男を見る。何が原因かはわからないが、意識のない人をこの雨風の中に置いていくという選択肢は無いだろう。家が目と鼻の先にあるのが幸いだ。
その子は彼の腕を首に回して支えると、雨の中ぬかるみと、男の重さに足をとられながら、なんとか我が家の屋根の下に逃げ込んだ。
囲炉裏に火を起こし、有る限りの手拭いで男の体を拭き、着物の水分を奪う。肌を濡らす水滴はすぐに乾いたが、着物の方はそうもいかない。しかもよりにもよって彼が着ている着物は、高価そうな布地の厚いものなのだから具合が悪い。手拭いを押し当てて、叩き付けて、拭って、火に近づけて、どうにか男の着物をからりとさせたところで、その子は自分もずぶ濡れだったことに気づいた。
彼女は男の冷えた体を布団にくるんでから、やっと自分の体を拭いて新しい着物に着替え始めた。乾いた着物に袖を通し帯をしめる。じっとりとした不快さと、冷たさから逃れ一息つくと、気だるさや空腹が襲ってきた。
彼女は囲炉裏に鍋をかけ、水と芋と米に菜っ葉類を雑多に放り込む。鍋の底から沸々と泡が湧き、水面に昇って弾ける。鍋の下でぱちぱちと火の粉がはぜる。緋色の穏やかな光が彼女と、眠る男を透かして、家の壁にしばらく影絵を揺らしていた。
芋が煮崩れ菜箸で鍋の中をかき回すと、ゆったりした手応えが感じられた。椀に雑炊を移して、そっと掻き込む。痛いほどの熱さを湯気にして吐き出し、飲み下す。喉を伝って暖かさが腹に落ちる。体に残る冷気が、内側から吹き飛ばされる。
その時、ずっと微動だにせず炎に照されていた男が、体を揺らして薄く目を開いた。彼は重い瞼の間からゆっくりと部屋を見渡し、それから白い唇の間から絞り出すように、掠れた声で言った。
「ああ、腹が減りました」
彼の言葉に促されるように、彼の腹の虫が間抜けな声で鳴いた。そして彼はじっとその子の手の中の椀を見つめた。お腹を空かせた幼子がむずがるような瞳で凝視する。
それにしても開口一番、腹が減ったとは。ここは何処なのか、あなたは誰なのか、疑問に思うことは他にもっとあるだろうに。予想の斜め上を行く男の言葉に思わずその子は吹き出した。
体の深い、深い場所から笑い声と、笑顔と涙が込み上げる。産まれてこのかた、こんな風に笑ったことがあっただろうか、と思うほど無邪気に彼女は笑った。寂しさを隠して、企みを隠して、美しい笑顔を面に張り付けて笑った過去の笑顔とは全く違う笑顔。心の底から可笑しくて、そんな風に言う彼がどこか可愛くて彼女は笑った。そしてきょとんとしている男に、雑炊椀によそって差し出した。
「良かったら食べますか?」
彼は、慌てて椀を受け取ると困ったように笑った。
「ありがとうございます。あの、私、そんなにおかしいでしょうか」
「ああ、すみません。でも、いきなりお腹が空いた、なんて言われるとは思わなかったもので、つい」
その子はそう言って微笑んだ。彼女の笑顔に男は頬を仄かに染めて目を泳がせた。移ろう視線は手の中の椀に落ち、彼は慌てて雑炊を口に流し込んだ。
「あ、まだ冷めてな……い……」
彼女が止める間もなく、彼は今度は物理的な熱に顔を真っ赤に染めた。彼はぱっと口を押さえてなんとか、雑炊を飲み込むと長いため息をついた。雨の日の冷たい空気に真っ白な吐息が軌跡を描く。
その子は慌てて、柄杓に水を汲んで差し出した。彼は会釈と共にそれを受け取り、また一気に飲み干した。それでどうにか一息ついたらしく、彼は椀を持ち上げて言った。
「もう一杯頂けますか」
その言葉に彼女はもう一度笑い転げた。彼女はまた何か粗相をしたかと戸惑うその人を制して、二杯目の雑炊を手渡して言った。
「本当に面白いお方。今度はしっかり味わって食べてくださいね」
「あ、はい。いただきます」
彼は今度はちゃんと箸を使って、雑炊を口に含むとゆっくり咀嚼をしてから飲み込んだ。
「……舌に滲みます。でも、その……すごくおいしいです」
男は幸せそうに、にっこりと微笑んだ。
改めてよく見ると彼ははとてもほっそりとしていて、肌は色白を通り越していっそ青白い。頬の辺りは少し痩けていて、顔立ちは端正だが、隠しきれない儚さや脆さを感じさせる。
しかし、そんな印象を打ち消すほど、その人の笑顔は暖かく明るい。その子は彼が要求した三杯目の雑炊を椀に注ぎながら尋ねた。
「つかぬことをお伺いしますが、どうしてこんな雨の日に、こんな村外れの道に倒れていらしたのですか?」
その人は何度かまばたきして、虚空を相手に首を傾げた。しばらくして彼ははっとしたように、顔を上げて言った。
「そうか、そう言えば私は倒れたんでした。と言うことは……あなたが私を介抱してくれたのですね。……ああ、だから私は知らない場所に居たんだ」
まるで大したことではないかのようにそう言うと、また雑炊に口をつけ始める男に、その子は笑いを堪えて会話を続ける。
「あなたって、不思議な方ですね。もしかしてものすごい大物なんでしょうか」
「そんな、お恥ずかしい限りです。自分が倒れたことも覚えていないようなぼんやり者なだけですよ」
その子の言葉に男は照れて、はにかんだ。その表情に、その子の心臓が小さく脈打った。
「でも、本当にどうしてこんなところに?」
「実は、村の裏山を少しに登ったところに、それは見事な山桜の大木があるのです。その山桜がこの時期、いったいどんな姿をしているのだろうと、どうにも気になってしまって」
彼はそこまで話すと、また嬉しそうに雑炊を啜った。
「それで、気になってここまで来てしまったのですか? こんな雨の日に?」
その子は呆れて聞き返した。その人は彼女の言葉に秘められた感情を悟ってか、恥ずかしそうに目を反らした。
「その……どうにも、一度思い立つとじっとしていられない質でして。まあ雨の中苦労して見に行った山桜も、この季節ですから花びら一つ残ってはおらず……」
「それはそうでしょうね。桜が、雨の中のよく来たね。等と労いの花を咲かせてくれる、なんて聞いたこともありませんよ」
「そうですよね。そんなことある筈が無いですし、よく考えれば雨が止んだ後でも良かったものを」
しゅんとしょげて、背を丸める彼がなんだかとても可愛らしく見えた。幼子のようなあどけない滑稽さにその子はまた笑いそうになる。
「そうですよ。まったく、何も倒れるほど苦労してまで見に行かなくても……」
「ああ、いえ、倒れていたのは苦労して桜を見に行ったから、というよりは……。私は少しばかり人より体が弱いのですが、雨の寒さが祟ったようで。山の麓でくらりと来てからここまで、記憶が無いのですよ」
「それが分かっているなら何故…………ふふっ」
そこまで言って堪えきれずに彼女はもう一度吹き出した。笑いすぎて、これ以上笑ったら腹が裂けるのではと思うほどだった。
男は自分の珍妙な行動が嗤われているのかと、恐縮してさらに背を丸めている。どんどん小さくなっていくその姿もまたなんだか面白くて、とにもかくにも彼女の笑いは止まらない。しばらく笑い続けてどうにか気分を落ち着かせると、彼女は彼に自分の素直な心を送った。
「あなたは本当に面白い人ですね。こんなに人を笑顔にできるなんて、素晴らしい力だと思います。私、こんなに笑ったのは初めてなんですよ」
心の底から笑うこととはこんなにも暖かくて幸福なことだと初めて知った。気づかせてくれてありがとう、名も知らぬ人。彼女は深く強い感謝を目の前の彼に投げ掛ける。
彼は彼女の言葉を受け取って、内容を吟味するように何度も頷いた。それからぽつりと言葉を漏らした。
「私の面白さが力なら、あなたの笑顔は暴力ですね。あなたの笑顔を見ていると、胸が熱くなって、目が反らせなくなる」
彼はそう言うと、自分の発言を噛み締めるようにもう一度ぼそぼそと反芻した。
「……あなたの笑顔を見ていると……胸が熱くなって目が反らせなくなる……」
それから、自分の気持ちは多分愛とか恋とか言う言葉でしか表せないものだと気付き、はっと顔を上げた。彼とその子の目が合って、お互いにお互いの瞳が映す自分の姿を見た。
かちりと、まるで鍵が鍵穴に合わさって、重い錠前が開くように、二人の何かがぴったり合わさって、二人とも椿みたいに赤くなる。
「あ、わ、私はいったい何を言って……。で、でも本当にそう思うんです! ……って、わ、私はまた何を言って……」
慌てふためき両手を振って、弁明のような調子で自分の好意を肯定した。言い切ってから再び慌てる彼の背を、その子はそっと擦って言った。
「落ち着いてください。その、嬉しいですから」
言葉にして彼女は、彼に引かれている自分に気づく。彼を見て笑って、幸せな思いを感じること。それはきっとまだ仄かだけれど、確かな想い。
大きく目を開いて、自分を見つめるその人に彼女は微笑んだ。美しい、と言うよりは可愛らしい無垢な笑顔で。
「えっと、あの、雑炊美味しかったです。今宵は本当にありがとうございました」
その人は急にぱっと顔を反らすと慌てふためいて雑炊を掻き込み、立ち上がった。
「あ、そこまでお送り致します」
「い、いいえ、大丈夫です!」
その人はばたばたと逃げるように土間に降り、そのまままっすぐ、閉じたままの玄関の木戸に顔をぶつけた。その子は笑いを飲み込んで、引き戸を開き、もう一度言った。
「お送りさせてくださいな」
彼は失態を恥じているのか真っ赤になって頷いた。いつの間にか雨は止み、空におぼろ月が佇んでいる。静かな夜道を他人であって、想い合う二人が並んで歩いていく。その子の隣でずっと所在なさげにそわそわとしていた彼は、村の中でも一番大きな通りに出ると駆け出しながら言った。
「あの、ここからは道がわかるので……っ」
「……はい。さようなら」
彼の背中が宵闇に掠れていく。その子は小さく手を振りながら、さみしいと思った。何年かぶりに、さみしいと。
一目惚れ。
産まれて初めて、人を、誰かを欲しいと思った。手に入れたい。愛される為ではなく、愛する為に。
でも、次などあるだろうか。彼の名前も知らないし自分の名前も教えなかった。その時、もうすぐ見えなくなりそうだった彼がくるりと振り返った。小走りに少しずつ彼は近づいてくる。そしてその人は彼女に駆け寄り、息を切らせて言った。
「私の様な者が迷惑だとは思いますが、またあなたに会いに来ても良いですか?」
彼女を見つめる彼の瞳は、不安に揺らいでいた。彼女は裏返りそうになる声を必死に押さえて言った。
「構いませんよ。でも、道は覚えました?」
「はい! 道と雑炊の味はしっかり覚えました!」
彼女の言葉に彼の不安げな表情は、眩いほどの笑顔に変わる。
「ありがとうございます。また、来ます」
今度こそ本当に遠ざかって行く彼を見送りながら、彼女は胸が苦しい程弾む音を聞いていた。
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