エピソード2 ヴリトラの長い一日
第7話:遠い記憶
それはとても怖くて、そしてアルンが初めて世界を目にした時の古い記憶――。
「アルン、ここに隠れていて」
「じっとしているんだよ。父さんたちはすぐに戻ってくるから」
そう言って若い父と母は、目の見えない可愛い息子・アルンを納屋に積み上げた藁の中へ隠して外の様子を見に行った。
いつも通りの平和な夜、だった。ほんの少し前までは虫たちの鳴き声以外は何も聞こえない、とても静かないつもと変わらない夜だった。
それが突然悲鳴に引き裂かれた。
悲鳴はやがて大勢の怒声や絶叫となり、平和な夜はたちまち地獄と化した。
魔族が村を襲ったのだ。
アルンが生まれ育ったのは小さい村だった。
近くに魔族の集落がなく、たまに見かけてもそれは群れからはぐれた犬型種で、村の自警団でもなんとかなるようなものだった。
国の取り立ては厳しかったものの、貧しくとも皆が力を合わせて生きている平和な村だったのだ。
それが今、次々と村人が魔族の凶刃に命を奪われ、頑張って築き上げた平和な毎日が蹂躙されていく。
アルンには何も出来なかった。
なんせまだ5歳と幼い上に、生まれつき目が見えないのだ。普段の生活も父母や親切な村人たちに助けてもらわないと何も出来ない。ましてや村の窮地で一体アルンに何が出来ると言うのだろう。
だから言われた通りアルンは藁山の中にじっと身を隠し、外から聞こえてくる悲鳴や唸り声に恐怖でガタガタと体が震える中、ただひたすらお父さんとお母さんが無事戻ってきますようにと祈っていたその時。
突然納屋が大きく揺れたかと思うと、大音響と共に脆くも崩れ落ちた。
目が見えていたら慌てて逃げることも……いや、そもそもそんな時間的余裕もなかっただろう。アルンは藁山に隠れたまま、落ちてきた屋根の下敷きとなった。
しかも運が悪いことに崩れる時に折れた梁がアルンのお腹に突き刺さってしまった。
これまで感じたことがない苦痛と、大量の血が噴き出す感覚に、アルンはパニックになりながらも必死に命へしがみついた。
だが、叫ぼうとしても口からは血が溢れ出すばかりで声にならない。痛みから逃れようと身体をよじろうとするも、落ちてきた屋根も梁も重すぎて微塵も動けなかった。
アルンの人生はいつだってそうだった。
最初は自分で何とかしようとする。けれど結局は何も出来ず、誰かに助けてもらうまで諦めるしかない。
「最後までぼくはこうなんだ」と痛みと絶望の中、アルンは死を覚悟した。
すると不思議に後悔がなくなった。生まれてこの方、目が見えなくて何かと迷惑ばかりかけていた。それは多分これからもずっと続くだろう。だったらここで死んでしまった方が、みんなにもこれ以上迷惑をかけなくて済んでいいんじゃないかなと思えてきた。
「……でも最後にお父さんとお母さんの声が聞きたかったな」
屋根の下敷きになり、血で濡れた藁山の中でアルンは願う。もはや言葉すら話せず、意識にも次第に靄がかかってくる中、必死にそれだけを願った。
「0;KU0BQ%)」
そんなアルンの願いを神様が叶えてくれたのかもしれない。声が聞こえた。
だけど既に耳もよく聞こえなくなっていて、その声が両親のものなのかも分からなければ、何を言っているのかも判断できなかった。
「IY*@YKB」
また声が聞こえる。同時に体がふっと軽くなるのをアルンは感じた。
「0;KU0BQ%¥ IY*@YKB)」
身体がどんどん軽くなっていく。まるで空へ浮かび上がるような軽さだ。
声は相変わらず聞こえてくるけれど、やっぱり何を言っているのか、誰の声かすらも分からない。
それよりもアルンはこのまま自分が向かうのであろう天国に興味が湧いた。天国とは一体どんなところなんだろう? 天国で自分は上手くやっていけるのだろうか? 天国でもやっぱり自分は目が見えないままで……。
「?T@N%UEKT」
「……え?」
突然のことにアルンは驚いた。
それまでの人生で真っ暗闇だった世界に、黒以外の様々な色が突如として瞼の奥に侵入してきたからだ。
赤、青、黄、緑、白……その他アルンの知らない色が視界を埋めつくしていく。まるで色彩の洪水。アルンは眩暈を覚えながらも、溺れないよう必死になって何度も目を瞬いた。
「N%>)$IUZQT」
色彩豊かな世界に、誰とも知れぬ人の、何を言っているのか分からない言葉の声が聞こえる。
色は見えるようになったけれども、視界はまだぼんやりとしていて、形を捉えることが出来ない。ただ、それでも誰かが自分の近くに立っているのが見えた。
「UOF@XES@S$ 0;KU0BQ%¥ IY*@YKB)」
誰かは分からない。何を言っているのかも分からない。
だけどただひとつだけ、アルンには分かることがあった。
この人がぼくの目を見えるようにしてくれたんだ!
ここは天国かどうかも分からない。それでもアルンはその名を呼んだ――
「アルン君、朝ですよ。いい加減起きてください」
アルンがそんな懐かしい夢を見ていた頃、ミューはとても困っていた。
「おばあ様から聞いてましたが、これほど寝起きが悪いとは。まいりましたね」
アルンが寝入るベッドの脇に立つこと十数分、耳元で大声を出そうが、身体を揺すろうが、全く目覚める様子がない。
「もう、ホントそろそろ起きてくださいよー」
こうなったら魔法で火の玉でもぶちこんでやろうかと思いながら、アルンのおなかをぎゅーぎゅーと押すミュー。
すると最悪なことにアルンのパジャマのズボンがじんわりと湿気を帯びてきた。
「ぎゃー! アルン君がおねしょしたー!」
この世から赤い月が消え失せた翌日の朝は、そんな長閑な光景から始まる。
それがまさかあんな大変な一日になろうとは、頭を抱えるミューも、おねしょしてようやく目をごしごしとこすって起きてきたアルンもこの時はまだ知る由もなかった。
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