エピソード1 魔王誕生
第1話:ヴリトラの危機
天頂近くで輝く青い月を追いかけるように、東の山稜から赤い月が顔を出して昇ってきた。
温かいこの季節、青い月は暗く、赤い月は明るい。夜の帳の降りた世界が、俄かに血の色に染まっていく。
その世界の片隅に、古い城塞都市があった。
赤い月によって闇の中にぼうっと赤く照らしだされている城壁は、魔王戦争中期に作られたという年代物だ。
街並みも古く、特にひときわ目立つ尖塔を擁する教会は1000年以上の歴史を誇ると言われている。
ただ、そんな歴史ある街も近代化の流れには逆らえない。
最近では街中に電線が張り巡らされ、人々の暮らしぶりも随分と変わった。かつては日の出と共に起き、日の入りと共に眠っていた街も近年では夜遅くまで灯りが絶えない。
にもかかわらず今、街は赤い月の作り出す深い血の色をした夜の闇に包まれていた。
3日前、隣国アヴァーゼンの手によって、街の背後に聳えるスエル山脈の水力発電所が落とされたからだ。
そして城塞都市ヴリトラをぐるりと取り囲むように、アヴァーゼンの軍隊が城壁同様赤く染まって陣取っていた。
「なにをぐずぐずしているんでしょうね。答えは最初から決まってるでしょうに」
アヴァーゼンの兵士が双眼鏡を覗きながら、イライラした様子で胸ポケットのタバコへと手を伸ばす。
「さぁな。まだ話し合いの最中なんじゃないか?」
「話し合うもなにも降伏以外の選択肢はないでしょう? あ、くそ、さっきのがラストだったか」
兵士はくしゃっとタバコの箱を握りつぶすと忌々しそうに投げ捨てた。
と、胸ポケットに一本のタバコが押し込まれる。
「あ、こいつはどうも」
「大切に吸えよ。俺も残りわずかなんだ。あと、いざってこともある。準備だけはしとけ」
「え、連中が戦いを選ぶと? この大軍を相手に?」
「あり得ないとは言えんだろう」
「ですが、大賢者ミネルバはもういないんですぜ?」
およそ1000年にも及ぶ魔王戦争が終わって魔族が全滅すると、次に待っていたのは人間同士の戦争だった。
数多の国が興ては滅んでいく中、どの国からも干渉されなかったのがこのヴリトラである。
理由は魔王戦争を終結させた勇者シュターク一行のひとり・大賢者ミネルバの加護があったからだ。
「そもそも今の科学の時代に魔法なんて通用するわけないでしょう。それでもどこもヴリトラに手を出さなかったのは、ミネルバが100年前に世界を救った勇者のひとりだったからだ。彼女を殺したら、それこそ全世界から攻撃されますからね。でも、その忌々しい婆さんも百云歳の大往生で旅立った。もはや『いつでも攻めてください』って状態ですよ。連中がどこかの傭兵を雇ったなんて情報もありませんし、それなのに抗戦なんてそれこそ自殺行為じゃないですか」
「ああ。確かにその通りだ。でも、だからこそ連中は戦いを選ぶかもしれん」
「どういうことです?」
「……殉教だよ。あの世に旅立った大賢者ミネルバに自分たちも御供するつもりかもな」
その言葉に兵士が嫌そうな表情を露骨に浮かべた。
「殉教って、またハーバーンみたいになるってことですか?」
「上はそう考えたんだろ。だから俺が寄こされ……おっと話はそこまでだ。誰か出てくるようだぞ」
言われて兵士も慌てて双眼鏡の向こうへと意識を集中させた。
指示された方向へ双眼鏡を向け、ピントを合わせると、何者かの頭らしきものが城壁の向こうからぴょこぴょこと見え隠れしている。妙な動きではあるが、このタイミングからしてヴリトラの使者に間違いない。
果たして手にしているのは降伏を意味する白旗か、それとも開戦を告げる黒旗か……。
「……は?」
「なんだありゃ?」
しかし、城壁に立つ使者の姿にふたりは旗の確認も忘れて、ただただ愕然とするしかなかった。
身体をふらつかせながら城壁へ登ってきたのは、漆黒のマントに身を包み、頭には仰々しい角を左右に突き出した前時代的な兜を深々と被った人物だった。
その姿は今や子供たちへ寝物語で読み聞かせる、かつての大戦を演じた人間の宿敵・魔王を彷彿とさせる。
「よりもよってヴリトラの使者が魔王の格好って、一体どういうつもりなんですかね、あれは」
「知らん。それよりも旗を持ってないようだが……あっ!」
驚き、呆れつつも、メッセージを汲み取ろうと双眼鏡の向こうをじっと眺めていると、使者のコスプレ魔王が不意にこけた。
アヴァーゼンの兵士がどよめく。
使者は慌てて立ち上がろうとするも、今度は後ろにつんのめって、城壁の煉瓦へ尻餅をつく。そんなことを二度、三度と繰り返して漸く立ち上がったものの、その頃には既にアヴァーゼン軍に正体を見破られていた。
「あれ、中に子供が入ってますね……」
「そうだな」
「肩車でもして背丈を胡麻化しているんでしょうが、動きでバレバレですぜ」
「まぁ、大人たちがいつまで経っても結論を出さないから業を煮やしたんだろうな」
緊張どころかどこか微笑ましくもある状況に誰もが苦笑を浮かばざるをえない中、態勢を十分に整え終えた使者がその口を開いた。
「ぼく……余は魔王です……じゃなくて魔王で、ある!」
辺り一面に響き渡る大声だ。森の木々から鳥たちが一斉に飛び立つ。
アヴァーゼンの兵士たちもしばし息を飲んだが、しかし次の瞬間には兵士たちから爆笑が湧き上がった。
「ははは。魔王なのに『です』って! しかもわざわざ言い直してるし!」
「わはははは。声も完全に子供じゃねーか!」
「いやー、これまた可愛らしい魔王もいたもんですな、隊長!」
兵士たち同様、若い副官までもが腹を抱えて笑っている。
「…………」
が、その一方で軍を率いる隊長の男・デシルバは、ただじっと双眼鏡を覗き込んでいた。
ピントは魔王を語る子供の口元。ごてごてしい兜によって口元も隠されているが、しかし、どう見てもそこに拡声器らしきものは見当たらない。
しからばどうしてあのような大声を出すことができたのか?
声は紛れもなく子供のものだった。なのにそれなりの距離がある自分たちにも十分に聞き取れ、しかも森の中の鳥たちを驚かせて飛び立たせるほどの声量を拡声器の力も借りずに出すとは、鍛え上げられたアヴァーゼン兵士と言えども到底不可能なものだ。
もしかすると世間には公表されていない、極めて小さいながらも高性能な拡声器が兜に仕込まれているのかもしれない。
あるいは科学の発達の裏で消えつつある魔法の力なのか。
そう言えば大賢者ヴリトラは魔法の第一人者であると同時に、晩年は科学にも積極的に取り組んでいたという。
部下たちは大笑いしているが、デシルバはむしろ嫌な予感を覚えた。
その時だ。
ドンッ!
控えさせていた戦車の一台が突然大気を震わせて、主砲を放った。
デシルバの隣に立つ副官の命令である。
狙いは可愛らしい使者の立つ城壁……ではなく、その遥か手前の地面だ。
思いもよらぬ子供の冗談に笑わせてもらったが、兵士たちもいい加減待ちくたびれている。早くこの茶番を終わらせて、とっとと結論を出せという威嚇射撃だった。
「悪いがおチビの魔王さんよ、早く結論を出すようにお父さんたちに言ってくんねぇか?」
兵士たちの気持ちを代弁するように副官が声を震わせた。
その直後、地面へと着弾した砲弾が爆発を起こし、土煙がしばし使者の姿を隠す。
勿論、危害はないが、威嚇としては十分だ。
今頃魔王に扮した子供たちが慌てて城壁を駈け下りていくのを兵士たちは容易に想像出来た。
が、しかし。
土煙がすぅーとかき消された。
と同時に淡く緑色に発光する複雑な文様が、瞬く間にアヴァーゼン軍の頭の上を越えて赤い月の照らす夜空へ展開していく。
「な、魔法陣!?」
魔法陣は魔法の行使の際に必ず現れる。言わば魔法のトリガーみたいなものだ。
魔族が滅び、魔法の担い手が減っても、誰しもが一度や二度は魔法陣を見たことがあるはずである。
しかし、こんな巨大な魔法陣なんてアヴァーゼンの兵士たちは勿論のこと、人類史を遡ってみても見たことがある者は稀だろう。
しかも魔法陣はいまだ夜空を埋めつくす勢いで外へ外へと何重にも重なって展開されていく。
そして空に浮かぶ魔法陣の中央下に佇むのは、紛れもなく、先ほど名乗ったあの魔王であった。
「そんな馬鹿な! まさか本物の魔王だというのかっ!?」
アヴァーゼンの兵士たちがなすすべなく、ただ未知なる恐怖に打ち震えながら空を見上げる中、魔法陣の放つ淡い緑色の光が次第に発光を強め、同時に白色へと変色していった。
赤い月の夜空が瞬く間に白く塗り替えられていく。
それは夜が明ける瞬間よりも遥かに白く、まるで全てを洗浄するかのような光の洪水だ。
「いかん! 全員、衝撃に備えろ!!」
部下に命令しておきながら、デシルバは自分の死を直観した。
それはデシルバだけではない。アヴァーゼンの兵士誰もが同じ未来を見ていた。
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