最終章 苦しみの果てに広がる大地


 3月1日午前11時頃


 彼の左腕からステロイド点滴が外され、新たにモルヒネ静脈内投与の点滴が準備された。

 

 モルヒネ静脈内投与の1日投与量の基準は、癌治療の場合は、モルヒネ6mgとされ、有効な疼痛緩和は15分後で74%、30分後で87%であった。


 3月1日午前11時30分


 モルヒネ静脈内投与が開始された。

 投与量は、ウィルス症状を加味し、モルヒネ8mgとした。


 この数量は、心臓発作等の副作用発生率が38%と高く、10mgを超えると、所謂、安楽死の数値となることから、現在の麻酔医療の限界値と言っても過言ではなかった。


 この時、彼の意識はまだ戻っていなかったが、既にベットサイドモニター画面のSpO2の数値は94と表示されていた。


 3月1日午前11時55分


 SpO2の数値は通常とされる95を表示した。

 

 ICUには、担当医2名と看護師2名が、彼の意識の回復を戦々恐々と待ち構えていた。


 すると、彼の硬く握られていた右手の親指が微かにピクリピクリと動き出した。まるで、抱え込んでいる単行本の存在を確認するかのように


 担当医の1人がそ~と静かに言った。


 「院長と部長らに連絡してくれ。投与開始25分後の11時55分、意識が回復したと」


 看護師の1人が、まるでゾンビが蘇生するのを怖がるかのように、彼から視線を離さず、恐る恐る壁に掛かった電話機に近づき、その旨を院長らに蚊の鳴くような声で伝えた。


 3月1日午後12時00分


 院長と両部長が片手に防護服を握りしめ、ICUの前に駆け寄って来た。

 院長は、防護服に袖を通しながら、2人にこう言った。


 「今からが本当の戦いになる。」と


 3月1日午後12時10分


 ICUに集まった人々は無言で彼を凝視していた。

 部屋の中は、相変わらずサイドモニターがシビアなアラーム音を鳴らし続け、時たま、ECMOが合槌を入れるかのようにシュッシュと音を立てるだけであった。


 その時、彼の両手の親指に続き、両足の親指が反り返り出し、両太腿の青い大静脈が皮膚を突き破るかのようにくっきりとその存在を露わにし、続いて、彼の首筋の血管も浮かび上がった。


 担当医がサイドモニターの数値を確認すると、血圧値と心拍数の数字が音を立てるかのように急上昇を開始し、心電図のグラフもその形を大きく変化させた。


 担当医が言った。


 「モルヒネが効いてない。」と


 院長が慌てて、モニター画面と点滴量を確認し、改めて彼を見返した時、彼の身体がピックン、ピックンと痙攣していた。


 循環器系内科の部長が、


 「効いてない!何故だ!」と叫んだ。


 モルヒネ点滴を施した担当医は、


 「モルヒネの量は、癌治療の基準の6mgにウィルス症状を考慮して、8mgで設定してます。間違いありません。」と声を震わせながら答えた。


 院長は叫んだ部長を見やって、


 「この結果は、我々の想定を超えたんだよ。」と吐き捨てるように言った。


 循環器系内科の部長が言った。


 「これ以上、モルヒネの量を増やすことは出来ません。

 増やせば、かなりの確率で副作用が発生します。」と


 院長は、「分かっている。」とだけ言い残して、ICUを後にした。


 その時、院長の心の声はこう呟いていた。


 「早く楽になるんだよ。粘ってはいけないよ。」と


 それからの彼の痙攣は、地獄で拷問を受けているかのように、時間の経過と共にその激しさを増して行くのであった。


 彼の表情は、依然、眼は半開きのままで、言葉を発することはなく、一見、無表情、無感情に見えたが、

 彼が単行本を握る手の指は鬱血し、足の親指は折れるほどに反り返っていった。


 3月1日午後5時頃


 院長は自室の部屋に居た。

 机の椅子に座り、聖母マリアの絵写真を見つめながら、「何故、効かないんだ。」と途方に暮れていた。


 そして、院長は、最早、彼の状態をいち早く、彼の妻に知らせる必要があると腹を決めようとしていた。


 その時、院長室のドアをノックする音がし、院長が返事をする間もなく、循環器系内科の部長が部屋に入って来た。


 部長は院長の元に歩み寄り、こう言った。


 「患者の痙攣は続いています。ある意味、膠着状態と言えます。血圧、心拍数も上昇ペースが落ちて来ています。」と


 院長は、部長の目を見ながら、こう言った。


 「あの人、痛み感じてるよね。もう、5時間だよ。強い人だね。頑張り過ぎだよ。」と


 部長も院長の目を見て、こう言った。


 「凄い人だと思います。」と


 そして、部長は一呼吸つき、こう言った。


 「院長、黄疸症状が確認されました。」と


 院長は、聖母マリアの絵写真に目を移し、


 「癌は肝臓まで行ったか。その次に進むのは、ウィルスの群がる肺かな。」と呟いた。


 部長は何も言わず、一礼して部屋を去って行った。


 院長は部長が退室するのを見届け、受話器を取って、彼の妻に電話をした。


 妻は、今朝午前10時に、娘と一緒に保健所でPCR検査を受け、 

 保健所からは、取り敢えず、濃厚接触者として14日間の自宅待機指示が出され、

 また、PCR検査の結果は、明日3月2日午前9時に連絡すると言われていた。


 妻は今朝から彼のLINEに既読が付かないことを気にしており、病院に連絡しようかと迷っていた。

 

 丁度その時、妻のスマホに固定電話番号の数字が表示された。


 妻は瞬時に病院からだと分かり、スマホを手にした。

 院長からの電話であった。


 「私、ご主人様が入院されている病院の院長、津川と申します。奥様でしょうか?」と院長は切り出した。


 妻は、「そうです。」と一言答えた。


 彼の妻であることを確認した院長は、淡々と話し始めた。


 「奥様、落ち着いて聴いて下さい。

 今朝、ご主人は意識を無くしましたが、昼頃、意識は戻りました。

 現在、ICUでECOM治療を行っています。」と


 妻は覚悟していたかのように、


「はい!」と確認の返事をするだけであった。


 次に、院長は妻に確認した。


 「奥様は、今は自宅待機ですか?」と


 妻は、「そうです。」と答えた。


 院長は、彼の妻にまだウィルス感染症状が出ていないことを確認したかったのだ。


 自宅待機であることを確認した院長は、少し間を開けてこう言った。


 「実は、ご主人は膵臓癌であることも分かりました。末期癌です。」と


 すると、急に受話器の向こう側から妻の嗚咽が聞こえ出した。


 院長はそれでも続けた。


 「癌は肝臓にも転移してます。ステージは4です。

また、ウィルス感染治療のため、抗がん剤治療が現在できない状況です。」と


 泣き崩れた妻は、ゆっくりとスマホ握り、声を絞るようにこう言った。


 「明日まで持ちますか?」と


 院長は目に涙が溢れ出すのを感じながら、声のトーンは堅持し、


 「今、ご主人は頑張っています。」とだけ言った。


 妻は気丈にもこう続けた。


 「明日になれば、私も娘もそちらに行けると思います。

 主人の顔は見ることが出来ませんが、同じ屋根の下には行けると思います。

 ですから、先生!何とか明日まで主人を助けて下さい!お願いします。」と


 院長の涙は既に頬から零れ落ちていた。


 院長は、「神様、彼女の願いを叶えて下さい。」と心の中で祈った。


 そして、妻は泣きながら、


 「主人は苦悩ばかりの晩年でした。

 40歳で鬱病になり、今年の11月に私が主人にウィルスを移したばっかりに、鬱病が再発して。

 血圧もおかしくなり、腎臓に石が出来て…、

 会社からも見捨てられて、


 それなのに、主人は私と娘を喜ばせようと、夕食作って、買い物なんかに行くから、

 また、感染してしまって…、


 私が主人を殺したようなものです。」と


 妻は今まで辛抱していた辛い想いを白状するかのように、院長に止めなく話していった。


 その時、院長は、あっと閃いた。


 そして、妻を宥めながら、一つ確認するかのようにこう問うた。


 「ご主人はまだ死んでいません。奥様と娘さんがこちらに来るまで、私が絶対に死なせません。

 いいですか!お気持ちを確かに持ってください。


 あの~、奥様、今、ご主人が40歳から鬱病を患っていると仰いましたが、治療は続けているのですか?」と


 妻は泣きながら、答えた。


 「はい。投薬治療を続けています。来週にはカウンセリング治療のため入院する予定でした。」と、

 

 院長は受話器を握りしめながら、妻に言った。


 「奥さん、旦那さんが今飲んでる薬の種類、分かりますか?」と

 

 妻は自身の入院に備え、彼の「お薬手帳」も手元に準備していた。


 妻は、「分かります。」と即答した。


 院長は、身体を乗り出し、机のペン立てからボールペンを握り取り、そして、何が書かれている用紙か確認もせずにそれを裏返し、手元に引き寄せ、


 「教えてください!」と受話器に叫んだ。


 院長は、妻の話す薬の種類とグラム量を用紙に書き込んだ。


 そして、院長が礼を言い電話を切ろうとすると、彼の妻は全てを察したかのようにこう言った。


 「先生、もし、主人が苦しんでいるのであれば、楽にしてあげてください。お願いします。」と、


 院長は、その言葉を聞き終わると、何も言わず、受話器を元にそっと戻した。


 そして、院長は、机上にあるパソコンを起こし、当病院の専用ページを開き、「精神科」→「うつ病」→「投薬治療」→「投薬」と検索を進めて行き、「投薬」のページまで辿り着くと、画面の右上の検索欄に、妻から聴き取った薬名を打ち込み、クリックした。


 瞬時に薬の映像とその説明文が画面に表示された。


 院長は、その画面を印刷し、プリンターから印字された用紙を抜き取り、眼鏡を額に追いやり、椅子に背中を埋め込ませながら、その薬の説明文をじっくりと読んでいった。


 読み終えると、院長は腕組みをし、目を瞑った。


 「モルヒネが効かないはずだ。こんな強い抗うつ薬と睡眠導入剤を飲んでいるんだから…、効くはずがないよ。

 それも15年間も飲み続けていたら、もう身体に染み込んでいるよ…」と心で嘆いた。


 そして、院長は、


 「こんなにも多くの苦しみを与えられる人間がいるなんて!

 

 神様、貴方のお考えは何なんですか?


 教えてください。」と唱え、


 ゆっくりと十字を切った。


 

 3月1日午後6時頃


 院長は徐に受話器を取り、ICUに架電し、担当医に彼の状態を確認した。


 担当医は、依然、全身の痙攣は続いている。モルヒネを投入しながらも血圧が上昇していることから、かなりの激痛が生じていると思われると。   


 ただ、彼の心電図は正常であり、ECOMも順調に稼働し、一定の呼吸数、SpO2数値は保っていると説明した上で、こう述べた。


 「この人、強いです。2日、持ちますよ。」と


 院長は、担当医に彼がうつ病で抗うつ薬と睡眠導入剤を15年間服用し続けていることを説明し、そのためモルヒネの効果が薄れている旨を淡々と述べ終わり、そっと受話器を戻した。


 そして心で嘆いた。


 「凄い男だが、苦しみ過ぎだよ。」と


 本当に彼はなかなか死ななかった。


 それは彼の心の希望とは反し、

 彼が持って生まれた生命力、免疫力の強さであり、身体、肉体自体の本能的な抵抗行為であった。



 3月2日午前1時頃


 彼の痙攣が始まってから、既に半日が経過し、日付も翌日となっていた。


 ICUには院長を始め、対策会議の全員が彼の悍ましい死に様を見続けていた。


 その時、今までにない激しい痙攣が彼を襲い始めた。

 ピックン、ピックンとした痙攣から、ブルブルと身体全身が激しく震え出した。

 恰も電気椅子で死刑執行される死刑囚のように


 女性の看護師2人は目を閉じ、手で耳を塞いだ。


 担当医2人は、ベットに駆け寄り、彼がベットから落ちないよう彼の身体を押さえた。


 そして、担当医の1人がこう言った。


 「この人、こんなに痙攣してるのに、絶対にこの本だけは離さないんだ!」と


 それを聞いた院長は徐に彼に近寄り、何の本なのか、その題名をチラッと見た。


 院長は、思わず、「あっと」絶句した後、

「平原の町か!」と呟いた。

 

 コーマック・マッカーシーの「平原の町」は、院長の愛読書であった。


 院長は、自然と「平原の町」の悲哀に満ちたラストシーンを思い浮かべ、何かを感じた。


 院長は、それを確かめるかのように、彼の目を見て、心で彼に話しかけた。


 「あんたは、一体、何と戦っているのかい?」と


 すると、彼の半開きの瞼の下の黄ばんだ目が、


 「俺はあんたを信用するよ。」と


 物語っているように院長には読み取れた。

 

 院長は、彼の目を見つめながら、そこに居る医者達にこう指示した。


 「モルヒネの量を10mgにしろ!」と


 ICUに居る全員が驚き、固まった。


 暫くして、循環器系内科の部長が意を決してこう答えた。


 「院長…、その指示には従えません。そんなにモルヒネを増やせば、彼は心臓発作で急死してしまいます。

 院長、10mgは、安楽死の数量です!」と


 院長は叫んだ!


 「いいから、サッサとやれ!」と


 同部長は渋々、モルヒネ量を増加した。


 しかし、モルヒネを増加しても彼の激しい痙攣は治ることはなかった。


 ただ、彼の半開きの瞼、その下の黄疸で黄ばんだ目だけには、モルヒネの効果が浸透したように院長は感じた。


 院長は彼の耳元にマスクの口をくっ付け、彼の瞳を見ながら、周りの者に聞こえないよう、こう囁いた。


 「分かったよ、ジョン・グレイディ!

 

 マグダレーナは先に行って待っているのかい?」と


 その時、彼の痙攣が一瞬止まった。


 院長以外、全員が驚いた。


 そして、ベットサイドモニターの血圧値は上昇するのを止め、下降に転じ、心拍数、SpO2数値の数字もゆっくりと下がって行った。


 院長は、今度は、彼の瞳を見つめながら、ICUにいる者、全員に聞こえるよう、大声でこう叫んだ。


 「待っているんだな!」と


 すると、彼の半開きだった瞼がゆっくりと閉じ、そして、また、ゆっくりと同じ半開きの位置で止まった。


 院長は、それを見ながら涙を流した。


 いや、院長だけではなかった、全員の目に涙が込み上げた。


 院長は彼に言った。


 「よーく、分かったよ!」と

 

 そして、院長は、一旦、彼から離れて、モルヒネの瓶を取り、通常の2倍の量、12mgを吸い取った注射器を持って戻って来た。


 ICUに居る者、全員が、院長が何をしようとしているのか、明瞭に予見することができた。


 その上で院長を止めようとする者は誰一人として居なかった。


 院長は、彼の右手の静脈を取るために、彼の両手を解きにかかった。


 すると、あれほどまで頑なに両手を握っていた彼の掌が嘘のように簡単に解けた。


 院長は、彼の右腕の静脈を取り、そして、注射器でモルヒネを注入していった。


 そして、彼の頭を撫でながら、こう言った。


 「これ以上、あんたのハンサムな顔を台無しにはしないから、安心しろよ、ジョン・グレイディ!」と


 3月2日午前2時00分


 院長は彼の頭を撫で続けていた。

 ICUの中は、彼の痙攣により揺れ動くベットの脚の音、そして、ECOMとサイドモニターのシビアなアラーム音だけが口を開いていた。


 やがて、彼の痙攣の動きが収まり出した。

 それに合わせて、サイドモニター画面の血圧値、脈拍数、呼吸数が見る見るうちに低下して行った。



 3月2日午前2時15分


 ベットサイドモニターのアラーム音が今までの音とは違う音色を長く奏で始めた。恰も、真冬の氷湖のタンチョウのように


 院長は、彼の手首の脈を取りながら、機械の画面を見つめ、


 看護師に「3月2日午前2時15分心臓停止」とだけ述べ、そして、彼の半開きの瞼をそっと閉じた。



 彼は自身の身体から段々と痛みが去るのを感じていた。


 そして、半開きで止まっていた瞼がガレージのシャッターが再度上がるように開いて行った。


 朧げにICUの光景が眼に入り込んできた。


 誰かが彼の太腿と首に刺さっていた管を抜き取り、誰かは彼の傍に立ち尽くし、誰かは壁掛けの電話で話していた。

 それら光景がモノクロ写真の連写のようにパッパッと彼の眼には映るのであった。


 彼は身体が動けることに気づいた。

 彼は徐に、傍で立ち尽くしている人を避けるように反対側から起き上がろうと向きを変えた時、黒い影と目が合った。


 黒い影はベットサイドの椅子に腰掛けていた。

 そして、彼にこう言った。


 「大分、苦しんだみたいだな。でも、直ぐだっただろう。」と


 彼は黒い影に言った。


 「これで俺の苦しみは玲奈に追いついたのか?」と


 黒い影は言う。


 「いや、玲奈を追い越したよ。神がお前に与えた苦しみは、元々、玲奈より多かったのさ。

 神は人それぞれに異なった苦しみをお与えするのだ。」と


 彼は問うた。

 

 「お前は何者なんだ。死神か?」と


 黒い影は笑いながら言った。


 「死神が地獄に行こうとする者を邪魔しに来るもんか!」と


 そして、黒い影は彼に自己紹介を始めた。


 「俺は神の使い手だ。

 お前ら人間が、神が与えた寿命をちゃんと守るかどうかを見張りに遣わされた者だ。


 分かるか?


 お前ら人間がどんなに頑張っても、感情というものを数字で測ることはできないだろう?


 人の苦しみの量、哀しみの量、喜びの量、測れないだろう?」


 彼は確かに測ることは不可能と思った。


 黒い影の自己紹介は続いた。


 「俺は苦しみの量を見張るのが役目だ。


 特に厄介な奴は、お前みたいに、苦しみを必要以上に追い求めたかと思えば、今度は逆に苦しみから逃げようとする中途半端な輩だ。


 お前にはかなり骨を折ったよ。」と言い終わると、にっこりと笑った。


 彼は黒い影に悪態を吐いた。


 「なるほど、お前は俗に言う天使か。

 とんだ不細工な天使もいるもんだな。」と言い、黒い影を見やり、ニヤリと笑った。


 黒い影は、「ちっ」と舌打ちをし、ベットサイドからICUのスライドドアまでワープするように移動した。


 彼がこんな悪態を吐くのは学生以来のことであった。

 

 そして、悪態を吐き、にやけた瞬間、彼の心も身体も時空を超え、若返ったように彼は感じた。


 更に、前世における彼の記憶は、あの白いガードレールで区切られたかのように、ダム底に沈んで行く「玲奈の顔」が最初の入口となった。


 彼は、ベットからすくっと起き上がり、靴を履き、「俺も玲奈も運の悪い人間に割り当てられたもんだなぁ。」とボヤきながら、黒い影の元に歩いて行った。


 黒い影は彼を笑いながら見て、こう優しく言った。


 「そうボヤくなよ。神の御加護は前世のみではないんだよ。


 このドアを開け、東に向かえ。」と言い、彼に一冊の本を手渡し消えて行った。


 その本は「平原の町」であった。


 彼がウィルスと癌と戦いながらも決して手放しはしなかった、あの栞の挟み込まれた単行本であった。


 彼は、黒い影も粋な計らいをするもんだと思い、また、にやけた。


 彼は目の前にあるスライドドアのノブを握りしめ、思い切って開き、廊下に出た。


 そこは病院内ではなかった。


 彼は荒野の真ん中に立っていた。


 彼は上を向いた。燦然と輝く星空が広がっていた。


 彼は月を探した。


 月は三日月で荒野の岩に隠れるように沈もうとしていた。


 彼は三日月の反対方向を向かって歩き始めた。


 彼が歩みを重ねる毎に、シャリ、シャリと音がした。

 荒野は砂漠のようであった。


 どのくらい歩いたであろうか。彼には時間的な感覚が感じられなかった。疲れもなかった。

 そして、彼の歩みを邪魔する物は何もなかった。


 やがて、彼の遙か向こうに太陽が生まれ始めた。


 荒野は純粋な曙光に包まれ、その全体像を現し始めた。


 砂漠の周りに岩山がポツンポツンと見え始めた。

 

 更に太陽が姿の一部分を見せ始めると、その岩山達も自分らの正体を明らかにしていった。


 それは、メサのようなテーブル形の台地、浸食が進んだ岩山ビュートが点在しており、

 そこは、まるで、アメリカのモニュメント・バレーのように彼の眼には映った。


 彼は、その大地は聖地であるかのように思え、その最初の占有者である先住民達に、彼の踏み入りの赦しを乞うかのように、彼はメサの上に現れた太陽に向い、しばし深く瞑想を行った。


 そして、彼が瞑想を終え、眼を開いた時、彼の眼前には、遙か彼方まで続く一本道が現れた。


 彼は振り返った。


 目の前に彼の車があった。


 そして、その助手席には玲奈がいた。


 玲奈は彼を見て、助手席の窓から顔出し、手を振りながら、


 「待ってたよ!」と笑いながら叫んだ。


 彼は片目を瞑り、にやけながら、ジーンズの前ポケットに手を突っ込み、ゆっくりと時間をかけて車に近づいて行った。


 彼のその歩き方が好きだと玲奈が良く言っていたのを彼は覚えていた。


 彼は車のドアを開けて、運転席に座り、玲奈にこう言った。


 「かなり、待った?」と


 玲奈は彼を見て、にっこり笑い、


 「少し待った。」と言った。


 彼は玲奈に、


 「ごめん、そのかわり、この本あげるから」と言い、玲奈に「平原の町」を手渡した。


 玲奈はいつもどおり、満面の笑みを浮かべ、


 「ありがとう!」と彼に言った。


 彼は、直ぐに玲奈に確かめた。


 「あの時、お前、俺に何て言ったの?」と


 玲奈は言った。


 「あのね、あの時、声がしたの。


 『お前は彼を助けるのだ。手を離し、車で待っていなさい。


 彼は直ぐに戻って来る。』って、


 だからね、私、手を離して、京介に、待ってるからね!って叫んだんだ。」と真剣な面持ちで説明した。


 彼は、玲奈の黒い影のモノマネが余りにも似ていたので、思わず笑ってしまい、


 「そっか、そっか」と頷いた。


 2人は誰に言われた訳でもなく、シートベルトを締めた。


 彼はスターターに差し込まれたキーを回してエンジンをかけ、クラッチを踏み込み、ギアを落とし、車を発車させた。


 そして、彼はいつものように発車後の確認として、バックミラーを覗こうとした。


 すると、バックミラーには玲奈の十字架のネックレスが飾られ、十字架がゆらりゆらりと揺れ動いていた。


 玲奈は言った。


 「私が飾ったの!

 後ろを見る必要はないからね。」と


 彼は大きく頷くとともに、左手で神父に教わったとおり、その十字架に向い、ゆっくりと十字を切った。


 そして、カーステレオからはイーグルスのThe Last Resort が流れていた。


 

 

 

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最後のリゾート ジョン・グレイディー @4165

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