第15話 医学を凌駕するコロナウィルスと癌の牙

 3月1日午前2時頃


 彼は「平原の町」を読み終えた。


 時刻は既に日付が変わっていた。


 彼は再感染の衝撃か、又は枕が代わったためか、なかなか寝付けなかった。


 彼は、仕方なく、同書が「国境三部作」の完結版であることから、同書の最後に記された、三部作を通しての主人公ビリー(ジョン・グレイディの相棒)のエピローグを読み始めた。


 彼は以前そのエピローグを読んだ時、内容が非常に哲学的なこともあり、筆者の意図するものを読み取れなかったことを思い出した。


 特にこの箇所である。


 エピローグの中で老人となっビリーは、亡くなった弟ボイド、相棒のジョンの魂を探し、当てもなく最後の旅に出る。


 旅の途中、ビリーは、ある男と出会い、死についての哲学的な論争を繰り広げる。


 最初にその男は夢の概念について語る。


 「夢の中では、見てしまった夢、これから見る夢は見えなく、今、見てる夢しか見えない、それは、夢から覚めた後も同じであり、実際に目に映し出されるのは現在だけであり、過去も未来も目で見ることはできないのだ。」と


 更には、

 「目を覚ます夢は一つしかない。俺はその夢の世界から今の世界に目覚めた。一度捨て去ったものの処に戻ってきた。」と述べ、


 そして、最後にこう叫ぶ。


 「人が死ぬのはいつだって他人のために死ぬんだ!そして死は誰にでも訪れるものだから、死への恐怖が少なくなるのは自分のかわりに死んでくれた人を愛する時だけだ!~


 ~あんたはあの人を愛しているのか?、あの人の通った道に敬意を覚えるのか?、あの人の物語に耳を傾ける気はあるか!」と


 この箇所を読むと彼は栞を挟み、本を閉じ、枕元の電気スタンドを消し、こう感じた。


 「今の俺には分かる気がする。」と


 そして、彼は、彼がこの世に生まれ、一番多く見た、ある夢を思い出そうとした。


 彼女の命日が近づくと必ず見る、あの夢を


 彼の車の助手席に座っている玲奈が見える。


 彼は運転席に座り、玲奈に、「あの時、お前は俺に何を叫んだんだい?」と尋ねる。


 玲奈は彼の顔を見ようともせず、車の前方をじっと見てる。


 その表情は、何か哀しげであり、目は微睡、瞬き一つしなく、ただ、ただ、前をじっと見つめている。


 彼は玲奈に、「何を見てるの?」と尋ねる。


 すると玲奈は前を見つめたまま、静かに呟く、


 「私が助けた人を待っているのよ。」と


  それでいつも、夢が終わり、目が覚めるのだった。


 彼は思った。


 「玲奈は俺を助けたのか、玲奈は自分の意思で手を離したのか、」と


 そしてこう思った。


 「俺は玲奈を今でも愛している。玲奈の生きた証を尊重している。玲奈の物語を聞きたい。」と


 彼は静かに目を閉じ、その夢を見ようとした、


 目が覚めたとき、玲奈が彼の傍に居り、それが現実となることを願いながら、

 そして、深い眠りに堕ちて行った。


 3月1日午前5時頃


 病院9階の会議室で彼に対する治療計画が検討されていた。


 出席者は、院長を始め、呼吸器系内科及び循環器系内科の部長、担当医、看護師の計7名であった。


 先ず、彼の健康状態について呼吸器系内科の担当医から、

 「昨夜午前0時時点、体温38.2、血圧は上は220、下は120と高く、問題の酸素飽和(SpO2)は、最低82%を記録しましたが、徐々に上昇し89%まで回復しています。」との報告がなされた。


 院長は呼吸器系内科の部長に対して、ウィルス感染症の治療及びその緊急性について問うた。 


 同部長はこう答えた。


 「彼の肺は既に肺炎の症状があり、また、酸素飽和度(SpO2)が95%を下回っている状態が継続していることから、ウィルスによる低酸素血症の状態です。


 よって、いつ容態が急変し、重症呼吸不全に陥り、血液中の酸素の供給量の低下を招き、脳細胞等が破壊され、死に至るか、予断の許されない状態であります。」と


 院長は、現状における対処方法を更問した。


 同部長は、

 「午前6時には看護師が彼の状態を確認する予定です。その時点でSpO2が90%を下回っていれば、肺炎治療としてステロイドの点滴治療を開始し、容態の急変に備え、ECMO 治療の集中治療室(ICU)に移す予定です。」と答えた。


 院長は、次に循環器系内科の部長に対して、膵臓癌の治療及びその緊急性について問うた。


 同部長はこう答えた。

 「彼の膵臓癌はCTの画像検査の結果、残念ながら全膵臓の3分の2が既に癌細胞に覆われているため切除手術は不可能です。


 また、既に背中の痛みも見られることから、ステージ3の状態です。


 ただし、現在、黄疸症状は見られなく肝臓への転移は進行してないと思われますが、内視鏡的逆行性胆管膵管造影(ERCP)が実施できない状況でありますので、他の臓器に転移してないとは断言できません。 


 よって、ステージは3ないし4、ウィルス感染治療により、早期に抗がん剤治療ができなければ、その間、癌細胞は確実に進行しますので、最悪を想定すれば、余命1か月強かと思います。」と


 院長の決断は早かった。


 「了解しました。当患者については、ウィルス感染治療を優先し、ICU管理10日間経過後、ERCP及び抗がん剤治療を開始することとします。」と院長は述べ、


 何か質問があれば言ってくださいと出席者を見渡した、


 すると、循環器系内科の担当医が、


 「奥さんのPCR検査結果又は容態次第によりますが、癌の告知はどうします?」と質問した。


 院長は腕組みをし、暫し考えた後、質問者にこう質問を返した、


 「先程、早期に抗がん剤治療ができなければと言ったが、早期とは、どれくらい待てる?」と


 質問者は答えた。


 「早期とは2週間以内を想定しています。」と


 院長は即断した。


 「では、2週間後の3月15日に、配偶者へ告知することとし、当面はウィルス感染治療に専念することとします。」と


 そして、院長は、呼吸器系内科の部長に


 「午前6時の検査結果を待たず、至急、本人に変異株でのウィルス感染により肺炎となっていることを説明した上、ICUに移すようお願いする。」と指示した。


 同部長は、驚きながらも「分かりました。」と返答した。


 院長は、「では、即対応お願いします。」と言い、会議を力尽くに終わらせた。


 院長は何か嫌な予感を感じていたのだが、

 

 奇しくも、その予感は間もなく的中することとなる。


 3月1日午前5時45分


 呼吸器系の担当医と看護師は、会議室から彼の病室に直行した。

 看護師が部屋のドアをノックするが中から返事がない。


 担当医は、「まだ、お休みかな」と言い、スライドドアを開けて、

 「おはようございます。」と言いながら彼に近寄って行こうとしたが、彼は微動だにしない。


 担当医は瞬時に事態の急変を感じ、


 「やばい!」と言い、


 看護師と共に彼に駆け寄り、医師は彼の胸に耳を当て、同時に彼の手首で脈を確かめ、看護師はベッドサイドの人工呼吸器マスクを彼の口に当て、彼の指にオキシメーターを挟み込んだ。


 そして、担当医は彼のベットの緊急ブザーのボタンを押し、

 応答した看護室に通ずるスピーカーに向かって、

 「703号室、自力呼吸不可能、心臓の鼓動、脈、確認、酸素は80、至急、ICUに搬送する。ECMOの準備お願いします。」と大声で伝えた。


 そして、担当医は、看護師と一緒に彼に呼び掛けながら、彼のベットを同じ階のICUに搬送して行った。

 

 彼は医者の呼び掛けに応じることなく、意識を失い、目は半開きの状態であった。


 そして両手を握ったまま掌を胸に当て、その間には「平原の町」の単行本がしっかりと挟まっていた。


 3月1日午前6時00分


 彼にウィルス感染治療の最終手段である生命維持装置「体外式膜型人工肺装置ECMO」の取付けが開始された。


 ECMOの仕組みは、ポンプにより血液を取り出して、肺の代わりに酸素と二酸化炭素の交換をおこない、血液を体に戻すことで呼吸の補助をする装置である。


 そのため、血液を入れ替える際にカニューレと呼ばれる太い管を体に入れるため患者のリスクは大きくなる。


 早速、カニューレが彼の左太ももの静脈に入り込み、ポンプから伸びるもう一つのカニューレが彼の首筋の静脈へ突き刺さった。


 間もなくECMOはシュッシュッと機関車みたいな音を出しながら作動を開始した。


 ベットサイドモニターの上から心電図、脈波、呼吸波のグラフもECMOの発する音に合わせるかのようにパッパッと変化していった。


グラフの横には、脈拍、血圧、酸素飽和度(SpO2)、呼吸数が表示されており、

 脈拍は62、血圧は100/50、SpO2は78、呼吸数は6の数字が並び、

 依然として、モニターはシビアなアラーム音を奏でていた。


 3月1日午前7時20分


 モニター画面に変化が生じた。

 SpO2が、79、80、81、82、83、84と上昇を始め出し、89まで行くと一休みするかのように止まった。


 ICUには、当朝5時の会議に出席した全員が詰め掛けており、全員から「オォ~」と歓喜の声が上がった。

 

 ECMOが、皆の期待に応える仕事振りを見せ始めた。


 その時、膵臓癌担当医が部屋の空気を読まずに懸念を投げかけた。


 「うーん、血流が良くなれば、癌細胞の進行も早くなるな」と


 院長は、「分かった上だよ。」と、

 その医師の肩を笑いながら軽く叩き、ICUを出て、院長室に戻った。


 院長室に戻った院長は、ソファーに沈むように座り込み、天井を見つめ、それから、深ーい息を一息吐いた。


 院長は昨夜は一睡もできず、彼の治療方法について、あらゆる場合を想定しながら、あれやこれやと考えを巡らしていたのだ。


 院長は天井を仰ぎながら、腕組みをし、ブツブツと独り言を唱え出した。


 「最悪のケースはなし、次は2日でECMO外せるか、意識戻るか、戻れば…、激痛、癌の進行、麻酔、延命…」と繰り返し、恰も将棋の解説者のように手を動かしながら呟いた。


 そして、自身の机の椅子に座り、机に飾っている「聖母マリア」の絵写真に向い、ゆっくりと十字を切った。


 院長もカトリック教徒であった。


 院長は、十字を切り終わると、電話機を手元に引き寄せ、恰もそれが目覚まし時計かのように、「よし。」と呟き、仮眠をした。


 3月1日午前10時頃


 院長室にドアをノックする音がトントンと響いた。


 仮眠をしていた院長は、慌てて、椅子から起き上がり、受話器を取ろうとしたが、音の元がドアの方からだと気づき、首を捻りながら、


 「どうぞぉ~」と寝起きの怠い声を発した。


 部屋に入ってきたのは2人の部長であった。


 呼吸器系内科の部長が、


 「院長、経過を報告します。」と言った。


 院長は、2人の部長の落ち着いた物腰を読み取り、緊急事態ではないことを悟り、


 「掛けたまえ」とソファーを指した。


 院長は、緩めたネクタイを締め直しながら院長用のソファー席にどっしりと座った。


 院長が座るのを確認し、呼吸器系内科の部長が、ファイルから記録メモを記した用紙を取り出し、2人に配り、こう説明した。


 「ECMOは正常に稼働してます。SpO2の数値は10時現在、92まで上がり、血圧、脈拍、呼吸数も正常になりました。」と


 院長は、刀返しにこう問うた。


 「昏睡状態のままか?」と


 同部長は、「はい、まだ、意識は戻っていません。」と答えた。


 循環器系内科の部長がこう付け加えた。


 「心電図モニターのグラフも正常です。

 膵臓癌の肝臓への転移が懸念されますが、まだ、黄疸症状は出ておりません。」と


 院長はうんうんと頷き、そしてこう言った。


 「酸素が行き渡るまで後2時間ぐらいか。この調子で行けば昼前には意識は戻るね。」と


 呼吸器系内科の部長が、


「私もそう考えます。機械の数値と実際の体内数値にはズレがあります。


 通常であれば、SpO2 が90を超えれば意識が戻ってもおかしくないのですが、体内的数値はそれより下であると思います。


 SpO2が89から92まで行くのに2時間掛かったことを考えると、院長の言われたとおり、後2時間経てば、体内数値も90を超え、意識は回復するかと思います。」と説明を加えた。


 院長は、「2時間かぁ~」と怪訝そうに呟き、そして、循環器系内科の部長に問うた。


 「ICUで君の部下が、癌の進行速度が早くなると言ってたね?」と


 循環器系内科の部長がこう答えた。


 「やはり、ECMOにより血流が平均的に流れ出していますので、癌のやつもそれに乗って、流れていることは想定できます。」と


 院長は、同部長が言葉を終えると同時にこう尋ねた。


 「それでだ!その後、彼に何が襲いかかる?」と

 

 同部長もそれを相談しに来たのだと言わんばかりに、ソファーから前のめりになりながら、こう言った。


 「彼の膵臓は最早、癌の巣になっていると思われます。

 意識が戻れば、ウィルスに対する免疫力の対抗による頭痛、筋肉・関節痛は勿論のこと、それに合わせて膵臓からの痛みが伴い、想像を絶する激痛が生じると思います。」と


 院長は2人の目を交互に見ながら、笑みを浮かべてこう言った。


 「そんな患者、見たことある?俺はないよ!」と 


 2人の部長は、下を向いて、歯を食いしばった。


 院長は話を続けた。


 「そしてね、そんな激痛の素を作ったのは、うちの医者なんだよね。

 もう居ないけどね。

 組織的に言えば、俺なんだよね~」と


 軽く言い放ったが、院長の眼は座っていた。


 呼吸器系内科の部長が顔上げてこう言った。


 「彼の末期癌に侵された体力からして、ECMOを使い続けるのも2日が限界かと思います。」と


 院長は同部長を睨み付け、声を荒げ、こう言った。


 「俺は2時間後の話をしてるんだよ!」と


 同部長は、また、下を向いた。


 院長は、今度は優しく、同部長を宥めるようこう言った。


 「そこでだ。今ね、やってる、右手の肺炎用ステロイド点滴に変えてね、

 麻酔、鎮痛剤の投薬の点滴に変えてはどうかと、どうかね?」と


 同部長は下を向いたまま、こう言った。


 「それは可能です」と


 循環器系内科の部長が、院長の苦渋の選択を悟り、院長の口からそれを言わせぬよう、

 院長の眼を薄目で軽く睨み、院長の計画を代弁した。


 「2時間後の意識回復までにステロイドから麻酔に点滴を変える。


 ECMOは直ぐに止めるとSpO2の急降下が危惧されるので、限界の2日間稼働させる。


 そして、そのリスクとして、ウィルスによる肺炎の進行、癌の肝臓、食道等への進行はやむを得ないとする。


 結果、ECMOを取り外す2日後に抗がん剤治療を開始したとしても、この患者の余命はかなり短くなる。」と


 院長は目に涙を浮かべ、


 「いいだろう~、そうしようよ。

  手の込んだ延命措置と思われても構わない!

  あの患者、可哀想過ぎてねぇ、

  せめて、痛みだけでも、和らげてやれればと           

 思ってねぇ」と


  声を震わせながら2人に訴え掛けた。


 2人とも下を向いたまま、うんうんと何度も頷いた。


 そして、院長が涙が零れぬよう天井を見ながらこう言った。


 「奥さんにはねぇ~、俺から言うから。」と


 2人の部長は、院長に礼をし、部屋を出て行った。


 院長は、机の椅子に戻り、聖母マリアの絵写真を見ながら、ヨブ記12章22節を唱えた。


 「神は暗黒の深い底をあらわにし、死の闇を光に引き出される。」 と

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