第14話 コロナウィルスと癌の結託

 彼が神の偉大なる摂理に身を委ねてから数日経ったある日

 心療内科から妻の元に連絡があった。


 彼のカウンセリング治療の入院日を当初、受入先の都立病院と2月初旬を目途に調整していたが、

 政府の緊急事態宣言の延長により、ウィルス感染者の病床を確保する必要があるため、受入は早くても3月初旬になるとのことであった。


 また、その間の治療薬40日分を処方するので、妻に取りに来て貰いたいという内容であった。


 妻は、彼の入院が1か月先延ばしになったことに対して、その分、職場復帰が遅れると思い、少々落胆気味であった。


 一方、彼はその点何も気にしておらず、黒い影の「そう遠くはない」という時間的観念、

 そして、未来を神の偉大なる摂理に身を委ねた現在、

 鬱病の本格的な治療の遅れなど全く意に介しておらず、

 日々、蜻蛉の如く、残された時間を懸命に生きることに専念していた。


 彼の日常生活は黒い影の言葉を意識してからは、非常に規則正しい生活スケジュールとなっていた。


 特に妻と娘が喜ぶことに重点を置き、得意の料理に腕を奮っていた。


 彼の得意料理は、先に述べた鶏団子鍋の他、ローストビーフ、鮮魚の刺身、筑前煮、ボンゴレパスタ、たまごサンド、鯛めし、焼き飯、牛肉の酢漬け、ワカメと昆布の酢物などなど、バラエティに富んでいた。


 そんな主夫としての生活を送り続ける中、以前と唯一変化したものといえば、愛読書であった。

 

 少し前までは、彼は洗礼を受けるために聖書を読み耽っていたが、

 神の偉大なる摂理を信じ、教会に聖書を返してからは、

 彼の愛読書であるコーマック・マッカーシーの「国境」三部作、「すべての美しい馬」、「越境」、「平原の町」を読み返すようになっていた。


 特に「平原の町」については、

 そのストーリーが、


 「主人公であるカーボーイが薄倖な境遇により娼婦小屋で監禁を余儀なくされている幼い娼婦と激しい恋に落ち、そのラストシーは、その主人公が幼い娼婦と逃亡することを計画するが裏切りにより幼い娼婦は殺されてしまい、怒りに満ちた主人公は、そのオーナーであるギャングと死闘を繰り広げ、そのギャングを殺し、自身も最後は死を遂げてしまう」


 といった若い恋人の数奇な運命が描かれていることから、

 以前はその幼い娼婦が「玲奈」とオーバラッピングし、どうしても読み返す気にはなれなかった本であったが、


 今の彼は以前の彼とは違い、このラストシーンこそが自分が求めている最高の死に方であると捉え、


 主人公のジョン・グレイディを自分に置き換え、幼い娼婦マグダレーナを玲奈に置き換え、正にエンパスィーしながら読み耽る日々を送っていた。


 そんな生活を送り続け、2月14日、聖バレンタインデーの日を彼は迎えた。


 この日、彼は朝から妻と娘の大好物であるローストビーフを作っていた。


 彼の作るローストビーフは、


 肉は余り値のはらないオーストリア産の牛のもも肉800グラムを使用し、胡麻油で十分に揉み、肉に柔らかさと香ばしさを与え、


 更に肉には香味料として、塩、胡椒を馴染ませて、切れ目にニンニクのスライスを挟み込む。


 焼き方は、彼曰く、一番重要な工程であり、オーブンレンジで230度10分をかけて焼き上げるが、

 その10分間に何度も何度もオーブンの小窓から肉の焼き具合を確認しながら、肉の位置を変えたり、肉の下に敷いたアルミホイルに溜まる肉汁の量を確認するなどして、入念に焼き上げる。 

 買った肉の状態によって、焼き具合を合わせて行くのだ。


 この日も、彼は肉に下拵えをした後、オーブンに入れ焼き始めた。


 オーブンの小窓から回転する肉の塊りをじっくりと見ながら頃合いを窺う。


 やはり、途中、二度と三度と肉の位置を変えながら満遍なく焼き上げて行った。


 オーブンから胡麻油の香ばしい匂いが漏れ出し、肉の塊は汗を滴り落とすように肉汁を溢れさせた。


 彼はそのタイミングでオーブンから肉塊を取り出し、包丁で厚さ5ミリ位に丁寧にスライスした。


 肉色は丁度良い桜色をしており、肉塊はスライスする毎に肉汁を溢れ出した。

 

 彼はスライスした肉片を

 かいわれ大根を敷き詰めた皿に丁寧に盛り付け、その上にアルミホイルに溜まった肉汁を染み込ませるように流しかけ、仕上げに、軽く黒胡椒を振りかけた。


 そして、皿をサランラップで包み、肉の旨味を熟成させるため、冷蔵庫に寝かせた。


 なお、彼の家のローストビーフの食べ方は、

 醤油皿にポン酢を注ぎ、薬味として山葵とおろし生姜を溶き混ぜ、刺身のように1片ごとそのタレに付けながら食するものであった。


 聖バレンタインデーの夕食が始まった。

 日頃は、なかなか席に着かない娘も、この日ばかりは、既にテーブルにスタンバイしていた。


 彼は、冷蔵庫から皿を取り出し、テーブルに置いた。


 妻も娘も早速、箸を伸ばし、一切れずつ食していった。


 娘が言った。


 「やっぱり、お父さんのローストビーフが最高やわ!」と


 隣の妻もうんうんと頷き、黙々と食べ続けていた。


 彼は彼女らの嬉しいそうな顔を見るだけで満足だった。


 彼は食べなかった。

 遠慮しているのではなく、ここ数日、何故か急に食欲が落ちていたのだ。


 妻は箸の進まない彼を見て、心配そうに、


 「また、どこか悪いんじゃないの?」と彼に聞いた。


 彼は妻に


 「いやぁ~、料理を作ると味見するから、それでお腹が溜まるんだよ。」と言うと、


 妻は、「本格的に主夫になったわね。」と笑いながら言った。


 娘はそんな会話が耳には全く入って来ないかのように、「美味しい、美味しい」と連呼しながら、ローストビーフを夢中になって食べていた。


 彼は煙草を吸いに換気扇の下に行こうと椅子から立ち上がろうとした、


 その時、背中に激痛が走った。


 彼は背中を押さえ、顔を歪ませ、痛そうな素振りを見せた。


 妻は彼に、「腰をやったの?」と聞いた。


 彼は腰痛持ちで、41歳の時には腰椎椎間板ヘルニアで3か月間、入院したこともあった。


 彼は腰を押さえながら、

 「いや、腰ではなく、そのちょっと上なんだよ。慣れない立ち仕事のせいかなぁ。」と

 苦笑いしながら煙草を吸いに腰をかがめながら歩いて行った。


 妻もそう気に留めることなく、

 「多分、そうだと思うよ。主婦の辛さが分かるでしょ。」と笑いながら言った。


 彼が煙草を吸い終わり、とぼとぼと歩きながら席に戻ると、いきなり娘が立ち上がり、


 「これ、お母さんと私からのバレンタインプレゼントです!」と言い、

 リボンを飾ったヘネシーウィスキーの箱を彼に手渡した。


 娘は、「先生からも少しはお酒飲んでも良いと言われたみたいだからね。

 でも、飲み過ぎたら駄目だよ!」と

 彼に笑いながら言った。


 彼は、「久々、少し飲むか!」と言い、


 お気に入りのタンブラーを持ち出し、箱からヘネシーのボトルを取り出し、キュッとコルクを抜いて、タンブラーに注いだ。


 娘は早く彼に飲んで欲しそうに、テーブルに肘を乗せ、両手で頬を支え、じっと彼を眺めていた。


 彼はタンブラーを一気に飲み干すことなく、ちびりと味合うように口に含み、

「やっぱり、ヘネシーは美味いな~」と

 娘の期待どおりの感想を述べた。


 娘は、「やっぱ、なんやかんや言っても、お酒飲んでるお父さんが一番格好良いなぁ~」と

 彼を煽てた。


 妻も彼の飲み方を見て安心していた。


 あの夜の蛮行、そして、洗い場の粉砕の悪夢は蘇ることはないと思った。


 しかし、やはり彼には、良いことばかりは長く続かなかった。


 日に日に、彼の背中の痛みは増して行った。


 妻は彼に家事手伝いは良いからゆっくり休むようお願いした。


 しかし、彼は大丈夫だと言い張り、家事手伝い、夕食の支度を止めなかった。


 彼は、黒い影の言った、「時期が来る」の時期が近づいていると感じていたのだ。


 2月28日、その日は奇しくも死んだ玲奈の誕生日であった。


 彼は、風呂から上がり、背中に湿布を貼り、睡眠導入剤を服し、

 医者から寝付きを良くするよう指導されたとおり、

 風呂上がりから寝床に着く間を1時間空けるよう、キッチンの丸椅子に座り、煙草を蒸していた。


 その時、急に悪寒が走り、頭痛がし出したので、彼は体温計を脇に挟んだ。


 体温計がピピっという完了の合図音を鳴らした。

 彼は、体温計を脇から取り出し、その表示を見てみると、「38.3度」と表示されていた。


 その後、数回測っても体温は38度を下回ることはなかった。


 更に激しい頭痛が始まり出した。


 彼は思った。


 「ウィルスに感染した時と同じだ!」と


 彼は直ぐにパルスオキシメーターを取り出し、左手の人差し指を挟み込んだ。


 オキシメーターの血中酸素飽和度は89%と表示され、再度測っても90%を上回ることはなかった。


 彼は悟った。


 「低酸素血症だ。再感染したんだ。」と


 彼は直ぐにマスクをし、ウィルスに再感染したようだ、部屋から出ないように!と妻と娘にLINEを送信した。


 妻も娘も先の経験があるため、直ぐに「了解」との返信があった。


 それから、彼は、保健所に電話をした。


 保健所の担当は、彼の容態を聴くと、


 「今から至急、救急車を向かわせます、入院の準備をしておいてください。入院先は、貴方のご住所からすると都立総合病院になります。また、家族の方には追ってこちらから電話をします。」


 と言い、妻の携帯番号を聞き、電話を切った。


 彼はその旨を妻と娘にLINEで伝えると、


 前回と同じように、リュックに10日分の下着類、タオル、石鹸、歯ブラシセット、ジャージ、持病の薬、スマホ、充電器、そして、「平原の町」の単行本を押し込んだ。


 10分程した時、保健所から電話があった。


 「後、20分で自宅に救急車が到着する予定です。歩くことはできますか?」と聞いてきた。


 彼はまだなんとか歩けたので、「大丈夫です。」と答えた、


 保健所の担当者は、


 「マンション近くのどの場所に救急車を止めましょうか?」と聞いてきた。


 彼は前回同様、マンション前のコンビニの駐車場を指定して電話切った。


 彼は妻と娘にLINEで


 「俺は今から出発すること、お前らは、熱を測り高熱であれば保健所の連絡を待たずにこちらから電話するように」といった内容を送信して、


 マンションの部屋を出て、エレベーターに行き、人が乗ってないことを確認した上で乗り込み、マンションの玄関を出て、

 救急車の止まるコンビニの駐車場に人気を憚りながら向かって歩いて行った。


 彼は2度目であることから冷静であった。

 足取りも大丈夫そうに思えた。


 彼はなんとかコンビニの駐車場に着いた。


 彼が着くのと同時にサイレンを消した救急車がその前の道路に忍び寄るように近づき停車した。

 

 時刻は、丁度、午後11時であった。


 助手席から完全防護服を着込んだ担当者が降りてきて、彼に近づいて止まり、

 本人確認をした上、

 救急車のスライドドアを開き、彼を誘導し後部座席に乗せた。


 運転席と後部座席は、透明のアクリル板で隔離されており、彼が座ると、担当者は彼の指にオキシメーターを付けた。


 彼がオキシメーターを付けると、後部座席の右壁に設置されているモニターに数値が表示された。


 モニターのSpO2(酸素飽和度)の数値は「85」と表示された。


 それを見た担当者は無線で病院に


 「SpO2が85、まだ、自力呼吸可能、意識あり」と報告し、


 助手席の担当者が振り向き、


 「苦しくないですか?」


 と心配そうに尋ねた。

 

 彼は何故かまだ苦しくなかった。


 それより背中が酷く痛んでいたので、


 「まだ大丈夫です。それより背中がとても痛いです。」と答えた。


 救急車の運転手は、無線でその旨も病院側に伝え、

 再度、運転席にも表示されているSpO2の数値を見て、


 慌てて無線で「SpO2が82に低下」と


 報告するとともに、救急車の赤色警光灯を点火し、サイレンを鳴らしながら急発進した。


 彼は思った。


 「前回よりやばそうだ」


 彼を乗せた救急車は、夜の国道を縫うように病院目指して突き進んで行った。


 彼はその間、冷静に後部座席のモニター画面のSpO2の数値を見ながら、深呼吸を繰り返した。


 すると、彼のSpO2の数値は、82から下がることはなく、85、86、85、86と2つの数字を交互に表示した。


 時折、助手席の担当者が彼の方を振り向き、


 「苦しくないですか?もう直ぐ病院に着きますので、頑張ってください!」と

 彼を励ました。


 猛スピードで走行した救急車は、彼を乗せて20分で病院に到着した。


 停車場所は、前回同様、病院裏の出入口であった。


 その出入口には、完全防護服を着込んだ職員2人が車椅子を用意し、待機していた。


 到着時は午後11時23分、彼のSpO2の数値は89まで回復していた。


 救急車のスライドドアが開き、助手席の担当者が彼の指からオキシメーターを外し、

 「歩けますか?」と尋ねた。


 彼は、「大丈夫です。」と答え、

 救急車を降りて、車椅子を目指し、ゆっくりと歩いて行った。


 待機していた病院の職員が車椅子に腰掛けるよう指示し、

 また、彼の指に携帯用のオキシメーターを挟み、彼の口に酸素マスクを付け、

 もう1人の職員が病院の出口の扉を開き、彼のリュックを手押し車のようなトレー台に乗せた。


 車椅子を押す職員が「大丈夫ですか?声は出せますか?」と彼に尋ねた。


 彼は頷きながら酸素マスク越しに、

 「大丈夫です。喋れます。」と答えた。

 

 彼の指に挟んだオキシメーターは89の数値を表示していた。


 病院内に入った後、エレベーターホールでもう1人の職員が彼の前に中腰になり、今からの流れを説明した。


 前回同様、肺のCT検査をし、病室に入室後、血液検査と血圧測定を行うと言った内容であった。


 彼の車椅子は無人の病院内をゆっくりと押し進められ、CT検査室に向かった。


 CT検査室の前には技師が既にスタンバイしていた。

 技師は、彼を引継ぎ、「立てますか?」と尋ね、彼が「大丈夫です」と言うと、

 CT検査台に仰向けに横になるよう指示をした。


 彼は慣れた様子でCT検査台に仰向けに横たわった。


 CT検査の撮影が始まった。


 CT検査台がカメラの位置まで進み、技師が彼に「息を止めて」と指示を出し、撮影をした後、検査台は元の位置に戻った。


 彼がこれで終わりと思い起き上がろうとしたら、技師が、


 「今度はうつ伏せに寝てください。」と指示した。


 これは前回と違う指示だったので、彼は技師に


 「うつ伏せですか?」と聞き直した。


 技師は、


 「背中に激痛があるとのことですので、念のためにそちらも検査します。」と彼に説明した。


 CT検査を終えた彼は、再度、車椅子に乗せられ、オキシメーターと酸素マスクを着けられ、また、エレベーターホールに連れて行かれ、エレベーターに乗せられた。


 トレー台を押す職員がエレベーターの回数表示ボタンの「7」を押した。


 彼は前回入院した時は6階だったが、今回は7階かと思った。


 エレベーターが7階で止まり、彼の車椅子を押す職員が、部屋は703号室ですと教えてくれた。


 部屋に入ると、部屋の入口付近に彼のトレー台が置かれ、1人の職員は去って行った。


 彼の車椅子は、ベットまで進み、残った職員が彼に、「ベットに座れますか?」と尋ねた。


 彼は「大丈夫です。」と答え、ベットに腰掛けた。


 部屋の中は、前回同様、個室で、室内の空気を外気に吸い出す、大きな陰圧空気清浄機が物凄い音を立てていた。


 病院職員は、これから彼を担当する看護師の〇〇ですと自己紹介をし、

 最初に体温測定を行った。

 彼の体温はやはり38度を超えていた。

 

 次にオキシメーターを確認し、89の数字表示を見て、看護師は「息苦しさはありませんか?」と尋ねた。


 彼が大丈夫だと言うと、


 看護師は、彼の顔から酸素マスクを外し、今度は血圧測定を行った。


 血圧は高く、上は220、下は120であった。


 看護師は「熱も血圧も高いですねぇ~」と言ったので、


 彼は、「前回もそうでした。」と言うと、


 看護師は驚き、「2回目ですか!」と言い、

 彼の顔をまじまじと見つめた。


 そして、彼に「それなら、この表の付け方もご存知ですね。LINE送信もわかりますね。」と

 今度は柔かに彼に言った。


 彼は大丈夫だと答え、病院用のスマホを確認した。     


 入院隔離の仕組みは前回と同じで、

 患者が毎日決められた時間に、体温、血圧、酸素値を測定し、指定された表に書き込み、その表を病院用のスマホで撮影し、LINEで看護室へ送信する仕組みであった。


 看護師は、最後に血液採取を行うと言い、8本採取した。


 そして、もう休んでも構わないが、CT検査の結果が出次第、担当医が説明に来る旨を彼に説明して、部屋を出て行こうとした。


 彼は看護師を呼び止め、頭痛が酷いので痛み止めを貰えないかと頼んだ。


 看護師は、それではCT検査の説明の際に一緒に持ってくると答え、

 病室出口で使い捨ての防護服を脱ぎ、専用のゴミ箱に捨てて、手を消毒して病室のスライドドアを慎重に閉めながら出て行った。


 彼は前回、1か月もここに入院していたので勝手は充実承知しており、

 リュックから荷物を取り出し、前回同様、荷解きを行った。


 それが終わると、彼は、ベットサイドの棚に置かれた2リットルのペットボトルの水を紙コップに注ぎ、睡眠導入剤を飲んだ。

 

 そして、ベットの枕元に「平原の町」の単行本を置き、自分のスマホの充電器をコンセントに繋ぎ、そして、妻にLINEした。


 「今、病室に入った。そちらはどうか?大丈夫か?」と


 妻から直ぐに返信があり、


 「2人とも発熱はありません。

 保健所から電話があり、貴方のこの2日間の行動記録を聞かれたので、自宅から一歩も出てないと説明しました。

 

 私と陽子は、明日午前10時に保健所でPCR検査を行うことになりました。

 おそらく陽性かな。

 また、一緒の病院に入院することになると思うよ!」と呑気な返信が返ってきた。


 次に彼は会社に連絡しようとしたが、どうせ休職中の身だからと思い、連絡はしなかった。


 その頃、当病院の呼吸器系内科の医務室では大騒動となっていた。


 担当医が彼のCT写真を見ながら、肺の上部が白くなっており肺炎であることを確認し、彼の前回の血液検査表と今回の血液検査結果を見比べ、


 「変異株だわ」と声を上げた。


 当病院での変異株ウィルスの感染者は彼が初めてであった。


 その時、同時に循環器系内科の医務室でも深刻な雰囲気に包まれていた。


 担当医が彼の肝臓、胆嚢、膵臓のCT写真を慎重に精査していた。

 担当医が膵臓の写真を見て声を上げた。


 「おいおい、この人、膵臓癌だ!」と


 慌てて、もう1人の医者が呼吸器系内科の医務室にその旨を電話で伝えた。


 その際、呼吸器系内科の返答内容に、架電した医者は大声を出して確認した。


 「何!1月27日にウィルス後遺症で腎臓のエコーを撮ってる?


 その時、異常なし?


 嘘だろ!


 しっかり膵臓に癌細胞がぎっしり詰まっているよ!」と

 声を張り上げた。


 電話を切った医者は慌てて、1月27日に行われたエコー検査のカルテが保存されているファイルを探し、


 「これだ!本当だ、検査してるわ!えっ~と、担当は…」と言い、急に声を失った。


 CT写真を見ていた医者が、


 「担当は誰なんだよ。俺じゃないよ。」と言うと、


 カルテを握った医者は、


 「爺さんだよ」と一言呟いた。


 そう1月27日、彼の腎臓のエコー検査を担当し、「小っちゃな石だけ」と診断した、あの老医者である。


 CT検査の写真を見ていた医者はカルテを持った医者に駆け寄り、


 「おい!見せてみろ!」と言い、カルテを奪い取った。


 そして、「なんてこった。触診もしてないじゃないか!

 ウィルス後遺症患者なのに、腎臓だけ撮ってどうするんだよ!


 内臓全てを疑わないと駄目じゃないか!」と怒鳴った。


 もう1人の医者が言った。


 「あの爺さんじゃ無理だわ、逃げるように退職して行ったからなぁ~」と

 俯いてポツリと言った。


 その老医者は、当病院が都のウィルス指定病院に指定されてから、ウィルス感染患者を優先対応するため、人員配置が呼吸器系内科を重視したことに不満を持ち、当病院を1月末で退職していた。


 また、この医者の診断は前々から問題が多く、数回の医療過誤を発生させており、院長からは、この医者の診断は単独でさせないよう特段の指示が出されていた。


 しかし、その日は都内で過去最高の新規感染者数を記録した日であり、

 循環器系内科でも各担当医はかなり多くの患者をそれぞれが抱えており、なかなか、その老医者のバックアップができない状況にあった。


 カルテを握った医者は直ぐに呼吸器系内科に電話をし、

 現在の彼の呼吸状態が安定していることから、

 彼に対するCT検査の説明は保留するよう依頼した。


 そして、次に院長に電話した。


 「院長、先程のウィルス患者が変異株のウィルスに感染しているのは聞いたと思いますが、その患者、膵臓癌も発症してます。」と


 電話に出た院長は冷静にこう質問した。


 「現在のステージは?」と


 架電した医者は答えた、


 「ステージ3です。


 ただ、内視鏡的逆行性胆管膵管造影(ERCP)の検査が可能であれば、他臓器への転移も疑われる状態です。」と


 院長は、「末期癌のステージ4の可能性が高いか。手術は無理だな。」と静かに言った。


 架電した医者は、「その通りです。それよりも…」と言葉を詰まらせた。


 院長は、「それよりも何だ?」と聞き直した。


 架電した医者は、意を決してこう言った。

 

 「院長、医療過誤の可能性が非常に高い事案です。」と


 院長は絶句した。


 そして、「その理由は?」と端的に問うた。


 架電した医者は言った。


 「この患者は、1月27日にウィルス後遺症の疑いのため、当病院で腎臓のエコー検査を行っています。

 当病院では、ウィルス患者の臓器に後遺症の疑いがある場合、エコー検査で異常がない場合でも、必ずCTか MRIの検査を行った上で対処することになっています。


 更にこの患者は、腎臓のエコー検査で石が発見されています。

 その場合、胆嚢の結石も疑い、胆嚢や膵臓といったエコーでは明瞭に見えない臓器については、MRI検査を行うのが基本です。


 それが全く行われていません。」と


 院長は驚き自身の耳を疑い、


 「腎臓のエコーだけで帰したのか!」と大声を出した。


 架電した医者は、「そうです。」と呟いた。


 院長は激怒して大声を張り上げた。


 「この患者は、今、変異株のウィルスに再感染してるんだ!


 今直ぐにERCPなどできるはずがないじゃないか!


 どうするんだ!


 1月27日に膵臓のMRIを撮っていれば、膵臓癌の可能性も疑われ、ERCPもできたはずだ。


 そして…、検査入院しておけば、再感染も防げたはずだ!」と


 架電した医者は、数秒の沈黙後、

 

「仰るとおりです。」と小声で答えた。


 院長は間を置き、深呼吸をして、冷静さを取り戻しこう言った。


 「今更、言っても仕方がない。


 兎に角、この患者を死なせるわけにはいかない。


 それは君もわかるはずだ。


 明日、朝一に今後の措置、治療の優先順位、家族への連絡、本人への癌告知等、


 関係部署の責任者を招集して、対策会議を行う。


 循環器系内科からは、君が出席してくれ。」と


 そして、院長は、


 「因みに、この患者のエコー検査をしたのは誰なんだ?」と聞いた。


 架電した医者は、吐き捨てるようにこう言った。


 「院長!先月逃げて行った、爺さんですよ!」と


 院長は目を瞑り、天を仰ぐように顔を上げ、大きな溜息を一つゆっくりと吐きながら、


「了解」とだけ述べ、受話器をそっと元に戻した後、


 院長は自身のどっくんどっくんと鳴り響く心臓の鼓動を鎮めようと大きく深呼吸をし、覚悟を決めた。


 「これは大変な事になるぞ、こんな不運があるとは、なんとか助けないといけない」と


 何も知らない彼は、

 看護師から「今日はもう遅いのでCT検査の説明は明日行います。お休みなって結構です」と告げられていた。


 彼は、看護師から貰った鎮痛剤を服用し、それから、部屋の電気を消し、ベットに入り、


 そして、枕元にあるスタンド電気を付け、「平原の町」の読みかけ部分に挟み込んだ栞を抜き取り、待望のラストシーンを読み始めた。


 まさか、ウィルスと癌が結託し、神の偉大なる摂理に従い、着々とその計画を遂行しているとは知らずに…。

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