第9話 出:解いた手

 

 タイムカードを付けるようになって半月。だからといって、急に私の人生がバラ色になったわけではなかった。あの卑屈な私が顔を覗かせることはしょっちゅうで、そういう時は素直に退勤時刻を記入して、湖の底に落ちていくように静かに一日の終わりを迎える。


 ただ、もう1人の私が後ろから呼び止めても、そこまで戻る必要はないのだと気づいた。前進か後退か… 今までその二項対立でしかなかった私の生き方に「立ち止まって休む」という選択肢が増えた。


 さながら人生のポートフォリオ。形ないものに対する漠然とした不安が、タイムカードに記すことで少しずつ和らいでいった。


 宮野さんに会いたい。貴方がくれたタイムカードが、私の心を存外救ってくれたと伝えたい。貴方がいるこの場所で、もう少し頑張ってみることにしたのだと話したい。


 その機会は突然訪れた。


 退勤後スマホを忘れオフィスに戻ると、そこには一人イスに腰掛ける宮野さんがいた。手にはレモンサワーの缶が握られている。私と目が合い、「あっ…」と彼の表情が強張る。高鳴った鼓動がサーッと引くのが分かった。居心地の悪そうな彼を見て、舞い上がっていたのは私一人だけなのだと気付かされる。あの夜私は、彼に見放されていたのかもしれない。


 しかし、嫌われていようがいまいが、受けた施しのお礼はすべきである。買っておいたお礼の品は今も私のデスクの引き出しに眠っている。スマホをしまい、件のコーヒーとお菓子のセットが入った紙袋を取り出して彼に差し出す。


 「お疲れ様です。あの、先日は本当にありがとうございました。これ、つまらないものですが良かったらどうぞ。」


 「え!あ、そんな… 俺がしたくてやった事だから全然良いのに。けど折角なので頂きますね。わざわざありがとう。」


 訪れる沈黙… 私から切り出す。


 「タイムカード…」


 「え?」


 「あの日以来、ちゃんと付けてます。最初は慣れなかったけど、今はもう、大分生きるハードルが下がったというか…


 ずっと下手な息継ぎをしながら、溺れるみたいに生きていました。でも今は、海の底につま先がついた気分です。きっと私、幸せなんだと思います。」


 再びの沈黙… 2度目は耐えられなかった。


 「…本当にありがとうございました。お先に失礼します。お疲れ様です。」


 足早にオフィスを去ろうとすると、宮野さんがガタッと音を立てて立ち上がる。


 「痛っ!!… あ、あの!俺ももう帰るとこだから… よかったら一緒に帰りませんか?」


 どこまで貴方に甘えて良いのだろうか、引き返すなら今ではないのか。当初の意見交換という目的はきっともう果たせているし、感謝の意も伝えることができた。全部全部頭では分かったいた。だけれど私の頭と身体は仲が悪いみたいだった。


 「…はい、喜んで。」


 自然と笑顔になっていた。平静を装うなんて選択肢はなかった。


 ごめんね、今日は繋いであげられない。


 心の中で袖を引っ張る彼女の手を振り解いた。

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