第4話 退:苦しみぬいて死ねばいいのに

 最近褪せていた世界の色が、少し戻ってきたような気がする。隣のアパートに椿が植えられているのを初めて知った。あの艶やかな紅に、どうして今まで気がつかなかったのだろう。飛行機雲に目がいったのは、いつもより少し上を向いて歩いていたからかもしれない。


 期待してはいけない。


 少し前までの私が袖を引っ張る。どうせ辞める会社の、どうせ今後会えなくなる人の、どうせすぐに忘れられてしまう時間の、何が惜しいというのか。彼女を責めてはいけない、彼女は私の防衛本能なのだから。誰かに深く傷つけられる前に、自分で小さな傷を作っておく。他人を妬み憎むより、卑屈な自分を嫌うのだ。だって自分自身のことは、心の底から嫌いにはなれないでしょう?


 心の中で、まだ袖を引っ張っている彼女の手を握る。これでいい。これがいい。カメラの設定をいじくるように、世界の彩度を元に戻した。



 私の選択は正しかった。急に呼び出された会議室へ入ると、不機嫌そうな顔の部長と気まずそうに目を合わさない上司がいた。どうやら大事な会議で使われる資料にミスがあったという。当初それは私に割り当てられた仕事であったが「引き継ぎ業務もあるし、やっておいてあげるよ」と、他でもないそこでソワソワしている上司の佐々木さんが申し出たのだ。


 しかし2人の話を聞く限り、そんなやり取りは影も形もなく、資料作成は私が受けた仕事であり、もちろんミスは私がやった事になっていた。


 「辞めるからって適当にやられちゃ困るよ。」


 「部長、本当に申し訳ございませんでした。任せても問題ないと信頼してのことでしたが、引き継ぎ業務に随分気を取られていたようで。私の采配ミスでもあります。加賀には私からも改めて話をしますので…」


 「くれぐれも頼むよ。やり直しは彼女にやらせなさい。最終チェックは佐々木くんが責任を持ってやるように。」


 呼び出したのはミスが起こった経緯の確認などではなく、終始私への断罪であった。もちろん反論したかった。しかし口頭でのやり取りで、担当が変わった証拠など何もなかった。どうせ辞めるからといって言いたいことを言える人間ではないことを、私が一番理解していた。


 「何か言う事があるだろう。」


 「………、大変申し訳ございませんでした。」


 苦しみぬいて死ねばいいのに。頭を下げながら願った。



 信じられない事に、佐々木の奴は謝りもせず、部長の指示通り私1人にやり直し作業をさせた。私が反論をしないものだから、このまま嘘を真にできると考えたのだろうか。「急ぎの資料だからね。明日最終チェックをするから、今日中に終わらせておいて」と、目を合わせる勇気は無いようで、逃げるように言って帰った。お陰で真っ暗なオフィスに私だけの夜の出来上がりだ。


 孫の代まで呪われろ。


 ああ、他人を憎みたくはないと思った私は死んだのか。いいや、あいつらに殺されたのだ、私は確かに殺された。せっかく予防線を張っておいたのに、どんどんどんどん魂が汚れていく。強めの洗剤が必要だ、急ぎで洗う必要がある。


 「うそ… 加賀さん、なんでこんな時間までいるの?」

 

 便利な世の中だ。お急ぎ便で柔軟剤入り洗剤が届いた。

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