猫又の息子

黒田 由美

第1話

真鍋悠也は今日も気ままに散歩を楽しんでいた。高校は昨日から夏休み。もっとも普段からサボりがちなので夏休みだろうがあまり関係はない。高校を卒業したら父親と同じフリーランスのコンピュータ・プログラマになるつもりなので、授業は割とどうでもいいと思っていた。

フリーランス。

そう、それが大切。そして、フリーダム。自由に生きるため。悠也はずっと自由な生き方を探し続けている。

アスファルトとコンクリートで固められた都心はヒートアイランド現象でクソ暑かったが、都市部から遠く離れた山間やまあいの農道は、森の中を抜けて吹いてくる風が適度に涼しくて気持ちがいい。時々道から逸れて雑草が生い茂る中にわざと突っ込んでみる。踏まれて折れた青草の匂いが夏っぽくていい。悠也は深呼吸して夏の匂いを楽しんだ。

今日の散歩は東京からなんとなく南西方面。気の向くまま瀬戸内海も超えてみた。悠也の跳躍はひと蹴りで約100里。およそ400km。瀬戸内海さえひとっ跳びの跳躍力をもつ彼の足だが、それは意外と小さくて可愛らしい。悠也は前足の肉球で若草の柔らかさを楽しみながら飛び跳ねた。全身を覆うツヤツヤとした真っ黒い毛。尾の先は小さく二股に分かれている。

悠也の正体は猫又だった。


悠也の父、徹は普通の人間だった。

徹は若い頃、キャバクラで出会った真緒と名乗る女と同棲していた。真緒が一方的に徹のもとに転がり込んできたのだが、楽天的な性格の徹はあまり深く考えずにずるずる真緒と暮らすようになった。ところがある日、真緒は何も言わずにふいっと出て行ってしまい、半年後、なんと、赤ん坊を抱いて戻ってきた。そして、呆気にとられる徹を尻目に、一方的に赤ん坊を押し付けると今度は完全に姿を消した。徹は楽天的な性格だったので、赤ん坊に悠也と名前を付け、ずるずると親子の生活をスタートさせたのである。

悠也が自分の正体に気が付いたのは小学校に上がるか上がらないかくらいの時だった。別に何かきっかけがあったわけではない。自然に自分が猫又であることに気が付き、猫の姿に変化するやり方を覚えたのだった。真緒に会ったことは一度もなかったが、この女が猫又だったことは完全に理解した。そして、自分の正体を人間に悟られてはいけないことも理解し、徹にも気づかれぬよう、密かに猫又としての暮らしを楽しむようになった。


跳んだり跳ねたり楽しみながら暫く緑の中を歩いていると、村はずれの野原にいる不思議な老人が目に留まった。60歳前後といったところか。GUCCIの柄入りTシャツにベージュのイージーパンツを穿いて、長い白髪を後ろでひとつにまとめ、両足を投げ出して地面にぺったりと座っていた。投げ出した両足の間には一本の細い棒きれが地面に垂直に突き刺してある。棒切れの先端はちょうどその老人の目の高さで、老人はとても穏やかな表情でじっとその先端を見つめていた。

悠也は夏草の中に体を伏せ、息をひそめて老人を観察した。

周りにはトンボがたくさん飛んでいた。そのうち一匹が棒切れの先端にとまり、無防備に翅を休めた。その瞬間、老人はバっと手を上げ、トンボの翅を指で挟みこむように捕まえてしまった。老人は穏やかな表情のままトンボをめつすがめつすると、やがてすぐに手を放してそれを逃がした。そしてまたじっと棒切れの先端を見つめ始めた。

悠也はそれに見入ってしまった。老人の穏やかな表情がとても魅力的に思えたのだ。

捕まえたトンボが10匹を数えたころ、悠也は人間の姿に戻って老人に近づいた。

近づいては見たものの、どうしていいかわからず黙って老人を見ていると、老人の方から声を掛けてきた。

「ここら辺の人ではないね?どこから来たの?」

「…夏休みなのでバイクで旅行してて…えっと、東京から来ました。」

悠也は咄嗟に嘘をついた。

「トンボってバカだと思わない?仲間が捕まってる危険な棒なのに、何度もとまりに来るんだよ。…いや、人間もおんなじか。」

独り言のようにそう言って、老人は小さく楽しそうにクックッと笑った。

「ボクは宮田吾郎。時間があるなら話し相手になってよ。うちへ来てお茶でも飲んでいかない?」

宮田さんは地面に挿してあった棒切れを引き抜くと、よっこらしょと立ち上がった。

「あ、はい。ぜひ。」

宮田さんが拍子を取るように左右に棒切れを振り回しながらのんびりと歩き始めたので、悠也もゆっくりそれについて行った。

村はずれを更に奥に進んでいくと、南斜面の山裾に古びた茅葺かやぶき屋根の小さな民家がポツンと建っていた。その斜面の表層には、ダイダラボッチが太陽の光を浴びて気持ちよさそうに昼寝をしていた。ダイダラボッチは山の守り神で巨人の妖怪である。ダイダラボッチの上にはブナやナラの木が大きく枝を伸ばし、平和で健康的な森が広がっていた。

「めっちゃ気持ちよさそうじゃん。いいなー、ああいうの。理想だよなー。あの安定した森の感じからいって少なくとも500年はあんな感じで寝てんじゃね?」

悠也は心の中でひとりごちた。


気持ちのいい風を感じながら縁側に座って寛いでいると、宮田さんがいい香りのする紅茶を運んできた。

「FAUCHONだけど。紅茶でよかった?」

「あ、紅茶好きです。いただきます。」

悠也は紅茶のブランドなど何も知らなかったが、宮田さんの紅茶はとてもおいしいと思った。縁側から家の中を見ると、中も古民家そのもので、擦り切れた畳の和室だった。いかにも使われていない古びた家具が並ぶ中、シンプルなデザインの黒いパソコンデスクだけが生活の息遣いを感じさせている。

「宮田さんは一人で住んでるんですか?」

「一人はいいよ。自由で。」

宮田さんは紅茶の入ったティーカップから立ち上る湯気を静かに見つめた。

「ここに暮らし始めてから5年くらい経つけどね。ボクも昔は東京にいたんだよ。外資系の金融機関でファンドマネージャーをやっていてね。当時の年収は3000万くらいだったんだけど。10年ほど前、若い愛人がいてね、そのが妻を刺しちゃってね。命に別状はなかったんだけど、結局、妻ともその愛人とも別れた。

仕事の方もね、新しく赴任してきたアメリカ人の上司と反りが合わなくてさ。ある朝いつものように出勤したら、セキュリティがボクのIDカードを受け付けず、入り口が通れなくなってた。解雇だったよ。外資系の解雇ってそんなもんなんだ。」

宮田さんの口調は独り言のようだった。

「それから何回か転職したけど疲れちゃってね。ネットでこの古民家を見つけてさ。タダ同然の家賃でね。ここの生活ってさ、何にもないんだけど自由だけが限りなくあって、それがとてもいいの。もう死ぬまでここにいるつもりなんだ。」

ダイダラボッチの穏やかな寝息が聞こえてくる。のんびりした風景。

宮田さんはのどかに流れる時間に身をゆだねながら他愛もない話を悠也に聞かせて楽しんでいた。会社の話なんかはあまりピンとこなかったが、悠也はただ雰囲気を楽しみながら黙ってそれを聞いた。人はただ悠也に話しかけるだけで癒されるらしい。それは悠也にとっては割といつものことだった。

なぜなら悠也は猫だから。


家に帰ると徹が夕食の冷凍チャーハンをレンジでチンして食べていた。

「おう。お帰り。」

「ただいま。」

悠也は冷凍食品専用の大きな冷凍庫からハンバーグを出し、パックのご飯と一緒に電子レンジに入れた。真鍋家の食事は基本的に冷凍食品である。各自その時食べたいものを冷凍庫から勝手に出してレンジでチンして食べる。徹は放任主義だった。小さい頃の悠也は、よく24時間保育に預けられっぱなしになった。社会に必要なマナーや躾は、全て保育園の先生に教えてもらった。だからと言って徹が悠也のことを嫌いだったとかそういうことではない。悠也が構って欲しければちゃんと構ってくれたし、相談したいことがあればきちんと聞いてくれた。徹がフリーランスでコンピュータ・プログラマの仕事をしているので、裕也は見よう見まねで小学校の頃からプログラムが書けた。わからないことがあれば徹に教えてもらった。聞かなければ何も教えてくれないが、聞けば丁寧に何でも教えてくれる。そして今では、SQL、Perl、Python、Ruby、Scala、Java、C#、C++、Objective-C、HTML、Swift、Unity、MAYA、一通りなんでも使えるようになった。かといって徹は悠也を褒めるでもない。徹は楽天的で、そして、他人にあまり興味がない性格なのだった。どうして真緒が徹と同棲したかったのか、今ならよくわかる。こういう性格だから真緒は徹のことが好きになってしまったのだ。

…猫なので。

そして悠也もまたこの父親のことが好きだった。

…やっぱり猫なので。


ハンバーグを食べ終わると、悠也は自分の部屋に戻ってベッドに横になった。徹はリビングのソファに寝転んでタブレットでマンガを読んでいる。悠也はスマホでゲームをしながらぼんやり宮田さんのことを考えていた。

「明日も遊びに行こうかな…。」


翌日古民家を訪ねると宮田さんはタモ網をもって家を出てくるところだった。

「おや、真鍋君。今日も来たの?これから沢遊びに行くけど一緒に行く?」

「行きます!」

宮田さんは悠也を連れて森の奥の小川まで行くと、裸足になって水の中に入っていった。タモ網を水に沈めてじっとしていると、数匹の小魚が網のそばに寄ってきた。宮田さんは昨日のトンボの時と同じように穏やかな表情で小魚の動きをずっと眺めていた。そのうち、小魚が自分から網の中に入ってきて絡まり、ビチビチと暴れ始めた。宮田さんはタモ網を引き揚げると持ってきたビニール袋に水を入れ、かかった魚をそっちに移した。

「こいつらってさ、水草の陰に隠れる習性があるみたいで、網を沈めると水草と勘違いして中に入ってくるんだよ。…それで、こうやってビニールに入れて近くでよく顔を見るとね、結構可愛いよ。真鍋君もやってみる?」

宮田さんは悠也にタモ網を渡した。悠也はワクワクしながら静かに沢に網を沈めた。小魚が網の周りに寄ってくる。小魚にとびかかりたい衝動を抑えながら、じっと小魚を見つめる。小魚はなかなか網の中に入ってこない。宮田さんがさっき捕まえた魚をちょっと離れたところで水に戻していた。小魚はもうちょっとのところで網に入ってこない。悠也は魚にとびかかりたい衝動と猫に変化したい衝動を必死に抑えながらジリジリして小魚を見つめた。

「おれってマゾ?すごく気持ちいいんだけど。」

面白い。どうにもできないもどかしさがとても面白い。悠也は新しい自分を発見した気がして昂揚していた。

「殺気出し過ぎ!」

宮田さんは楽しそうに笑っていた。


昼近くなって宮田さんが帰り支度を始めた。

「お昼食べてく?冷凍のピザだけど。」

なんだ、宮田さんのところもうちとおんなじだ。悠也はなんとなく少しほっとした。


次の日も、そのまた次の日も、悠也は宮田さんのところに遊びに行った。悠也はここが気に入ってしまった。宮田さんに紅茶をご馳走になりながら、思いついた自分のプランをつい口にしていた。

「おれ、高校を卒業したらフリーランスのコンピュータ・プログラマになろうと思ってるんです。コンピュータがあればどこでもできるので、ここらに部屋を借りて営業しようかと…。」

「そう?じゃ、ルームシェアする?部屋、空いてるからタダで使っていいよ?ボクも君といると楽しいから。」

宮田さんは穏やかに笑いながらそう言った。悠也も楽しくなって笑い返した。

「やった!自由なおれの生き方を見つけた!」

悠也は高校卒業後の新しい生活を想像して心の底からウキウキした。


その晩、悠也がベッドに寝転がってスマホでゲームをしていると、徹がブラっと部屋に入ってきた。

「悠也いる?」

「いるよ。」

「外注頼める?」

「頼める頼める!!」

高校に入ってから、徹は時々悠也にプログラム作成の手伝いを頼むようになった。徹はそれを外注と呼んでいた。言ってみれば徹の孫請け仕事ということだが、徹はビジネスのけじめをつける男だったので、毎月のお小遣いとは別に、作業に見合った手数料をきちんと悠也に支払っていた。悠也は今まで、自分の将来の姿として、漠然とこれの延長をイメージしていたのである。ただし、それまで漠然としたものだったが、今では明確なビジョンになっていた。今回の外注は張り切った。


外注作業は三日かかった。モチベーションも高かったので、外出もせず、ずっと作業に集中していた。デバッグを済ませ、成果物を徹に納品すると、悠也は一息ついて三日ぶりにテレビをつけた。ニュースの時間だった。画面には暴風雨で氾濫する九州地方の河川の様子が映っている。

「非常に勢力の強い大型の台風13号は現在四国南部に上陸し、各地に土砂災害などの被害が相次いでいます…。」

「え?」

東京は全然晴れてんぞ??

「大丈夫…だろ。あそこは近くに大きな河川もないし…。」

悠也は冷蔵庫からコーラを出してきてポテトチップの袋を破いた。ポテトチップを二、三枚まとめて口に放り込み前歯でパリパリ噛みながら何度も繰り返し映される川の氾濫画像に見入っていた。宮田さんと遊んだ森のことがどうにも気になって仕方がない。あの小川。小魚たちは無事か?流されたりしてないだろうな…。ニュースを見るうちにそわそわしてきて、ちょっとだけ見に行ってこようと思い始めた。ちょっと確認しに行くだけだ。悠也の足なら1時間もあれば余裕で行って帰って来られる。

悠也はせかせかと外に出ると物陰で黒猫に変化して思い切り跳躍した。


物凄い暴風雨だった。小さな猫の姿の悠也は吹き飛ばされそうになった。雨が強くてまともに目を開けていられない。大ジャンプは無理そうなのでなるべく地表近くを疾走した。宮田さんの古民家が見えてきたその時、悠也は古民家の裏手の南斜面の異変に気が付いた。

「ヤバいっ!ダイダラボッチが目を覚ます!!」

500年は寝ていたであろう南斜面のダイダラボッチが目を覚ましかけていた。地面が薄気味悪く振動している。南斜面は不気味に唸りを上げ始めた。

「ヤバい!ヤバい!ヤバい!」

悠也が跳躍しようとするより先に、ダイダラボッチの巨体が南斜面から立ち上がっていた。支えを失った地表は一気に山津波を起こし、土砂は轟音とともに押し寄せて古民家を圧し潰した。

「ああああああああ!」

横殴りの雨の中、悠也は慌てて山裾に駆け寄り、古民家があったあたりの瓦礫の周りを右へ行ったり左へ回ったり、猫の姿のまま駆けずり回った。

「宮田さん!宮田さん!宮田さ…!!」

見ると、古民家の梁などの構造物が土砂を遮って狭い隙間が開いているところがあった。しかもその隙間からかすかに宮田さんの匂いがする。悠也は慌てて中を覗き込んだ。

「宮田さん!!」

狭い隙間の中で梁に守られ、宮田さんはまだ生きていた。脳震盪を起こしたのか、意識はないようだった。隙間の中は人間が二人入れるほどの空間はない。悠也は猫のまま隙間にもぐりこんだ。

「宮田さん!宮田さん!」

呼びかけても意識が戻らない。悠也は思い切り宮田さんの手を咬んだ。

「う…う…」

「宮田さん!宮田さん!」

宮田さんが朦朧と手足を動かし始めた。

「宮田さん!早くここを出て!宮田さん!宮田…あっ!!」

闇雲にもがく宮田さんの手が悠也を隙間の奥へと押し込んだ。宮田さんは外に見える光に向かって這い出そうと足をばたつかせ、悠也を更に奥へと蹴りこんでしまった。悠也を蹴り込んだ勢いで宮田さんの体は前へ進み、土砂の泥でずりっと滑って隙間の外へと吐き出された。

次の瞬間。巨大な土石流が全てをなぎ倒しながら襲いかかり、隙間は梁ごと圧し潰されてしまった。


宮田さんは奇跡的に助かった。

台風13号は日本列島に大きな爪痕を残しながら北上し、温帯低気圧に変わって消滅した。

台風が去った後、土砂崩れの現場に整地作業が入った。ショベルカーが瓦礫を掘り起こすと、ボロきれのように潰れた黒猫の死骸が土砂の中に埋まっていた。黒猫の死骸は、産廃業者が廃材と一緒に処分場に廃棄した。


そして、真鍋悠也は宮田吾郎の前に二度と姿を現すことはなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

猫又の息子 黒田 由美 @pandarusp

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ