第16話 PM 9:45

 改めて真正面と向かい合えば、田所の狭い部屋に妙な緊張感は張り詰める。だからして居心地のいい場所を探ると百々は、正座した体をまたもや揺すっていた。

「みらい」

 などと田所が下の名前を呼ぶときは経験上もう、とんでもない事が起きる前触れと決まっている。たとえばそれは「ブライトシート」で酔っ払い、公然の場で大胆不敵と唇を奪われた時などだ。

「は……い」

 無論、部屋は私的な場所だが、身構えればおのずと返事もぎこちなくならざるを得ない。

「いまさ、らだけど」

 倍増させて田所が息継ぎぐ場所も不自然を極める。

「改めて、ちゃんと言わせてください」

 かと思えば藪から棒の敬語に百々の肩はがくり、落ちていた。

「な、はい……」

 だが、そうして続く沈黙こそ長い。埋めて部屋中の時計がチクタク、これみよがしと時を刻み、風切り通りを駆けてゆくトラックのエンジン音が窓をすり抜け流れ込み、そこへおぼろげと救急車もまたサイレンを重ねる。ただなかでタイミングを探って開く口元をうごめかせる田所の力の入りようはゴゴゴ、と丸めた背から音が聞こえてきそうなほどで、いや事実、音は確かにゴゴゴと鳴って近づいていた。

「……な、に?」

 落ち着きのなかった体を硬直させて百々は辺りを探る。

「お?」

 田所も眉を跳ね上げたそれは次の瞬間となる。

 

 きゃあ、という悲鳴はバーバラのもので、とたん木造の家は左右に上下に揺すられる。家具と言う家具が、食器棚が、跳ねてたちまち音を立てた。キッチンで火を使っていなかったことは幸いで、ランウェイでのことが嘘のようにレフは食卓を押しやり駆け出す。立ち上がると今にも外へ駆け出しそうなバーバラを抱き止め、その場に屈み込んだ。

「地震よ、アナタっ」

 七階の揺れはさらに大きく、飲みかけのビールが倒れて中身がテーブルへ広がってゆく。口走って様子をうかがうジルはずいぶん慣れたもので、やがて子供部屋から目を覚ました子供らの泣き声は聞こえていた。ソファーを抜け出したハートの足取りは揺すられるまま千鳥足だ。壁伝いに子供らの元へ急ぐ。

 前触れにいっとき誰もが動きを止めた店内もまた、足元から突き上げるような揺れに容赦なく襲われていた。建物の軋む音が、地響きが、何度経験したところで慣れることなく全身を襲う。たまらず外へ飛び出してゆく客がいくらか。素早くテーブルの下へ潜り込んだ客もいる。調理中だった店員らも例外ではなかったが、なかなかマニュアルは行き届いているようだ。客の安全確保を最優先と頭上注意の声掛けを始めていた。

「大きい」 

 呟いた彼女も提げていたカバンを体へ引き寄せる。緊張した面持ちで天井を見上げたその目を店内へ向けなおす。

「窓際から離れて、頭をかばってくださいっ」

 迷わず声を張るのは彼女も店の対応マニュアルに触れているからか。

 その体へ咄嗟にストラヴィンスキーも手を回す。

「僕らもコッチへ」

 なら揺れは誰もの心拍をイタズラに跳ね上げたことで満足したのか、何ら悪びれもなくやがて小さくおさまってゆく。

「び……、びっくりしたぁ」

 もう来ないだろうな、と田所のシャツを掴んで百々は辺りを見回していた。そんな田所は崩れて来た本とDVDの中に、ついた片手を埋めるていたりする。

「だから俺たちさ、早めに結婚しようぜ」

 言っていた。

「ホント、そうだね」

 いや、それでいいのか。

 返して百々は思い出したように携帯電話を確かめる。

「タドコロっ、震度四強だってっ」

 声を高くしたところで、それがプロポーズだと気づくのは案の定、まだいくらか先といういつもの流れだ。


 ひと悶着を経て、注文の品を受け取り表へ出たなら街は、停電もしていなければ火の手が上がることもなく、思いがけぬ不意打ちにわずか浮き足立つ程度とざわめくほどにいつも通りを装っていた。唯一、サイレンを鳴らし破竹の勢いで走り去る救急車を傍らに見送ったが、大事でないことを願うほかできることはありそうもない。

「駅までなら送りますよ」

 こんな後だ。ストラヴィンスキーは彼女へ投げかける。遠慮がちにありがとうございます、と言った彼女は近所から徒歩で通っていたのだ、と教えて互いは救急車の後を追うように国道沿いを彼女の示す方角へ並んで歩いた。

「あ、やっぱり」

 他愛もない会話を続けるコツは「距離」を保つことだ。取り続けた後の、それは彼女の声だった。何かと思えば視線はストラヴィンスキーの手元へ落とされており、続けて彼女はためらうことなく確かめる。

「ファッション関係のお仕事、されてるんですか」

「え」

 根拠が掴めなければこうも言ってみせていた。

「だって爪、あたしより奇麗にされてますから。普通のお勤めじゃ、出来ないですよね」

「ああ」

 昨日、急ぎほどこされたネイルだ。目立たぬベージュ系の色合いとはいえ指によっては黒とのツートンに塗り分けられると、確かに普通のお勤めらしからぬ具合に仕上がっていた。

「いや、そういうわけじゃあ……」

「好きな事、お仕事にされてるって、うらやましいです」

 さてどう言い訳しようか。迷ううちにも頑なと声を張る彼女に遮られる。その視線は遠く彼方をとらえてもいた。

「お店へ来られるときもなんだかウキウキされてるみたいで、いいなって実は思ってたんです」

 明かしてそこからちらり、ストラヴィンスキーを盗み見る。本音だという証拠に少しはにかみ笑ってみせた。だとして言わずにおれないのは、それは店のチーズバーガーがとびぬけて美味いせいでウキウキは止まず、だがこの仕事が好きらしいことは今しがた確かに確認しなおした事実であることに間違いはないだろう。

「店で何かあったんですか」

 彼女こそそんな風には見えなかったが想像していた。なら彼女もそれはない、と笑ってまた遠く前へ視線を投げる。

「来年、大学、出るんですけれど、就職のことで親とモメてて」

 そこで赤かった信号は青へと変わっていた。だからして緩めぬ歩調で彼女はアスファルトへ描かれたストライプをまっすぐに渡ってゆく。

「あたし、消防官を目指したいんです。現場に出たいって。でも女には向かない仕事だって。ウチの父親がもう大反対。姉たちだって好きな道に進んでるんですよ。そう育ててきたのも自分のクセに。イザってときはあべこべなこと、言うんです」

「あはは。そりゃ大変だ」

 笑ってみるが一般論としてはそうだろう。たとえ消火活動意外、消防官には救急、救助があろうとも、女性にとって体力的に厳しい職種であるうえ、向かう現場には事件性を伴うものもある。そもそもが危険だ。あまりもろ手を挙げてお勧めできる職場ではない。

「お客さんも同じ、ってわけなんですね」

 笑いように睨まれて、ストラヴィンスキーは外田と言います、とすまし顔でとりつくろって返した。なら彼女は、あぁあ、と声を大きくして空を仰ぐ。

「不自由をゆるしてくれる、自由はないのかなあっ」

 そのあとのため息は聞えたのではなく見えた、ものだ。それきり黙り込んだ彼女の瞳から吐き出されると、しぼんだはずも吸い込む光で再び凛と行く先を見据えてみせる。それはどれほど真正面から顔を合わせようとカウンター越しでは見ることのできなかった眼差しで、証拠にそのとき街は確かにブラックアウトしていた。視力のせいでもなんでもない。眼差しに気づいた心が見失わせていた。

「あ、出てる」

 声に、慌てて目を瞬かせる。ストラヴィンスキーは彼女の指さす方向へ目をやっていた。国道沿いに並ぶビルの先端だ。蒼白い月はちょうどと姿を現していた。

 ああ、と思えば、月が綺麗ですね、言いかける。

 そんな自分に気づいたところで言えず言葉を飲み込んでいた。

「綺麗ですね」

 代りと投げた彼女に知る由などない。ただカバンを抱えなおせば揺れる髪が空を撫でていた。

「ええ」

 返した脳裏で文豪の名文句は回り続け、今さら参ったな、とストラヴィンスキーは思ってみる。それはつまりそう遠くないいつか、「アイラブユー」を自身で訳しなおさねばならないだろうことを感じ取ったからで、同時に同盟を結ぶハナへ何と弁解すれば裏切者の非難を受けずに済むのか考えた。抜け道などありはしないのだから、甘んじて受ける日々に早くも苦笑いを浮かべてみる。

 この角の向こうなんです。

 礼を言う彼女と共に脇道へ折れた。

 幾らも行った平屋の門扉が自宅らしく、前にはウインカーを点滅させたタクシーもまた一台、停まっている。折り曲げていた体を伸ばしてスーツ姿の男性が、ちょうどと降りているところだった。

「あ、おとうさん。お帰りなさい」

 目にして伸び上がった彼女が手を挙げたなら、ここで、とストラヴィンスキーは足を止める。男性へは会釈で、きびすを返すつもりでいた。

「今日は早かったのね」

 だが言う彼女の傍らで頭を下げかけたきり、それどころではなくなる。よくよく見なおした男性の姿に、絶句するほかなくなっていた。だからこそおざりとしておけなくなったのは、今さらこの一点となる。

「マホさん、って名札のY、マホっていうのはもしや……」

「ごめんなさい。まだ言ってなかったかも。わたし、百合草真帆です」

 そう、だから間違いなくチーフ百合草はそこに立っていた。

 ストラヴィンスキーの頬はといえば、盛大に引きつり強張る。

 なにしろこれはもうハナどころではなさそうで、お父さんは強敵だった。いや、これもまた不自由を許す自由なのかもしれず、危険を省みぬ難関への挑戦に違いなかった。そしてその挑戦を阻む者はといえば今のところ己のみで、状況に臆し、立場を鑑み、大人しく退くのか、と問うたところで心こそ自由を求める。つまるところ己が手で、最後は自由にしてやるほかない様子だった。挑める平等を、自身が自身へ与えてやるしかなかった。

 だからして踏み出し横切る人生という横断歩道の先にあるのはおそらく、不思議と驚きといくらかのスリルにに違いなく、矛盾と、果ての感動すら渡り切った向こうで待っているのかもしれなかった。

 ストラヴィンスキーも今日、その一ページを己が人生に刻み込む。

 顔を合わせてしまったのだ。このまま立ち去り変に勘繰られてしまえば後が厄介でならない。だとして百合草は家族に役職も業務も、その一切を間違いなく伏せているはずで、互いが他人のフリを決め込むのか、架空の上司と部下を演ずるのかは出たとこ勝負を極めるほかなくなる。

 それでも許し与えて意を決する。

「ど、どうも。はじめまして、こんばんハッ。地震がありましたので、ここまでお送りさせていただきましたッ」

 


「SO WHAT?!  3rd. interlude」完

「SO WHAT?!」 

終劇

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SO WHAT?! 3rd. interlude N.river @nriver2

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