第 9話 PM 3:20
「百々さん、劇場を出ました」
もはや彼女は予備人員である。実際、繰り返される自宅と職場の往復に居場所の特定は容易で、状況説明もその半分が省けるのだから遜色なかった。のみならず今回、二十代の女性とくれば他に最速、都合できる人員は見当たらない。名前がレフの口から出たとき退ける理由はどこにもなかった。保管庫から持ち出した端末画面を立ち上げながら曽我は、この時のために保存してあったのではないだかろうか、とさえ考える。
「到着は?」
「三十分後にはそっちに着く」
インカムのマイク越し、確かめ返された乙部の声に時計へもまた視線を投げた。
「遅くなりました」
唐突な声はオペレータのものだ。非番のところへ緊急招集をかけたのである。だからして私服のうえに買い物袋も二つ、振り回されて慌ただしい音を立てていた。もろとも定位置に腰掛けたオペレーターはそんな袋を足元へ押し込むなり装着するインカムで、自身のスイッチを切り替えにかかる。
「人身事故に引っかかって。すみません」
「気にしないで。開場に間に合えば十分よ」
これで夜勤明けの一人と、交代に現れた一人を加えた三人態勢は整うこととなり、とはいえかつてに比べれば半数以下と貧弱だったが、溜まりつつあった事務処理スピードも格段と上がる。
なら見えていたかのようにインカムからストラヴィンスキーの声は漏れ出していた。
「外田です。ジェンキングさんの動画に書き込まれているコメントチェックについてなんですが、アンチコメント最優先願えますか。ジェンキングさん、やたら今回はイタズラだと言い張るんですけれど、根拠にどうも日頃から似たようなコメントが書き込まれているせいでその認識が強いようなので」
「進めてる。了解。今、一人、駆けつけてくれたところだから、重点的に当たってもらうわ」
返して私服のオペレーターへもアイコンタクトを送れば、うなずき返したオペレーターの手際こそよかった。かと思えば夜勤明けのオペレータから報告は入る。
「ショーの進行表、配信準備整いました」
「一斉配信。こっちにも飛ばしてくれる?」
「了解です」
まもなく曽我の手元の携帯電話へアイコンは浮かび上がると、指で弾いてざっと中へ目を通してゆく。
「あった、コレ」
聞えてマイクから顔を上げていた。
先を行っていたいたジェンキングはひしめくように衣装が掛けられたハンガーラックのひとところで、足を止めている。そうして色が洪水、の中へ手を突っ込むと、アースカラーがナチュラルな一着と、黒をメインにしたマントのような一着を掴み出してみせた。
「コレとコレ、彼に着てもらうから変更、お願いね」
ハッシーへ手渡す仕草はさながら、美術品を買い求めたセレブだ。いちいち芝居がかって見える様に、ほう、と眺めてストラヴィンスキーは、再び延々と通路に並ぶハンガーラックの列をなぞって歩き始めたジェンキングの後についた。
「ショーは七十五分。BGMに合わせてノンストップで進みます」
ついてきている事を確かめるようにちらり、振り返ったジェンキングがおもむろに話し出す。
「男女合わせて二十人が三グループ。それぞれ二回、ステージへ上がってもらいます。フィナーレはボクを先頭にみんなでランウェイを歩いてお客様へご挨拶を」
あいだも狭い通路ですれ違うスタッフやモデルたちへ指示を出し、愛想を振り撒けば、紡がれる話はまるで別の誰かから聞かされているかのような違和感に満ちた。
「今の二着はスタートから十五分と、四十五分のお衣装です。ステージへ上がるタイミングはタイムキーパーが誘導するので、モデルは間に合うように着替えて袖で待機して下されば十分。トチることだけは絶対ないように」
だとすればメインは警備にもかかわらず、なかなか片手間にあしらえそうもないぞ、とストラヴィンスキーは思ってみる。
「メイクと着替えが終わったら、立ち位置とウォーキングをチェックをさせていただきますから」
「ウオ、ウォーキング、ですか」
「大したことはないですよ。テーマは自分らしくだから、みんなにも好きなように歩いてって言っています。ただあんまりひどいとボクの服が泣くので、一応は」
いや、それがなにより高いハードルだろうと思えてならない。
「で、これがフィナーレのお衣装」
更衣室のドアが見え始めた辺りだ。ハンガーラックからひとたびジェンキングは一着の衣装を引き抜いてみせた。一帯に並ぶすべてがそうであるように、衣装は上から下までが白だ。生地には紙のような加工がほどこされており、ちりめんジワが唯一の柄と刻み込まれている。眺めたジェンキングはハンガーごとストラヴィンスキーへあてがい、上から下までを厳しい面持ちで見回したその後、それもまたハッシーへ貴族の買い物よろしくリレーしてみせた。
「みんな白でデザイン違いなので万が一にも間違えないよう、自分の衣装はしっかり覚えておいてください」
次いで、眼鏡は外してもらえますよね、と確かめる。
「必要なら。コンタクトは常備してます」
「準備終わったら声かけて」
聞き遂げ満足いったか間髪入れず、ジェンキングはハッシーへ投げていた。かと思えば衣装に身を包み更衣室から出てきたモデルたちの仕上がりに、感動のお手ふりを浴びせている。仕草が滞ることはなく、優雅で威厳と愛嬌に満ちたキングは確かにショーの中心に君臨していた。
「本当に女の子、来て下さるんですよね」
まだ笑みの残る面持ちはシームレスとストラヴィンスキーへも向けられる。
「ええ、それは間違いなく」
百々がオフィスへ向かっていることは今しがた聞かされたところで、まあ、彼女ならやってくれるだろうという確信だけは妙なことに、ストラヴィンスキーの胸にあった。
「よければ先に本人のサイズ、お知らせしておきましょうか」
「いただけると助かります」
それもまたアイコンタクトひとつでハッシーへ一任してみせる。同時に、じゃあ、という挨拶もすませたようだ。かまぼこのようろな靴の踵を返してジェンキングは更衣室前から離れていった。後ろ姿は実に落ち着いたものだ。それがカリスマだというなら怪文書を送り付けられたこの状況で図太い以上、ストラヴィンスキーは傲慢さを感じてみる。
ハッシーが、更衣室の光り輝くピットで回転させた椅子を前に待っていた。
ストラヴィンスキーは向けた手のひらで断りを入れ、ひとまずオフィスへ百々の身体データをショースタッフへ提供してもらうよう依頼する。知らぬ間に個人情報がやり取りされていることを知ったならまた百々が怒るだろうな、と想像して、今頃、「20世紀CINEMA」から車で移動しているだろう様を思い浮かべる。だがどういうわけだか脳内に浮かんだ車両がまるで別のカタチをしていたなら、午前中ばったり出くわした懐かしい顔があったことに思い当っていた。
それは助手席から不安げな表情をこちらへ向けている。
そのさい覚えたナンバーは、まだ記憶にしっかり残されていた。
だからといって今でなくともいいことは分かっている。
しかしどうも落ち着かない。
なら手を回しておくのは今後に集中するためで、引き続き己が携帯電話を取り出しストラヴィンスキーはオフィス近郊の署へつなげていた。
「あ、公安の外田ですが。すいません突然。私用なんですが渡会さん今、お手すきでしょうか。いえ、ちょっと調べてもらいたい車両ナンバーがありまして。ええ……」
というわけで百々は曽我から端末を渡されると覆面パトカーに引き続き、警察病院の屋上からヘリに乗り換える。
飛びながら呪ったのは己が貧乏であり、ゆえにノーと言える唯一のタイミングを逃してしまったことだった。
なにしろ端末を前に曽我が繰り出したのは事態への釈明でなく選択で、その一つはこれからに責務はなく、ただ頭数を合わせるためだけに過ぎない、ということである。残るひとつはといえば手当は出る、だった。
休館に入った「20世紀CINEMA」の新装開店オープンまで、半月あまりまだ時間はかかる。時給で働く百々にとってそれは死活問題にほかならず、臨時収入の囁きは実に大きく喉から手がでるほど甘かった。
おかげで心は揺れに揺れる。
本当に頭数合わせだけなんですか。
それ以上、詳しいことは百々が承諾しない限り教えられない、という曽我は駆け引きを知っていた。ままに百々へとうなずき返す眼差しは力強く、魔術的だ。おかげで操られると視点は定まったのかもしれず、百々は差し出された端末を札束よろしく握りしめていた。
事実に気づき声を上げたのは、もちろんそれは心の叫びというやつだが、誰より百々本人だ。選択を間違えた、と思えどもはや後悔先に立たず。上空五百メートルの百々に途中下車こそ不可能というものだった。
「携帯番号、変えようかな……」
冗談のような本気を吐いてみる。だが彼なら、新しい番号もすぐに突き止めてしまうだろう。
ともかく端末をポケットへ落とす。
すでになれた一連の動作だ。百々はイヤホンを耳へねじ込んだ。
「マイクテスト。百々です」
「良好よ。ご協力に感謝します。早速、状況を説明するわ」
傾きかけた日に空はいくらか飴色と染まり始めている。
「うえっ。ファッションショーって、ジェンキングさんのGKアップデートコレクションなんですかぁっ?」
伸び上がれば声はそんな空に高らかと響いていた。
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