第 3話 AM 11:35
「まだ早いんじゃないのぉ」
丸テーブルのマグを片付け始めたハートこと、バジル・ハートに落ち着きはない。振り返ってハナも冷やかし半分、投げかける。
「見てみろ、もう三十分を切った。今日は自転車を教える約束があるからな。遅れると本人にもジルにもどやされる。ダブルパンチでかなわん」
「SO WHAT」対応部署、通称「CCT」オフィス内のオペレーティングルームは節電中だ。間引かれた蛍光灯の下、かつては最大六人が詰めていたオペレーターも一人きりと同様である。全てはコト足りる業務量のせいで、昨晩から続いた正午までのシフトもハナとハートにオペレーターの、実質三人態勢となっていた。
「あー、やだやだ、その幸せ自慢。グッドファーザー賞でも謹んで差し上げましょうか」
だからして空き放題の座席の中、今日もハナは好きなデスクを占領すると、AIが拾い上げてきたワードのチェックにいそしんでいる。だがどれほど作業をこなそうと、残念ながら警戒すべきものは見いだせず、その傍らへデジタル印を押すだけで仕事は今日も終わろうとしていた。
「その前にグッドハズバンド賞こそもらわんと割が合わん。いいか、すぐ戻る。ストラヴィンスキーとオツが交代に降りて来たなら待たせておけ」
などと指示して指差すハートの手に握られているのものこそ父の日のプレゼントとクレヨン画の似顔絵がバスキアさながらプリントされたマグカップなら、やっていられないとはこのとでしかなくなる。
「わあ、加えてごちそうさまでした。ってこれ、四人でしなきゃならないほどの引継ぎ内容? 大丈夫、あの二人なら十二時ちょうどに降りて来るから。最近みんなダルダルにたるんでいるんだから」
なおさらハナは身震いし、聞き流してハートはいそいそ、変わらぬタンクトップ姿でトイレ脇の給湯室へと去っていった。
「せめて聞いて行って」
しかしそうも貫く理由がファッションでないことを知ったのは、つい最近のことになる。爆発物対応班での研修時だったらしい。実際はその班を支援するための海外研修だったと言うが、車両底部に仕掛けられた設定での解除演習中、袖口を引っ掛けまさかのタイムロス。処理に失敗したことへの戒めだということだった。
確かに現場であれば取り返しはつかず、見ての通りのマイホームパパだ。家族のためにもそう簡単に吹き飛ばされるわけにはゆかないだろう。
オペレーティングルームのガラス向こう、廊下にあったその姿もやがて見切れる。ハナは仕方なくモニター画面へ向きなおった。
そんなハナも同様に、ウキウキ退散の準備に取り掛かれたなら文句はない。しかし現実、続く「独り身」に変わりはなく、どうにも持ち上がらない尻で最大限、帰る準備を整える。まとめていた髪をただほどいた。
「だって女はガッツリ休まなきゃ、子供だって持てないものねぇ」
「そういえば常盤さん、聞いてますか」
投げた声は、昨晩から同じシフトに入っていたオペレーターだ。AIを補助に各署への入電を監視していたようだが、余談が口を突くとは、やはり業務に物足りなさを感じていたらしい。
「ん、何のことぉ」
形だけでも仕事に戻り、ハナは答えて返す。
「今やってる予算委員会でオフィスの吸収合併が決まるんじゃないか、って話です」
「ああ。それね」
そう、こちらも芳しくない話だった。
「最近、チーフもこっちへは顔を出さなくなってきたし。そのことで上とやりあってるんじゃないかって。日本ってそもそも当初から事件数が少なかったじゃない。ナイロンを挙げたから今でも体制が維持されてるけど、そっちもそろそろ法的に決着がつきそうだってハナシだから、しょうがない成り行きといえば成り行きよね」
モニターを見ていたはずの目を遠くへ投げやる。思い当ってオペレータへと振り返っていた。
「そうなると、そっちもいろいろ不透明なんじゃない」
「自分は自衛官なので」
などと申し訳なさげなオペレーターが言わんとしているのは、自分には帰る場所がある、だろう。
「ああそっか。そういえば曽我さんもだったわよね。じゃあオツさんは航空会社へ戻るのかしら。レフはロシア、それとも奥さんのこともあるから案外、アメリカだったりするのかもね。ハートは元々機動隊からの出向だし。いずれにせよみんなバラバラってところか」
すっかり張った肩をもみほぐしてみる。ついでにチラリ、壁の時計も盗み見た。表示にある時刻は十一時四五分。こうしては人生は浪費されてゆくのだろう。などと大げさにでも考えないと大事な部分がサビ付いてしまいそうでならず、やがてじんじん熱を帯びてきた肩を大きく回して仕上げにかかる。勢いのまま床を蹴り出し、デスク前から椅子を後ろへ滑らせた。
「常盤さんは地上の公安へ、ですか」
尋ねるオペレーターにそれはどうだろう、と思い巡らせる。
「あたしとストラヴィンスキーは合併先に配属、って流れこそないと思う。ここの詳細はチーフが把握しているし。守秘義務は一生付きまとうわけだけど経費削減が目的なら、普通は切られるかヒラに逆戻りが相当よね」
などと半ば冗談だったが、残り半分はかなりの信ぴょう性があった。
「なんだか報われない話ですね」
「あら、組織に生きる軍人がそれ言っちゃマズいんじゃない」
「みなさんのご尽力は存じ上げておりますので」
「平素からのバックアップ、心より感謝いたしております」
かしこまるオペレーターに目礼されて、ハナも調子を合わせて返す。そうして控えめに互いは笑い合った。
「ここ、性にあってたんだけどなぁ」
つい口を割って出るのはそんな言葉で、つまり他では合わなかったということになるのだが、ほじくり返す利こそない。ハナはシステムからログアウトを済ませる。席を離れるべく立ち上がった。異常は目でというより、そのとき肌で感じ取っている。醸すオペレーターの指は繊細と、ヘッドセットのマイクをつまんで角度を調整しなおしていた。
「入電ありました」
冗談でないことは、先ほどまでの声とあまりにトーンが違っている。だとして慌てふためくなど今さらだろう。ハナは、むしろ長らく緩んでいた何かがカチリ、かみ合う音を内から聞く。
「はいはい。それで何て言ってるのかしら」
デスクに放り出していた端末の、イヤホンジャックを確認する。しっかりつながっていたならコードを首へ回し掛け、オペレーターの元へ足を繰り出した。
身支度ついでに帰るコールのひとつでも入れていたに違いない。廊下では戻ったハートの声がおもむろに響いている。
「遅いぞ、ストラヴィンスキー。引き継ぎを済ませたらさっさと帰るからな」
「何言ってるんですか。まだ十分前ですよ。ハートがせっかちなだけなんじゃないですか」
これまた絶妙と姿を現したストラヴィンスキーにはそういう運命なのだ、としか言いようがない。
背にオペレータ―はかつてと変わらぬ段取りで、別室の曽我へ一報を入れている。入電情報を情報を端末への送信に備えまとめ始めた。
ひと足先にその手元をのぞき込んだハナは、まだなんだかんだと言い合うハートとストラヴィンスキーの声へそうして顔を上げる。
「二人共そこまでよ。SO WHAT がらみの一一〇番があった」
押し合うようにオペレーティングルームへ入ろうとしていた二きはとたん、間違いなくそこで動きを止めていた。
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