第 2話 AM 10:45

「あ、これね」

 言われてストラヴィンスキーはテンプルへ手をあてがう。

「最近、手放せなくなって」

 だとして事故で記憶が飛ばず視力が飛んだことも、すったもんだの末に今の部署に配属されたせいで同窓会どころではなくなったことも、決して言えることではない。その全てをはぐらかすのが面倒で付き合いからも足が遠のいていたなら、なおさらのことだった。

「そりゃ申し訳ないことしたなぁ。あれから忙しくて時間も取れなくて」

 詫びるところはしっかり詫びて、とぼけて返す。なら「そうそう」と目を丸くしたあすかは立て続けにこうも口を開いてみせた。

「いつからこっちに? 今日はお休みとかで?」

「あ、いや。今から仕事へ。前に、そこで昼を。いや朝かな。食べてた」

 店の方向をストラヴィンスキーは指し示す。

「こっちへは仕事の都合かな。三年前に引っ越してきた」

「ええっ」

 とたん驚くあすかの顔は、驚きが過ぎて引きつったような具合だ。

「あたしも去年からこっちに来てたのにっ。ほら、駅前のスーパー。牛乳が安いでしょ。週二で行ってるのよ。ずっとニアミスしてたってわけ?」

「あー、マックスなんとか。あるね」

 確かに利用する店ではあったが、牛乳が安いかどうかまでは記憶にない。むしろ二十四時間営業の方が重要事項とストラヴィンスキーの脳には刻み込まれていた。

「会わない時は会わないものね。逆にこんな所で」

「いやはや」

 いうほかなく、おかげで頃合いも訪れる。

「お子さん?」

 満を持して足元へ視線をやった。よいしょ、でストラヴィンスキーはバギーへ屈み込む。ゾウのプリントがちりばめられたおくるみは黄色く、そこで赤ん坊は熱っぽさをまとうとかけられたタオルケットの中でもぞもぞ動いてみせていた。

「そう。去年、生まれたの。はると」

 教えてのぞき込むとバギーへ身を屈めたあすかの気配が、やおら母親のソレへ変わったのを感じ取る。ままに「はるとー」と呼び掛ける声を聞いていた。

「このお兄さんはママの高校のお友達。クラスの女子にモテモテだった外田君よ」

「これはこれは、知らないうちにご結婚、おめでとうございます。っていうかその紹介はどうかと思うな」

 ついに出たかつての調子に、ストラヴィンスキーも違わずツッコミ返す。だが当のあすかはと言えば、やはり変わらずかつての調子で白い目をストラヴィンスキーへと向けていた。

「あーら、何言ってるのよ。へいちゃんは呑気だから全然、気付いてないだけ。いったいどれだけ女の子を泣かせたか、ってハナシ、またとことん聞かせるわよ」

「ホントかどうだか。全く覚えがないんだけど」

「はいはい、ソレソレ。そんなに鈍くてお巡りさんだとか。こりゃ、やっぱり心配だわ」

 などとあすかが肩をすくめてみせたなら、言い合う語気にやられたのか、それともこのお年頃には不人気な眼鏡のせいか、さかいに赤ん坊は泣き出し始める。すぐさま抱き上げたあすかの手つきは慣れており、黄色いおくるみの背を撫で揺すると、おむつの具合もまた確かめた。

「うーん、出てないね。そらそら、どうしたー。ミルクかなー」

「いやいや、署で地下の外田から勧められて相談に来ました、って言ってもらえればスムーズに対応してもらえるくらいはやれてるよ」

 見せつけられた一面に、ストラヴィンスキーこそ置いてけぼりを食らったような気になる。だからこそ強気で返せば、赤ん坊を肩へもたせかけたあすかは顔を上げていた。そのとき確かと視線は強張り、だからこそ唐突なまでに浮かべた笑みであすかは冗談、と言わんばかりに覆い隠す。

「そんなこと、することになるなんて大事じゃない。来年ね」

 切り出す言葉で話題を変えた。

「久しぶりに同窓会をやろうって話が出てるみたいよ」

 跳ねて赤ん坊もまた抱えなおす。

「そろそろ転勤や結婚で前ほど集まれなくなってきてるから最後に、って。顔、見せてくれたらみんなも喜ぶと思うんだけれど」

 誘いは思いがけないものだったが、確かに今であれば急に呼び出される心配もなさそうで、事故云々についても弁明しておかなくては、そのうち死亡説でも流されそうでならないと思えていた。いやむしろ先行き怪しい部署をクビにされた後を考え人脈作りにいそしんでおいてもいいんじゃないのか。ストラヴィンスキーは過らせる。

「来年か。なら行けるかもしれないな」

「よっし、じゃあ決まり。連絡先、交換しておかない? 決まったら知らせる」

 否やバギーに提げられていたカバンから、赤ん坊片手に携帯電話を掴み出すあすかは器用だ。

「ああ、了解、了解」

 尻ポケットの私用のそれへ、ストラヴィンスキーも急ぎ手を回していた。圧倒的に使用頻度の低い操作にまごつくも、交換の準備が整ったところであすかのそれを追い越していることに気づく。

「あれ、ん」

 画面を突っつき格闘するあすかはどうやら、かけられたロックが解けない様子だ。そう、自分の携帯電話なのに、である。うちにも当の携帯電話から呼び出し音は鳴っていた。急ぎ耳へあてがいあすかはストラヴィンスキーへ背を向ける。向こうでかわされる会話は小声とひそめられてよくは聞こえず、ただうなずいているのか、頭を下げているのか、揺れる背中だけをしばしストラヴィンスキーは眺めて待った。かと思えばその背中はあさっての方へよじれて振り返る。

 白いツーリングワゴンだ。

 いくらも走る車両の中から間違いない、と見定めたのはまったくもって職業柄というヤツでしかない。ウインカーを点滅させて二人を目指し、それは見る間に減速していた。違わず真横でブレーキは踏まれ、運転席のドアは弾き開けられる。中から男は姿を現すと駆け足でボンネットを回り込み、歩道へと飛び上がった。動きに惹きつけられるのはノリの利いたシャツの白さか。先入観を抱かせるほども神経質、いやナルシズムに溢れて眩しく、きっちり撫でつけられた髪も、メタルフレームの眼鏡も、銀行員のピトグラムかと思うほどスキがない。だが銀行員であればこそ忙しい時間帯だ。スタイルに余念がないほど違和感だけが増してゆく。

「何してるんだ。ぐずぐずしないで帰らなきゃだめだろ」

 携え開口一番、あすかへ投げた。

「失礼ですがそちらは?」

 そうしてストラヴィンスキーへと振り返る。

「妻に何か用が」

 おかげでなるほど、と思わされていた。

「あ、初めまして。高校時代の友人の外田と言います」

「たまたまさっき、ばったり会ったの」

 ちょうど通りかかったところで、言いかけたところをあすかにすっかり奪われる。勢いは追い立てられているかのようで、すかさずあすかはストラヴィンスキーへも目で示してみせていた。

「へいちゃん、夫の浩紀」

 流れでようやく「初めまして」を口にした浩紀の一礼こそ今さらだろう。なおさら強調して「さあ行こう、はるとも泣いてるじゃないか」と立ち去る意を示してみせる。

「見ての通りなので、ここで失礼させていただきます」

 取ってつけた断りに、いえこちらこそ、などと言い切るヒマもない。浩紀はもうあすかの背を押し出しており、「ごめんなさい」というあすかを引き連れバギーを押すと、ツーリングワゴンへ向かってゆく。

 背にストラヴィンスキーは思わず呼び止めかけると息を吸っていた。

 だが吐き出せずもてあます。

 民事は不介入が原則だ。

 所属部署が部署ならなおさらだろう。

 連絡先の交換どころか別れのあいさつすらなおざりだった。

 ただ残る思いを次の思考へ回すことにする。

 前でバギーから赤ん坊の納まるソケットだけを抜き取った浩紀は後部座席へソケットを固定し、残りをトランクへ放り込んだ足で運転席のドアを引き開けていた。

 固定されたソケットへ、助手席からあすかが赤ん坊を寝かせている。終えて自らの体へ手早くシートベルトを添わせたなら、申し訳なさそうにちらりストラヴィンスキーの顔をとらえてみせた。だとして挙げ返した手は控えめにならざるを得ず、やがてツーリングワゴンは走り出す。

 そのナンバープレートをもう一度、ストラヴィンスキーは目と記憶に焼き付けた。オフィスへ向かいただ歩き出す。

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