39 黒い瞳
……ファ。サルファ。
ゆっくりと、手の先に熱が通っていくような感覚があった。体はだるく、砂に埋もれたように重い。瞼の裏が白くなり、反射で僕は眉をひそめる。瞼を持ち上げると、水の中で目を開けたように視界が揺らいだ。乾いた風が吹き、微かに花の香りが僕の鼻に届いた。その香りが不思議と気持ちを落ち着かせた。やっと輪郭がはっきりとしてきた視界の中で、宝石のような双眸が僕の顔を覗き込んでいる。
「二回目ね。この起き方」
風でなびく黒髪を掻き上げて、アリージュはクスクスと笑った。頭をもたげて見回すと、周囲は寂れた砂岩壁で囲まれている。あるはずの屋根は崩れていて、彼女の背中越しに陽光が僕の顔に落ちてきて眩しかった。あの陽の高さということは、今は昼前だろうか。僕は彼女の膝を枕にして寝ていたようだ。僕はぼんやりとした意識のまま、半ば衝動的に彼女の首に腕を絡めて引き寄せて強く抱き締める。突然のことで彼女は驚いたのか肩を強ばらせていたが、段々と力が抜けていくのがわかった。アリージュの黒髪が僕の頬をくすぐると同時に、彼女の細い腕が僕の背中に回される。
「アリージュ……」
僕が彼女の首筋に鼻を埋めると、花の香りがいっそう強まった。彼女は何も言わず、ただ僕の疲れた体を包み込んでくれた。温かい。乾期のさらりとした爽やかな風とも違う、このまま溶けてしまいたいような温かさだった。僕はその心地よさに身を浸していた。
「誰にも見つからずに抜け出してくるのは、大変じゃなかった?」
アリージュの体を離して、僕は上半身を起こした。節々が軋むけれど、怪我をしているわけではなさそうだ。僕の問いに、アリージュは首を左右に振る。彼女の髪が肩からさらさらと落ちていった。
「ジュナ姉さんがタミユさんたちの目を盗んで逃がしてくれたわ。その後はアズファンさんが迎えに来てくれていたから、裏通りを通って人目につかずここまで来ることができた。みんなが助けてくれたから、大丈夫だったよ」
大きな黒い瞳に涙がにじんでいた。姉と慕っていたジュナさんとの別れは、彼女としても辛いものがあっただろう。僕はアリージュの右頬を包み込み、親指で目尻を拭ってやった。彼女は僕の手を両手で包み込んでいた。しばらく、お互いの手の温もりを感じていた。
突然、大きな咳払いが聞こえた。僕はとっさにアリージュを背中に隠す。元々は扉があったであろう入り口に、見覚えのある背格好が見えた。
「おう、目が覚めたか」
ナセルが壁にもたれかかりながら立っていた。追っ手じゃなかったことにホッとして、僕は力が抜けた。まだ体が覚醒しきっていないようだった。アリージュを抱き締めているところを見られていたのだろうか? 気恥ずかしく思っていると、ナセルが僕に水筒を投げてよこした。落としそうになりながらも受け取り、水筒の蓋を開けて軽く口に水を含む。水はたちまち喉に染み渡っていった。喉が潤っていくにつれ、ぼんやりとしていた頭がはっきりしはじめた。そうだ、僕はこの近くまで歩いてきたところで気を失って倒れてしまって……。そこから先が思い出せなかった。
「僕は……?」
「焦ったよ。アリージュさんが壁の外を見回ってくれてたから良かったものの、あのままもう一回砂嵐に遭ってたら砂に埋もれて死んでたぞ。無茶しすぎなんだよ。一日中目を覚まさなかったんだぞ」
「そんなに?」
ナセルは僕らのそばに座り、荷袋の中から食料を出して並べてくれた。ヒラバを蒸してすりつぶしたものに、香辛料で炒めた肉や野菜のおかずが三種類。食事をほぼとらずに砂嵐の中を進んでいた僕は、腹が減っていた。「食え」とナセルが僕に勧めるので、言葉に甘えて食べはじめる。ひとくち食べるごとに体に血が巡っていくようで、食べ終わる頃にはすっかり体も元の調子に戻りつつあった。
「おまえがこの街を発ったその日に、一座の世話役の女性が俺を訪ねてきたよ。おまえの使用人証を持っていて、タミユと名乗っていた。俺に捜索隊を出せないか、と頼んできたよ。『何人か見繕って早速捜索隊を出す』と伝えたから、煙亭に滞在して俺からの連絡を待ってるはずだ。おまえらがこの街を出てしばらくしたら、砂漠で亡くなっているのを発見したと伝える。そうすれば彼女も納得してこの街を去るだろう」
水を飲みながらアリージュの方に目を向けると、長い睫毛を伏せて俯いていた。いくら一座でひどい目に遭っていたといっても、タミユさんには散々世話になったはずだ。多少、良心の呵責があるのかもしれない。
「それで、だ。サルファたちが砂漠で死んでいた、という証拠をタミユ女史に見せなければならない。証拠はどうする?」
僕は迷うことなく、荷袋の中からナイフと懐中時計を取り出した。この計画を考えたときから決めていた。ナセルは眉根を寄せて僕に問う。
「これ、親父さんとお袋さんの形見じゃないか。 持っていかないのか?」
「座長は僕の荷物の中身を一度暴いて確認してる。そのときに、このナイフと懐中時計も見ていたはずだ。タミユさんにこれを見せて座長に伝えてもらえれば、彼も本当に僕が死んだと思い込んでくれるだろう。それに……」
「それに?」
ここに辿り着くまでに見た砂漠での夢が頭をよぎった。砂しかない乾いた世界で、僕をこの街に導いてくれた、父さんと母さん。きっと、二人もこの街に戻ってきたかっただろう。だから僕をこの街に戻してくれたのだ。二人にとってはこの街が、幸せの形だったのかもしれない。
「……せめて二人の遺品だけでも、この街にいさせてやりたいから」
タミユさんに見せた後はブルジャーワシおじさんに渡しておいてくれと言付けると、ナセルはわかったと受け取ってくれた。
「さて。アリージュさんはどうする? 荷物も最低限しか持ってきてないと思うんだが、何か一目見て貴方のものだとわかるものはあるか?」
今度はナセルがアリージュに問う。アリージュの装いはナセルが用意してくれたのか、すっかり砂漠の旅装になっていた。それに対してそばに置かれた荷物は、これから砂漠を旅するには心許ない量だった。夜中に誰にも気づかれないよう煙亭から脱け出すため、荷物をそんなに持ってこなかったのだろう。考えこんでいたアリージュは、何かを思いついたように笑ってこちらを向いた。
「サルファ。そのナイフ、貸してもらってもいいかしら?」
「ナイフ? いいけど……?」
不思議に思いながら返事をすると、彼女はナセルに手を差し出した。ナセルもおそるおそる父の遺品を彼女に手渡した。彼女はすらりと鞘からナイフを抜き出し、自分の黒髪を掴んだ。
「あっ!」
僕とナセルが叫んだと同時に、アリージュは迷いなくナイフを一薙ぎした。艶やかな黒髪が、金色の装飾と赤い紐でできた髪留めと共に切り離される。肩より短くなった髪は、解放されたようにふわりと風になびいた。
「この髪留めはマーシャル座の踊り子たちしか持っていないものです。黒髪の踊り子は私だけなので、これが証拠になるでしょう」
ぽかんと口を開けて彼女を見つめる僕とナセルをよそに、彼女は強い目をしていた。初めてここで逢ったときの慈愛に満ちた目でもなく、踊っているときの情熱的な目でもない。決意した目だ。短くなった髪の隙間から見える彼女の黒い瞳が、日に照らされて美しく輝いていた。
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