38 夜明け

 まず僕が疑われることなく、一人でキャラバンに同行するまでは上手くいっている。あとは砂漠を南回りで横断し、東の廃墟群の近くまで行くだけだ。ナセルたちが壁に穴を空けてくれていれば、アリージュに会えるはずだ。そう思って僕は一歩ずつ、捉えどころのない砂を踏みしめて進んでいった。先ほどよりも砂嵐の勢いが増している。気持ちの昂ぶりに反比例するように、視界はめっぽう悪くなっていくばかりだ。日が落ちるまでには街の南側に辿り着きたい。休むことなく、風に体を預けるようにしながら歩き続けた。


 先の見えない道を進んでいくのは怖い。無事に街に戻れたとて何もトラブルなくアリージュと二人で出ることができるかわからないし、知らない土地で生きていけるかもわからない。僕はキャラバンに参加して生計を立てることしかやったことがないし、アリージュは踊りと夜の世界だけで生きてきた。未来に何が起こるかなんて誰にもわからない。今の僕にできるの、ひたすら前に進むことだ。僕を信じてくれる人たちのために。そして、僕が愛しく思う人のために。たとえ砂嵐に飲まれようと、砂漠の外には広い世界があることを、僕はもう知っているのだから。


 ごうごう、と砂の音が鼓膜に響く。前後左右の方向がわからなくなっていく。携行羅針盤を確認しているから進むべき方向は合っているはずなのに、いっこうに街の門壁まで辿り着く気配がない。視界が段々と暗くなってきていて、焦りばかりが僕の体力を奪っていく。背中に冷たい汗が流れた。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。

 砂嵐の最中を歩くのは自殺行為だと昔は言われていた。前後不覚になり、方向感覚を狂わせるからだ。また、砂混じりの強風の中を進むのは考えているより体力を消耗する。携行羅針盤が登場し、キャラバンでも砂嵐対策が打たれたことから、遭遇したときの事故率は減ってきた。ただ、それはしっかりと装備し、複数人で協力し助け合うからだ。一人で砂嵐に遭ったときには、動かず体力を温存するのが正解とされている。その危険があったとしても、この方法が確実なのは間違いなかった。そう自分に言い聞かせ、震えそうになる心臓を押さえつけるように胸元に拳を押しつけた。落ち着け、落ち着け。嘲笑うかのように、小さな竜巻が突然僕を飲み込んだ。思わず目を瞑り、足を止めた。けたたましい風の音だけが僕をとりまく。こうなっては、もう一歩も動けない。どうすれば。どうすれば。


 暗闇の中で堂々巡りしていた、そのときだった。微かに聞き慣れた声が聞こえた気がした。幻聴だろうか? とりあえず落ち着かなければならないと思い、僕はその場でザマを引き寄せてうずくまる。


 サルファ。


 今度ははっきりと名を呼ばれたように思えた。男の人の、静かな低い声だ。どこか懐かしく、安心する声だった。僕はおもむろに立ち上がり、その声がする方に足を運んでいた。進むべき道がわからないのに、なぜか不安はなかった。ザマは大人しくついてきてくれていた。


 そう、こっちよ。来て。


 今度は女の人の声。「温もり」という曲を楽器で奏でたような音だった。僕は少し小走りになっていた。頭に巻いた布で息が苦しかったけれど、早く声の主に会いたかった。僕は、二人の声を知っている。


「どこにいるの」


 そう叫ぶが、砂嵐の轟音で掻き消される。薄く開いていた目から、自然と涙が流れ出てきた。涙でにじむ視界に、ほのかに光る何かが見えた。その光の中にいるのは、佇み、寄り添いあう人間だった。彼らは僕の方に視線を向ける。いつしか轟音は聞こえなくなっていた。静かな空間で僕に向かって微笑むその人たちは。


「父さん! 母さん!」


 僕は二人に向かって手を伸ばした。その瞬間、光は四方に発散し、父さんと母さんも白くなって消えていった。もう少しで母さんの手を掴めるはずだった僕の手に、ざらりとした感触が伝わってきた。冷たく堅い壁だった。光もなくなり、ただまたごうごうという風の音がするだけだった。

 造りを見るに、目の前に現れた壁は街の外周をぐるりと囲む門壁だった。もう一度携行羅針盤を確認すると、街の南端ほどまですでに進んでいたようだ。先ほどの道をそのまま歩き続けていれば、近くにあった門壁に気づかずに砂漠の方へ迷い込んでしまっていたかもしれない。背中に流れていた冷たい汗は、いつの間にか乾いていた。


「ありがとう……」


 壁に額を当て、父さんと母さんに礼を言った。父さんと母さんが僕を街まで戻してくれたのだろう。僕は自然と受け止めることができた。キャラバンで何度も危険を超え、この街を愛していた二人だから、僕を導いてくれたのかもしれないと、そう思った。


 日が暮れかけているが、砂嵐は止みそうにない。このまま寝てしまうと砂に埋もれる危険性がある。ザマの体を風よけにしながら、布の中で水を飲み、干し肉をかじった。砂のジャリ、という感触が舌に残ったが、贅沢も言っていられない。ザマにも水を飲ませ、そのまま壁を伝って東方を目指すことにした。


 辺りはすっかり闇に包まれた。左手に感じる壁の感触だけを頼りに進んでいく。ザマを手綱を引く右手と、砂を踏みしめる両の足裏が焼けるように熱い。無理もない、休みもそこそこに、一日中ザマに乗らず引きながら歩いているのだから。はあっ、はあっ、と自分の息が上がっているのがわかる。苦しい。辛い。暗い井戸の底でもがいているような気持ちになった。


 アリージュ。アリージュ。心の中で、彼女の名を何度も呼んだ。

 夜通し、星の数を数えるように彼女の名を呼んだ。

 一瞬にも、数年にも感じるような不思議な時間だった……。


 「ヴァ」というザマの鳴き声で、僕は視界の端の色が鮮やかになってきていることに気づいた。一晩続くかと思っていた砂嵐はいつの間にか止み、自分とザマの呼吸と足音以外なにも聞こえない、そんな時間をしばらく過ごしていたときだった。東を見ると、一面の砂の陰影が徐々に浮かび上がっていく。濃紺から紫へ、紫から橙へ。地平線の彼方が、黄金色に変わっていく。


「朝だ」


 そう呟いたのを合図に、砂から太陽が生まれ出た。朝陽は煌々と輝いている。なぜか、アリージュの踊る姿が思い出された。熱をもった輝きに、僕はしばらく目を奪われていた。眩しさで、目の奥が熱い。砂嵐に耐え、寝ずに一昼夜活動していたからだろう。頭が働かなかった。僕はその場に力なく倒れ込んだ。もう一歩も動けなかった。目の前がぼんやりとかすんでいく。薄れゆく意識の中で、また僕を呼ぶ声がした。応えようとするが、乾いた唇は思ったように動かなかった。


 かすんだ視界の中で、黒髪が揺れたような気がした。

 花の香りがする。

 そのまま、目の前が暗くなっていった。

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