36 お元気で

 彼女も起床したばかりなのか、いつもの豪奢な服ではなく質素な軽装だった。化粧もほどこされておらず、いつもより目尻のしわが目立っていた。立ち尽くす座長を支えるように腕を掴んで彼女が叫ぶ。


「座長。昼までには出発しないと、次の興業に支障が出ます。私がこの街に残って、アリージュを探しますわ。必ずアリージュを見つけて追って行きますから、座長はご準備を」


 座長は何も言わず、ただタミユさんに支えられて虚空を見つめている。先ほどまであんなに苛烈だった人だとは思えない。よっぽどアリージュの行方がわからなくなったことにショックを受けたのだろう。僕がさらったのでないのなら、この街の外に出てしまったのかもしれない。タミユさんも、立ち尽くす僕を半ばにらみつけるような、でもどこかもの悲しい目をしていた。


「タミユさん。アリージュのこと、聞きました。もしこの街を出てしまっていたら……。この砂漠の中です。かなり探し当てるのは難しいと思います」


 タミユさんは、ああ、と言って顔を手で覆った。キャラバンの隊列はまた歩みを始めた。僕は前衣の中を探り、手のひらにおさまる大きさの木板をタミユさんに手渡した。カリーラ家で働いていたときの使用人証だった。カリーラ家の家紋が入っている。


「このカリーラ家の、ナセルという男を訪ねてみてください。煙亭で一度ご挨拶させてもらったこともある、銀髪の男です。この使用人証を渡せば、僕の紹介だということがわかります。あの男はザマ飼いですし、このあたりの地理にも詳しい。きっとアリージュ探しに協力してくれますから」


 タミユさんは涙を流していた。まだ感情の整理がついていないのか、僕が渡した使用人証をただただ見つめているだけだった。


「すみません。アリージュと親しくしていた僕としても探したいのはやまやまなのですが……キャラバンに行かなくては」


 僕はあぶみに足をかけ、もう一度ザマの背に上がる。隊列は少し離れてしまっている。座長とタミユさんの姿を見下ろした。やけに二人が小さく見えた。


「お世話になりました。これからもお元気で」


 そう声をかけて、返事も待たずにザマの手綱をひいた。ザマは「ヴォ」と応え、ゆっくりと歩き出した。僕は振り返らなかった。

 門をくぐった途端、視界の隅々にまで砂の世界が広がった。乾いた砂の香りと、ざ、ざと砂をかきわけるザマのひづめの音。まだこの季節にしては柔らかい朝の日差し。僕の呼吸音。肺が熱気で満たされる、この感覚。四年前、初めてキャラバンに参加した日のことを思い出す。前の日は寝れなくて、朝焼けがやけに眩しくて思わず目を瞑った。そこには今まで踏み入れたことのない砂の世界が広がっていて、もう僕は街に帰れないかもしれない、と怯えたものだった。今、僕はこの街に別れを告げようとしている。


 キャラバンは街の西方に向かって、一歩一歩確かめるように歩みを進めていく。ときどき携行している水を口に含むが、太陽の照りつけからは逃げることができない。ただザマに乗っているせいか、足下の熱気を感じずに済むし、少し風を感じる。舗装されていない砂の上を歩くと鞍の上では体が大きく揺すぶられるが、いつもよりかなり楽だった。背中にじわりと浮かぶ汗を感じながら、静かに体力を温存しつつ最後尾についていった。

 砂の向こうに太陽が隠れていくにつれ、空には薄く夜が重ねられていった。西方行路の宿営地に辿り着いたところで、班にわかれて野営の準備を行う。テント設営班、ザマ管理班、炊事班などが、最低限の火種だけで歯車が噛み合うように動いていく。キャラバンタたちの働きぶりは見ていて楽しい。僕は班に割り当てられていないので、自分のザマを休めるため、一通り体を拭いて水を飲ませてやる。久しぶりの遠出で少し疲れたようだが、老齢のザマだからか、無駄に興奮して動き回ることもなく落ち着いている。ザマの固く張りのある毛を撫でながら、働く男たちの所作を見つめていた。


 食事を終えたところで、灯りのついた隊長のテントへと足を運ぶ。中からの返事を確認して幕をめくると、書類仕事をしているカシュロ隊長がいた。折り畳み机と椅子が小さいのか、筋骨隆々とした体が窮屈そうに丸められている。そばに置かれた椅子を勧められたので、僕はそこに座って待っていた。長く目を通していた書類に署名をしたところで、カシュロ隊長が筆を置いて大きく伸びをした。


「隊長になると書類もさばかなくてはいけないから、肩がこって仕方ない。何か用だったか?」


 僕は立ち上がり、今朝のことについてまずは礼を言った。カシュロ隊長は「ああ」と簡易机に頬杖をついた。


「本当のことを言ったまでだ。まあ、おまえを無事に街の外に出す、までが契約の内だったからな」

「ありがとうございました。明日の朝には、キャラバンから離れます」

「事情はカリーラの息子からあまり聞いていないが、本当は断ろうかと思ってたんだよ。めんどくさいことに巻き込まれたくないしな」


 カシュロ隊長が胸から葉巻を取り出した。ランプの火を移してから、大きく深呼吸するように口に煙を含んだ。分厚い唇の隙間から、白い煙がくゆり出す。


「一度、金を払ってまで踊り子をさらいたいと思ってる若僧の顔を拝むのもいいかと思って受けたんだ。それがこんな真面目そうな奴だとは思わなかったよ」


 「まあ、金がよかったってのもあるけどな」と笑うカシュロ隊長に、僕も苦笑いした。彼は葉巻の先で、僕の顔を指した。


「おまえはいい目をしてる。大切なモノがわかってる顔だ。そういう奴は好きなんだ。こっちはうまくやっておくから、明日は気をつけて行きなさい。予砂士が明日、南方に砂嵐が通るといっていた」


 ちょうどそのとき、天幕の外から副隊長の声がした。カシュロ隊長は右手で「早く行け」と合図した。僕は頭を下げてから、天幕の外へ出た。

 視界いっぱいに広がる夜空は、街で見るよりも暗く思える。しかし、そこに散りばめられている星々はより鮮明で、数も多い。独りでキャラバンに参加しているときは、空を見上げる余裕などなかった。ああ、こんなに綺麗な世界にいたんだな。ザマの体を撫でてやると、気持ちよさそうに睫毛まつげが二、三度瞬いた。


 翌日の早朝、キャラバンと別れ、僕はひとりザマに乗って行路から逸れた砂漠の中を進んでいった。風がびゅう、と音を立てていた。

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