35 石を無くした子ども
振り向くやいなや、僕は服の袖を掴まれ半ば強引に地面に引きずり下ろされた。手綱を引いてしまい、ザマは苦しそうに一鳴きした。僕自身も倒れそうになったが、なんとか踏ん張って耐えた。危うく怪我をするところだった。
目の前には、マーシャル座の座長が立っていた。朝が早いからだろうか、舞台で見る一分の隙もない正装ではなく、寝間着に一枚羽織っただけの姿だった。薄くなった頭髪は力なく跳ねており、髭もあちこち好きな方向を向いてしまっている。息は荒く、目をこれでもかと見開いて僕のことを睨みつけていた。
「おまえだろう! 正直に言え。こっちはわかってるんだ」
座長の声が大きかったので、騒ぎは水の波紋のように隊列の前方に伝わり、隊列止まれの号令が聞こえた。ゆっくりと止まった皆は、なんだなんだとこちらの様子をうかがっている。その視線を気にすることなく、座長は再び声を荒げる。
「さあ、早く言え! こちらも今日出発しなきゃならん」
「落ち着いてください、どうしたんです」
そう尋ねると、癇に障ったのか彼は僕の胸ぐらに掴みかかった。後ろに従えていた使用人が慌てて制止しようとするが、「うるさい!」と座長に一喝されて動けなくなっていた。
「アリージュのことに決まってるだろう! 夜までは部屋にいたのに、朝になって煙亭のどこにもいない。おまえはアリージュのことを気に入っていたな。おまえが連れ出したんだろう!」
座長は僕の首を締め上げるように服を掴み引き上げたが、何も痛みもなかった。筋肉よりも脂肪を多く蓄えた丸い拳が、僕の視界の端に映り込むだけだ。僕はその右手を掴み、力を込める。「ぬっ」と座長が唸った隙に、襟からその手をたやすく引き離すことができた。
「アリージュのことはわかりません。確かに、アリージュとは何度か二階で一緒に過ごしましたが、それだけです。僕は今日からキャラバンに参加するし、アリージュを連れてなどいません」
座長はその言葉を聞いているのかいないのか、ふう、ふう、と苦しそうに呼吸している。その様子はまるで、何もかもが思い通りにならずに癇癪をおこしている幼い子どものようだった。自分が気に入っていた石をなくしてしまい、周りにわめき散らかしているのと同じだ。なくしたのは、自分が石を粗雑に扱っていたからなのに。
アリージュに対して厳しく当たっていた座長に最初こそ怒りを覚えたものの、今は少し憐れに思っていた。先ほど掴んだ座長の手は熱く、力が制御できずに震えていた。踊り子を囲うことでしか、身寄りのない弱い立場の女性たちを威圧することでしか、自分の存在価値を見いだせないのかもしれない。取り乱す座長は、自分を止められなくなっているように見えた。
「うるさい! 貴様、ザマの背中に積んでいる荷を見せろ。前方の荷橇に積んでいる
キャラバンの荷も、すべてだ! アリージュを隠してるんだろう、おい!」
「どうされました?」
座長のどすぐろい熱を冷ますような、涼しい穏やかな声が僕の耳に届いた。前方にいたカシュロ隊長が、後方の様子をうかがいにきたところだった。座長と並ぶと、筋肉と脂肪の対比が余計に目立つ。
「この御方は?」
カシュロ隊長が僕に尋ねてきたので、素直に答える。
「ここ一ヶ月ほど煙亭に滞在されていたマーシャル座の座長です。踊り子の一人がいなくなったとおっしゃって」
「だからおまえが連れ出したんだろう! アリージュがいなくなった朝にこの街を出るなんて、怪しいんだよ。早く荷を見せろ!」
僕たちの話に怒鳴り声が割り込んできたが、カシュロ隊長は動じることなく僕の代わりに答えた。
「御仁、そりゃあ無理ってもんです。荷橇の荷をばらして確認してる時間が私らにはございません。西方から南方にかけて砂嵐が近づいてるって
そう言ってカシュロ隊長が門衛に声をかけた。真面目そうな門衛は、「はっ」と返事をしてすぐさま隊長の方に駆け寄ってくる。まだ新人なのか、動きがきびきびとしていた。
「キャラバンは門の通過時に荷の内容を確認できないんで、事前に荷を広場に並べて門衛が確認してるんです。その確認表がこれです。ちょっとこの御仁に、隊員名簿と荷の確認書類を見せて差し上げてくれ」
状況が読み込めていないのか、門衛はきょろきょろとそこにいる人間の顔を見回してから、書類を座長に手渡した。食い入るように書類の文字を目で追っている。僕も横から盗み見る。隊員の名簿に、もちろんアリージュの名前はない。荷物の確認書類にも隊員のテントの数から水の量、皿の枚数まで事細かに記録されていたが、女性のドレスや支度道具などは書かれていなかった。座長の手が強く握られ、書類には皺がついてしまった。
「ね。私も商人ですから、踊り子がいなくなって焦る気持ちはわかります。でも今回は、サルファもキャラバンも無関係ですよ。そろそろ出立してもよろしいですね?」
座長は書類をまるめて、門衛に突き返した。門衛は落として散らばりそうになった書類をあわてて手で押さえ込んでいる。
「いや……まだだ。まだこの餓鬼の荷物を見ていない。個人の荷物は門衛に確認されていないだろう? 見せてみろ!」
座長はザマの背にのった荷袋の紐を無理やり解こうとした。ザマが驚いてわななきながらニ、三歩地団駄を踏む。僕が落ち着かせようと手綱をひくと、荷袋の中身がザマの背中からばらばらとこぼれ落ちた。今朝準備した着替えや生活用品や非常食が、砂の地面に無造作に広がった。荷の内容は、どう見ても男一人分の荷物だ。踊り子を連想するものはひとつもない。それを見た座長の顔は蒼白になっていた。
「これでご満足されましたかね? 私らも仕事があるんで、これで失礼させていただきます。おい、サルファ」
「はい」
「荷物をさっさと片付けろ。ぐずぐずしてると置いてくぞ」
カシュロ隊長は座長に一礼してから、門衛と共に前方に戻っていた。荷をかき集めている間も、座長はその場に立ち尽くして肩を震わせていた。僕が荷物をまたザマの背中に乗せたところで、聞き覚えのある声が座長を呼んだ。タミユさんだった。
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